7 傷ついた壁(前)


 せっかくの日曜日の天気は雨で、しかも制服を着て模擬試験を受けていた。休憩時間に、重苦しい教室から逃げるようにあたしは廊下に出て、窓の外を見つめる。廊下は肌寒い。携帯電話をスカートのポケットから取り出し、電源を入れる。もう十月も今週で終わる。
 電源を入れてから数秒後に新着メールが届いた。

  今日はバイオリンのコンテストです。保本さんは模試だよね?お互い頑張ろうね。

 メールの送り主を見て、あたしは複雑にも微笑を浮かべた。こうして時々、東條梨香はあたしにメールを送ってくる。メアドを交換したのは先日に会ったときだ。
「優ちゃん、次は社会なのに余裕だねぇ」
 教室から教科書を持った佳苗が顔を出して、笑った。佳苗も疲れた顔をしていた。あたしは携帯電話の電源を切ってから再びポケットに入れた。
「もう諦めているだけだよ」
「暗記モノだから、最後の最後まで粘ろうよ!」
 社会の教科書をめくりながら、佳苗は唸っている。
「優ちゃんが苦手なのは何? 私は地理が嫌いかなぁ」
 あたしは歴史も地理も公民も嫌いだ。そう答えようとしたとき、チャイムが鳴った。


 試験が終わって、あたしは東條梨香にメールの返事をした。

  コンテストお疲れ様です。模試は微妙でした・・・(>_<) 暗記物ってどうやって勉強すればいいのかな・・・。

 まるで愚痴のような内容だけに、奏には聞かせられない。いつか彼女は言っていた。
「男に愚痴らない女がいい女なの」
 その言葉にあたしははっとした。あたしはいつも奏に弱音を吐いていた記憶しかない。それを彼女に言うと、
「あたしが愚痴を聞くから控えたら? 奏くん疲れちゃうよ」
 呆れて笑いながら、彼女は優しく言ってくれたけれど、どこかであたしは東條梨香を畏怖している。彼女の大きな瞳、小さな顔、すらっと伸びた背筋に長い手指。それらを思い出すと、あたしはいつも彼女に負けた気分になって、胸の奥の心臓が深く傷ついていることに気付く。彼女が優しくしてくれるたびに、あたしは更に傷つく。
 彼女を嫌いなわけではないのだ。尊敬する部分はたくさんあるし、憧れる。話せば楽しい時間も過ごせるし、先日彼女にも告白したように、むしろあたしは彼女を好きだ。彼女があたしを好きだと言ってくれたように。だから余計に戸惑う。彼女を嫌いであれば良かった。彼女に嫌う理由があれば良かったのに。
 その日の夜、外の雨音を聞きながら部屋で明日までの宿題を片付けていると、電話が鳴った。
『今大丈夫?』
 受話器の向こう側から聞こえてくる透き通るような声色に、あたしは自然と身を硬くする。
「大丈夫です。コンクールお疲れ様です」
『ありがとー。でも今日はうまくいかなかったの・・・。ちょっと落ち込んじゃって、保本さんの声聞きたくなっちゃった』
 傷ついたような東條梨香の声を聞いても、あたしは気の利く言葉を探せないでいる。彼女があたしに何を求めているのか、あたしは必死に頭の隅っこで考える。
「・・・そういうこともありますよ」
 考えた割にはそんな言葉しか口から零れなくて、あたしは落胆する。だけど東條梨香はそんなあたしを責めずに、ありがとうと微笑んだ。
『保本さん、暗記科目苦手なの?』
「え・・・、あ、はい・・・」
 会話が変わったのが彼女の気遣いだと気付き、あたしは更に泣きたくなる。彼女を苦手だと思うのは特にこういう瞬間だ。
『例えばどの科目?』
「あ・・・えっと、社会とか、国語の漢字とか英単語とか・・・。あ、でも読解力もなくて、だから国語や英語の文章題も苦手で・・・」
 後ろめたい鼓動を隠すようにあたしが答えると、東條梨香はうなずきながら、真剣にアドバイスをしてくれた。さすがは高校生、受験を経験した人だ。世の中は面白いもので、習い事を真剣にやっている人は比例して学校の成績も良かったりする。効率や集中力が違うのだろうか。
『奏くんにも聞いてみなよ。頭いいでしょー』
「そうなんですけれど・・・。あの人頭よすぎていまいちアドバイスくれないっていうか・・・」
 あたしが言うと、東條梨香は爆笑した。彼女の笑い声は勉強に疲れたあたしを癒し、そして傷跡を深く抉る。
 どっちが奏のことをよく知っているんだろう。考えてはならないことを考えてしまい、あたしは嘆息する。答えなんて分かっている。このモヤモヤの原因も、梨香を苦手だと思うことで守っている気持ちも。


 翌日の月曜日の放課後、模試の解答が配られ、あたしは自己採点をする。
「優ちゃん、調子どう?」
 目をこすりながら隣の空いた席に座る佳苗を見て、あたしはどこかで違和感を覚えた。なんだろう、この感じ。よく分からないままあたしは曖昧に答え、佳苗の言葉に耳を傾ける。
「優ちゃん、わたしね・・・」
 不自然に笑いながら、佳苗はまつげを伏せた。この感じ、あたしはとてもよく知っていた。
「やっぱり駄目だぁ・・・」
「駄目って・・・何が?」
「模試。全然成績あがらないよ。先生はね、死ぬ気で頑張ればもしかしたらって言ってたけれど、やっぱりわたし、死ぬ気になれなかったよ」
「・・・何言ってんの。まだ十月じゃん。これからだって必死になれば・・・」
「もうすぐ十一月になるよ」
 少しきつい言い方で、佳苗はあたしの目をじっと見据える。
「優ちゃんには分からないよ。わたしが好きなこと捨てて勉強したって、優ちゃんには叶いっこないの。人には得手不得手というものがあって、それは仕方ないの。分かっていても、時々やるせなくなるよ。優ちゃんは頭よくてピアノ弾けて、それでもわたしみたいに何も出来ない人と比べて偉ぶったりしないし、人を馬鹿にしたりしないし、それってすごいことだと思う。優ちゃんのそういうのって優しさだよね。・・・でもわたしはそれを見るたびに自分が嫌になるよ」
 息継ぎもしないでまくしたてるように言い切ったあと、佳苗は泣きそうな顔になってそのまま教室を出て行った。中学三年の秋。クラスのみんなは塾や家での勉強で教室にはもう残っていない。一人ため息をついて、うつむき、視線を感じて顔を上げると、
「・・・結城くん」
 佳苗が出て行ったドアとは逆のドア付近に結城くんが立っていた。
「結城くん、見てたの」
「忘れ物、したんや」
 けだるそうに無表情で結城くんは教室に入ってくる。
「結城くん」
 助けを請うようにあたしが呼ぶと、結城くんは机の中から教科書を取り出したあと、面倒くさそうにあたしを見た。
「なに」
「あたし、そんなに佳苗に酷いことしてる?」
 あたしの問いに、結城くんはため息をつく。何かを考えているようだった。
「酷いっつーか、無自覚やんな。別に俺は保本さんが悪いとは思わへんし」
 教科書を鞄にしまいながら、結城くんは興味なさそうにつぶやく。
「でも、俺は佳苗ちゃんの気持ちもよう分かるねん。俺だって天才ちゃうし、何もかも出来んし。保本さんみたいな人間のほうが特殊やと思うけど」
「そんな・・・。あたしを特別みたいな言い方しないで。あたしだって悩むし、落ち込むよ」
 結城くんの冷たい言葉に傷ついて叫ぶように言葉を吐くと、結城くんはあたしを一瞥した。
「それでも佳苗ちゃんの気持ちをあんたが理解できるとは思えへんけどな」
 一度も笑わないまま結城くんも教室を出て行ってしまった。
 いつもあたしは佳苗に助けられてきたけれど、あたしに佳苗のために何か出来ることなんて何もないって言われた気がした。それに、今はあたしだって他人にかまけられない。自分のことで精一杯なのに。
 そう思うあたしは冷たいのだろうか。


     
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