8 熟す花の魅力(中)


 胸の痛みが消えない。朝から行われる英単語のテストの内容を頭の中で反芻しながら、昇降口で靴を履き替えていると、隣に影がたった。ふと見ると、佳苗が神妙な顔をして下駄箱から靴を取り出している。
「・・・佳苗。おはよう」
 あたしが声をかけると、佳苗はいぶかしげにあたしを見て、嘆息する。
「優ちゃんって本当に物好きだよね」
「佳苗こそ」
 あたしが答えると、佳苗は軽く笑い、上履きを床に落とす。その軽い音すら朝のざわめきに掻き消された。
「結城くんと付き合っているの?」
 あたしが聞くと、佳苗は眉をひそめる。
「・・・なんでそんなこと聞くの」
「最近一緒にいるのをよく見かけるから。別にあたしに話さないことに今更責めるつもりもないし、あたしにそんな権利も佳苗にそんな義務もないし」
 佳苗はあたしの話を聞いているのか聞いていないのか、ゆっくり靴を履いて、そのまま教室に向かう。あたしは慌てて追いかけた。
「・・・別に付き合っていないよ」
 あたしが佳苗の隣に立ったとき、佳苗はぽつりと答えた。意外な答えだけど、どこかであたしは感づいていたのかもしれなかった。
「付き合わないの?」
「今はそんなことやっている場合じゃない。それに・・・」
 佳苗は急に立ち止まる。あたしも慌てて立ち止まって、佳苗を振り返ると、佳苗は廊下の窓の外を見つめていた。
「付き合うって何なの?」
「え・・・?」
「優ちゃんは桐川センパイと付き合ってもうずいぶん経つけれど、何が変わるの? 別に友達のままでもいいじゃん」
 そう言って、佳苗は呆然とするあたしを置いて再び歩いて行ってしまった。あたしはただ立ち尽くしていた。その答えはあたしだって知らない。


 それでも今更あたしは奏との付き合いっていうものをやめるわけにはいかなかった。
 だって関係性に名前がないと不安になる。中学一年の頃、友達でもなく恋人でもなく、あたしと奏は毎日のように第三音楽室で会っていたけれど、どこかとても不安だった。片思いのほうが楽しいという意見もあるし、それを感じたことも確かにあるけれど、それでも不安定な気持ちだって否めない。だから奏が卒業したとき、言葉にならない気持ちに押しつぶされそうになったのだ。
「優、ピアノ弾くの久しぶりなんじゃない?」
 学校から帰ってあたしがピアノを弾いていると、母が笑いかけた。
「最近はずっとピアノもお休みしているけれど、相変わらず上手ねぇ」
「・・・そう?」
「高校になったらまた習えばいいと思うわ。優がそうしたいなら」
 そう言って、母は台所へ戻っていった。あたしは再び鍵盤に指を乗せる。
 奏のいない世界で、あたしはピアノなんて弾けない。なのに、きっと奏はドイツへ行ってしまう。付き合ってから、あたしは弱くなった。佳苗みたいにまっすぐな目なんて持っていない。
 あのままあたしには奏と友達になる選択肢なんてなかった。
 不安定な音色が鍵盤にのせられて揺れている。奏に会いたい。会ってちゃんと話を聞きたい。奏の口から、奏のことを。付き合うってきっとそういうことだ。その権利をあたしには与えられているはずだった。
 だからもうあの頃には戻れない。
 ピアノの音色は、無性にあたしを寂しくさせる。それはあたしですら覚えていないほどの、心の中に染み付いた記憶から来ているとしたら、一生拭えない感情だ。あたしはそれを持って死ぬまで生きていくんだ。だから一人はとても辛いのかな。
 ねぇ、奏。あたしは思う。きっと奏だって一人では生きていけないでしょう。あたし、今なら少しは分かる気がするんだ。
 ふと心の中で奏に呼びかけて、あたしは慌ててピアノの蓋を閉めた。胸の痛みの行き場が分からない。どんなに胸を押さえても、穴はポッカリと空いたままで、隙間風が冷たく沁みる。


 待ち合わせのカフェに行くと、東條梨香はこちらに背中を向けて、窓の外をぼんやりと見つめていた。
「東條さん、お待たせしてすみません!」
 あたしが彼女の前に座ると、彼女は視線をゆっくりとあたしに移し、
「ううん、あたしも今来たところなのー」
 先ほどの憂いを帯びた表情が嘘のように、にこやかに笑った。あたしは先ほど買ったキャラメルマキアートをテーブルに置く。大人っぽい東條梨香の目の前にはエスプレッソが置かれている。Vネックの黒いセーターにストールを首に巻いた彼女は、やっぱりあたしの手には届かない存在だ。
「会うの久しぶりだねー。元気にしていた?」
「はい・・・」
「あんまり元気そうじゃないけれど」
 テーブルに肩肘を付いてあたしを見つめる彼女の目は鋭い。
「勉強大変だろうけれど、あんまり無理しなくても大丈夫だよ、保本さんなら」
「・・・・・・」
 あたしはとても愚かだ。もう十二月になってしまったというのに、それ以上の悩みで頭が一杯だなんて。
「ちょっと聞きたいことがあって・・・」
「うん、何?」
「奏が・・・」
 震える声であたしが言うと、東條梨香は予想していたように目を細めた。次の言葉が出てこなくて、あたしはテーブルの下の膝の上で、両手を握り締める。
「・・・奏くんが、どうしたの?」
「あ・・・、あの・・・。奏が、ドイツに行くかもしれないって噂、聞いて・・・。それで東條さんも何か知っているかなって思って・・・」
「知らなーい」
 興味なさそうに一言つぶやいて、東條梨香はエスプレッソを飲む。
「あのねぇ、あたし本当に奏くんとは関わっていないのよ。それに、その噂、奏くんから直接聞いたわけじゃないんでしょ」
 分かっていたことだった。彼女に話したところでどうにもならない。それに、彼女の言うとおり、奏から直接聞いたわけではなかった。でも、あたしが問い詰めたとき、否定もしなかった。
「あたしも高校卒業したら海外に行くわ。来年の三月。ドイツじゃないけれど」
 足を組みなおして、東條梨香がさりげなくつぶやくものだから、思わずあたしは聞き逃しそうになる。
「え・・・? 東條さんも?」
「意外?」
「い、いいえ! 全然・・・意外じゃないです」
 あたしがしどろもどろに言うと、東條梨香は乾いた声で笑った。もともと東條梨香は国際コンクールの受賞者だ。今まで日本にいたことのほうがおかしいのかもしれない。
「日本はとても狭いわ。あなたも嫌と言うほど分かっていると思うけれど」
 その疲れたような声に、あたしはまた胸が締め付けられる。奏も早くこんな島国から脱出したいのかな。そのときあたしは隣にいないけれど、それでも求めたいものってあるのかな。
 そもそも、あたしの存在が彼にとってどれほど重要なのか、信じられる話でもないけれど。
「それでも、保本さんはあたしたちとは違う世界で歩くのね。そっちのほうが絶対しんどいのに・・・。妥協して、帳尻合わせて、それでも生きていけるの?」
 黒目の大きな瞳にじっと見据えられる。嘘はつけない。生きていけるわけない。それでも、あたしは音楽の戦いの中でも生きていけなくて、どうしようもなかった。
 奏はきっと成功する。何の確信もないのにそう思えた。だからあたしは背中を押してあげなくちゃいけないんだ。頭では分かっているのに、なぜ言葉が出てこないんだろう。
 あたしが一番傷ついたことは、奏がドイツに行くことではない。奏の口から真実を聞けなかったことだ。
「あたし、東條さんに会えてよかったです・・・」
 ようやくキャラメルマキアートを飲んで、あたしは落ち着いた。東條梨香は目を見張った。それが意外で、あたしは最後の余裕を垣間見せる。
「お見送り、させてくださいね」
 あたしが言うと、彼女は目を細めて困ったように笑った。その余裕を奏にも示せるように、あたしは逃げていては駄目だ。



     
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