7 傷ついた壁(後)


 あたしはひどく落ち込んでいた。学校から直接奏の家に来てしまうくらいに、落ち込んでいた。
 あたしが遅くまで学校に残っていたおかげで、あたしが行ったときには奏も学校から帰って家にいてくれてよかった。これで奏と会えなかったらあたしは途方に暮れていたと思う。
 うなだれるようにソファに顔をうずめるあたしを見て、奏は深くため息をついた。
「そんなに落ち込むことないって。あんなに仲良かったじゃないか」
 佳苗を知っている奏は、静かにそうつぶやくけれど、あたしには佳苗が分からない。中学に入ってからずっと、佳苗に助けられてきたけれど、その背景にあった彼女のことなんて何も知らない。彼女がどんなことを考え、どのように日々を過ごしてきたかなんて。
 紅茶の香りがする。もう東條梨香の言いつけを守られていない自分にあたしはとても情けなくなる。
 また奏に愚痴を言ってしまった・・・。
 二つの原因に押しつぶされていると、奏はあたしの隣に座ってポンポンと頭を軽く叩く。こんなときの奏は異常なほど優しい。
「おまえがそうやって落ち込んだって状況は何も変わらないんだ」
 冷たいことをさらっと言う奏を、あたしは思わず起き上がって睨んでしまう。そんなあたしに対してとても冷静に、奏は言葉を続けた。
「俺はその子の気持ちも分からないでもないけどな。努力しても報われないってことだろ? それを優に当たるのは正しいことではないけれど、そういうことはどうしようもないし、その気持ちは相手には伝わらないよ」
 追い討ちをかけるような言葉に、あたしはうつむいた。結城くんも言っていた。佳苗の気持ちは分かると。
「・・・なんであたしにはそれが理解できないというの」
 弱々しくあたしはつぶやく。すると奏は意外そうな顔をした。
「おまえにはそんな相手、いねぇの?」
「え?」
 奏の言っている意味が分からなくて、あたしが聞き返す。
「どういうこと?」
「言葉じゃ上手く言えねーけど。結局は嫉妬心みたいなものだろ? 憧れすぎて憎くなる感じ、おまえは経験ねぇの?」
 奏の言葉を聞いて、あたしは考える。もともと人を憎んだりすることが苦手だし、ぱっとは思いつかない。
「・・・奏にはそういう相手、いるの?」
 あたしがまた問うと、奏は苦虫を噛み潰したような顔になる。とても分かりやすい。ちょっと気になって、あたしは少しだけ前乗りになって聞いてみた。
「誰なの? 奏が憧れすぎて憎くなった相手がいるなんて思えないけれど」
 悲しい心が少し吹き飛んで訊ねるあたしに、奏は嘆息してあたしを見つめた。
「・・・分かんねーかな」
「え?」
「・・・おまえだよ」
 真正面から漆黒の瞳があたしを捕らえて、あたしが逃れられずにいると、そのまま奏はあたしを抱きしめてきた。突然のことで驚いていると、奏が大きく息を吐いたのが分かった。
「・・・言わないつもりだったのに」
 ぼそりとつぶやく奏は、今いったいどんな顔をしているのかとあたしは考える。心のどこかで佳苗の苦しそうな表情を思い出すとともに、奏の香りにほっとしているあたしがいる。あたしはとてもずるくて滑稽な女だ。
 そのまま奏が唇を寄せてきて、あたしは自然と瞳を閉じる。唇の感触を味わいながら、唐突にあたしは思い出す。東條梨香。
 そうか、もしかしたら佳苗があたしに抱く感情は、あたしが彼女に対するものと似ているのかな。それなら分からず屋な自分に説明がつく。あたしは他人の気持ちに疎いけれど、佳苗のことをちゃんと知りたいと思う。
「奏はあたしのことを分かっていないよ」
 キスの合間にあたしがつぶやく。
「何が?」
「あたしは奏が嫉妬するような相手じゃない・・・」
 むしろあたしは奏に嫉妬する。だけど苦手じゃない。一緒にいて嫌じゃない。この感情も恋愛感情の一つなのかな。居心地がよすぎて悪酔いする感じ。
 東條梨香も奏に対してこんな感情を抱いていたのだろうか。あたしが奏と出会うずっと前に。奏は何もなかったような顔をしているけれど、二人の絆はどれほどのものだったのだろう。そして、何が原因で崩れてしまったのだろう。
 奏の唇を、彼女も知っている・・・。急に思いついて、あたしは両手に力を込めて奏の胸を押した。
「・・・優?」
 急な出来事にいぶかしげに奏はあたしの顔を覗き込む。あたしは答えられず、ただうつむいた。
 すさまじい嫉妬心。こんな汚い感情を他に知らない。
 あたしは何もかもが奏が初めてだ。可愛らしい初恋こそしたこともあったかもしれないけど、彼氏という存在も、大きな身体に抱きしめられるのも、言葉にならないキスも、全部初めてなのに。
 心の中がぐちゃぐちゃになって、あたしは涙をこぼす。こんな風に泣くのは決まって奏の前だけだ。
「・・・なんで泣くの」
 ちょっと面倒臭そうにするのを隠さないで、奏はため息をついた。違うの、とあたしは鼻をすする。何を、と聞かれたらとても困るけれど。
 奏が悪いわけじゃないの。すぐに心が折れる自分が嫌になるだけだ。
 とらえどころのない気持ち。それらに支配されて、あたしはどうなってしまうのかな。どうすればこの苦しみから逃れられるのだろう。胸が痛くて、切ない。確かにあたしの好きな人は目の前にいてくれるのに。
 涙を拭って、あたしは奏に抱きついた。この人はあたしのもの。陳腐で幼稚な考えに、また涙が出る。
 キスの続きをしたいと思ったけれど、出来なかった。お互いに、傷ついた壁が隔てられているようで。


 翌朝、重い足取りで歩いて学校に行く途中、佳苗の背中姿を見つけた。だけど話しかけることも出来ずにいると、正門のすぐそばで結城くんが現れて、佳苗の肩を叩いた。それに気付いた佳苗が微笑んだのが後ろからでも分かった。
 妙に親しげな空気に、あたしは息を飲み込む。いつの間にそんなことになっていたのだろう。あたしは二人の何を見てきたのだろう。
 中学二年の春に結城くんが転校してきてから今日まで、先日の文化祭も三人で話したりしていたのに全然気付かなかった。
 胸が痛い。置いていかれるようなこの不安。あたしにも彼氏という存在はいて、きっと他人から見たら幸せだ。なのに、胸が痛い。二人の笑顔を見て、泣きたくなる。世界でひとりぼっちになった気分だ。
 なぜこんな気分に支配されてしまうのか考えるより先に、あたしはうつむいて正門をくぐり、正面玄関で靴を履き替える。
 どんな朝を迎えても、毎日は変わらない。今日も一日が始まる。


 よく注意を払って見ていると、結城くんは佳苗とよく話している。中学二年の春に転校してきてから割と友達の多い彼だけど、なかでも佳苗と話す割合はとても高い。もしかしたらクラスのみんなは気付いているのかもしれない。あたしはいつもそういうことに疎い。
 だって佳苗が話してくれないから・・・と思いかけて、それは言い訳なのを考える。
 佳苗が秘密主義なのは今始まったことではない。中学二年のときに佳苗は剣道部の先輩に恋をしていたとき、それを打ち明けられたのはとても遅かった頃だった。そしてその結果失恋してしまったことも、全て事後報告だ。
 だけどあたしだって人のことを言えない。何も考えずに過ごしてきた小学校の頃と違って、何日過ごしても、あたしはきっと佳苗をすべて理解することなんて不可能なのだ。どんなに願っても叶わない。
 それでも友達だった。これからだって友達だ。そう信じているあたしは、移動教室のときにタイミングを見計らって、結城くんと一緒に歩いている佳苗に声をかけてみた。
「佳苗、おはよう・・・。あ、あの・・・」
「・・・わたし、忘れ物あったから先行ってて」
 佳苗は結城くんにそう言い、あたしを冷たく一瞥すると、あたしを避けるように教室に戻って行った。忘れ物なんて嘘だ。こんなときばかり佳苗の心が分かるなんて。
 取り残された結城くんは、あたしを見て深くため息をつく。あたしは結城くんを睨んで、先に歩いた。一緒に移動するつもりなんてない。
「今は気にせんでええと思うよ」
 後ろから結城くんの声がして、あたしは足を止めた。先日のような冷たさをそこには感じない。
「気にしないって・・・?」
 結城くんの顔を見ないようにつぶやくと、結城くんは廊下の窓から見える空を見上げる。
「今はナイーブな時期なんちゃう? 俺も昨日はひどいこと言ってごめんな」
 思い切って結城くんの顔を見ると、照れくさそうに笑っていて、会ったばかりの彼を思い出した。奏を憧れていると言っていた頃の結城くん。あれからあたしたちの何が変わってしまったのだろう。たった一年半前のことが、とても遠くに感じている。
 時間は流れて、そして今も結城くんは奏を敵だと思っているのだろうか。怖くて聞けずにいる。そして上手く言葉も探せなくて、あたしは持っている教科書を握り締めたまま、今度こそ結城くんに背中を向けて廊下を歩き出した。


     
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