塾から帰る電車に乗っていると、奏と同じ制服を着た女子が三人近くに立っていた。通勤ラッシュを過ぎたこの時間は満員ではないものの、まだ多くのサラリーマンや学生が眠そうにして立ちながら電車に揺られている。
奏が通う音楽高校の制服のデザインはとても素敵だ。私立でとても清楚で、だからと言っていかにもお金持ちそうな厭らしさはない。この女の子たちはどんな音をかなでるのかなと考えていると、彼女たちの会話が聞こえてきた。
「てか今日の授業の桐川くんのピアノ、マジで感動したんだけどー」
会話の流れなんだろうけれど、突然奏の名前が出てきて、あたしは過度に反応しそうになるのをどうにかこらえて耳をそちら側に傾けた。
「ほんと天才って言葉がふさわしいよね」
「話しにくいけれど、ピアノに関しては本当に惚れ惚れするもん! ・・・なんで日本なんかにいるんだろー」
あたしは、自分のことを褒められたわけでもないのに誇らしくなる気持ちと、あたしの知らない場所で奏が目立っていることに対する嫉妬が混じって、生ぬるい暖房の空気の中で眩暈を起こしそうになっている。
「だけどさー、桐川くんはドイツに留学するんでしょー?」
「まぁあれだけ才能あれば、日本に留まるのはもったいないよー」
くらくらしていたら突然、彼女たちのそんな声を聞いて、さっきとは違う気分であたしは反応する。上手く頭が働かない。ドイツ・・・?
そこからこそ一番気になる内容なのに、彼女たちは話題を変えて、再び盛り上がっていた。
ドイツ・・・? そんなの知らない。あたしは肩に抱えているトートバッグの紐を握り締めた。暖房の効きすぎている車内の空気は汚れていて、ちょっと気持ち悪い。
「保本さん、保本さん」
はっと我に返ると、隣に座っていた女子があたしにそっと呼びかけている。
「次、保本さんだよ」
「え・・・」
ふと周りを見渡すとここは教室で、教壇に立っている国語の教師はあたしをじっと見据えている。クラスメートの視線もちょっと怖い。
「あ・・・、すみません・・・。聞いていませんでした」
震える声であたしが言うと、教師はため息をついた。
「今何月だと思っているの。もう十一月も終わるのよ。浮かれていないで集中しなさい」
一言注意を投げかけ、あたしの後ろに座っている生徒が代わりに先生の質問に答えている。あたしは胸を押さえながら、深く息を吐いた。
動機がやまない。昨日の電車での会話を思い出すと、胸がキリキリと痛む。上手く呼吸が出来ない。
休憩になって、クラスがざわめきだすと、隣のさっきの女子があたしに笑いかけてきた。
「保本さんが注意されるのって珍しいね。寝てたわけじゃないよね?」
嫌な笑い方じゃなくて、本当に心配するような表情で彼女があたしに聞いてきたので、あたしは彼女の名前を頭の中で思い出しながらうなずく。
「うん。ボーっとしていたみたい・・・。さっきはありがとね」
「そっか。授業ずっと集中なんて無理だよねー」
軽く笑いながら、彼女は少し真剣な顔になって、あたしの目を見た。
「ねぇ、興味本位で聞くけれど、佳苗ちゃんとは喧嘩したの?」
「・・・・・・・・・」
あたしは彼女から視線を外して、教室の端で違う女子と一緒に教科書を持って勉強しながら笑いあっている佳苗を一瞥する。
「うん、そうみたい・・・」
口の中でつぶやきながら、もう一ヶ月も佳苗と喋っていないことに気付いた。最後に佳苗の瞳を覗いたのはいつのことだったか。
頭の中がぐしゃぐしゃだ。数学の問題と英単語と古文用語と、佳苗のこと、そして奏に関する噂。あたしの脳内はいつも忙しい。
特に今大きく胸の中を占めているのは奏のことで、早く真実を知りたいのに、知れずにいるあたしはとても臆病だ。
学校が終わって、あたしは一人で学校を背に家へと向かう。今日は塾がない。佳苗以外に親しい友達なんていない。だけど、混乱しているあたしはそれどころじゃない。携帯電話をかばんから出すと、奏から何気ないメールが一通届いていた。三日ぶりだ。
挨拶にも似たその言葉を読み、あたしははじけるようにその場にしゃがみこんだ。何が現実で、何が事実なのかも分からない。もう二週間ほど会っていないのに、それすらよく分からない。
満たされることなんてないんだ。
穴の空いた胸を塞ぐようにあたしは胸をぎゅっと押さえる。心臓の奥が脈打っている。あたしは生きている。
当たり前のことに感嘆する自分に自嘲して、あたしは立ち上がった。向かう場所は奏の家だ。
昨日のことがただの噂だと考えてもおかしくないのに、不穏な空気は消えない。何より聞き覚えのある国の名前。ドイツ。確か奏の母親は仕事関係で、ドイツと日本を何度も往復しているはずだった。
奏の家に着きチャイムを押すと、何の連絡もしていないのに奏が迎え入れてくれた。
「おう、入れよ」
午後六時。いつもと同じ顔の奏をあたしは信じられないと思った。いつものリビングに、いつものソファ。あたしが座ると、奏も隣に座った。
「最近どう? 勉強とか」
「うん・・・。今日授業中にボーっとしていたら、先生に怒られた」
奏の顔を見ないままつぶやくと、奏は楽しそうに笑った。
「あはは、授業中の間ずっと集中なんて普通無理だろ」
本当に何の変化もない。あれはただの噂なのか。そういえば、奏もあたしと同様に噂ばかりが先回りするような人だ。
それでも妙に真実味のある物語だから、どうしてもあたしは信じてしまう。先回りした感情が必死に心の中で叫んでいる。
「奏・・・」
両手でスカートの裾をぎゅっと握った。やっぱり奏の顔は見れない。
「何?」
いつもと同じ声色で奏が聞く。あたしは何故か絶望的な気持ちになる。
「あ、あのね・・・。奏って・・・、これからどうするの・・・?」
「これからって? まだ高二だぜ?」
軽やかに笑う奏をあたしは思い切って見上げた。
「ドイツに行くんでしょ!?」
かすれた声であたしが小さく叫ぶように言うと、奏は保っていたポーカーフェイスを崩して、ゆっくりと見開いた。
「なんでそれを・・・」
思わず奏がこぼしたその言葉を聞いて、あたしは唇をかみ締める。今まで曖昧にしていたものに無理やり形を付けられたように、憶測が事実になってしまう瞬間がこんなにも心を蝕むものだとは知らなかった。
それが肯定を表すと気付き、分かっていたくせにあたしは改めて深く傷ついてうつむく。
しばらくあたしたちの間には重い沈黙が漂っていた。あたしと奏の間にある冷たくておおきな壁。それを超えられたらどんなにいいだろう。
気付けばあたしは手を伸ばして奏にしがみついていた。腕を首に回して指先で奏の首の後ろ側をなぞってみる。今、奏がどんな表情をしているのか。ドイツに行くことを思わず肯定されて、あたしは傷ついていた。傷ついていたのだ、とても。
顔さえ見られなくて、あたしは奏の唇に自分のそれを重ねてみる。どうやったらこの距離を縮められるのか、あたしは今無性に知りたかった。
奏もすぐにそれに答えてくれたけれど、何度かキスをすると奏はあたしから顔を離した。
「優・・・」
少しかすれた声で、奏はつぶやいた。
「もう夜だし、帰れよ」
決して強い口調じゃなかったけれど、帰れという命令形にあたしは敏感に反応してしまった。結局奏からちゃんとした真相を聞いていない。それに、あたしはもっと近くにいきたいと、ただそれだけを思ったのに、それすら否定されたような気がした。
あたしの気持ちと奏の気持ち。奏もあたしを好きでいてくれるんだと色々ある内に分かっていたつもりだったけれど、まだまだ足りないのかもしれない。きっとあたしの好きのほうがずっと大きい。
「・・・前に奏は、あたしが近寄るなオーラを作っているって言っていたけれど」
あたしは行き場を失くした手を握り締めて、低い声で言う。
「奏だってあたしと距離を置いているじゃん。いつまでも子供扱いしないでよ!」
涙がこぼれて、あたしは必死に隠す。この先にあるもの、あたしは知っている。別れそうになりながらも、一年も付き合ってきたのに・・・。あたしは切なくなる。もっと奏を知りたいのに。
ふと奏を見上げると、奏は困ったような顔をしていた。あたしは東條梨香を超えられないのだろうか。音楽だけではなく、奏の中でも越えられないなら、あたしがここにいる意味なんてないじゃないか。
あたしは手のひらで涙を拭ってから、奏に背を向けて靴を履いて、家を出た。奏はあたしを追いかけてくれなかった。
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