6 こぼれる流れ星(後)


 東條梨香と帰路を辿っていると、電話が鳴った。あたしは表示された名前を見て、一度呼吸をしてからボタンを押す。
「もしもし」
『あ、優?』
 あたしの前で、東條梨香が「奏くん?」と小さくつぶやいたので、あたしは目だけでうなずいた。
『おまえさ、俺の部屋にノート忘れているぞ』
「え、本当?」
『これから取りに来れるか?』
「うん、行く。わざわざありがとう」
 あたしが言うと、東條梨香はにやりとほくそ笑んで、ものすごい速さであたしから電話を奪い、あたしはあっけに取られた。
「もしもーし、奏くん、久しぶり」
『・・・おまえ、東條?』
 受話器の向こうで、奏が声色を変えたのが分かった。
『なんでおまえ、そこにいるの』
「優チャンを好きなのは、アタシも一緒よ? だから優チャンを泣かせないで」
『・・・状況がよく読めないんだけど』
 会話の途中だというのに、満足そうに東條梨香は電話を切って、あたしに渡した。
「これですっきりだわ」
「・・・奏は今頃困惑していると思いますけれど」
「いい気味だと思わない?」
 東條梨香は得意顔で言い、思わずあたしも笑ってしまった。

 夕方五時半。薄暗くなりかけている空の下をゆっくり歩いて、あたしは今日で二回目になる奏の家を見上げてから、チャイムを押した。
「わざわざ呼んで悪かったな。俺が届けに行ってもよかったんだけど」
 玄関のドアを開けるなり奏が言い、あたしは首を横に振った。
「ううん。忘れたのはあたしだしね」
「新しい紅茶、買ってきたんだ。飲んでいかないか?」
 奏の誘いに、あたしはうなずき、ドアの中に入って靴を脱いだ。今朝までこの空間にいたことが不思議で、夢の中の出来事に感じられた。
 奏は紅茶が好きだ。それは付き合ってから間もない頃に聞いたことで、時々あたしは奏の家で紅茶をご馳走になっていた。奏いわく、奏の母親が紅茶には目がないらしく、家族と一緒に暮らしている頃には毎晩のように紅茶を飲む習慣があったという。あたしの両親は紅茶よりもコーヒーを好むし、紅茶といえばパック物しか知らなかったので、葉を買ってくる奏を見ると、価値観の違いに気付いて不思議な気持ちになる。
 あたしは羽織っていたニットカーディガンをソファの端に置いてから、テーブルの上に置かれていたノートを手に取った。昨日の夜、奏の部屋で教科書と一緒に見ていた社会のノートだ。ノートをペラペラとめくっていると、テーブルの上にいい香りを漂わせたティーポットが置かれた。
「ノートのことなんて全然気付かなかったよ」
「おまえ、今日は勉強していないんだろ?」
「したよ。でも社会は勉強しなかったから気付かなかっただけ」
 からかうような奏の口調に、口を尖らせて真剣に答えると、奏は笑って紅茶をコップに注いだ。高そうなティーセット。憧れるけれど、こういう小物はよく分からないのがあたしの本音だ。
「じゃあ今日は何していたんだ?」
 奏はあたしの隣に座って、訊ねた。
「数学。今週末に模試があるんだ。あたし、数学でしか人と差をつけられないからさ」
「おまえって本当に理系人間だよなぁ」
 カップをあたしに渡しながら奏が言い、あたしは苦笑した。あたしは別に好きで理系を得意になったわけではない。でも気付いたらそうなっていた。そこにあたしはジレンマを抱くし、文系科目が出来ればどんなにいいだろうと何度も思ったけれど、そればかりは仕方がなかった。
「おまえ、東條といつの間に知り合っていたんだ?」
 奏が紅茶に目を向けたまま、何でもないことのように訊いてきた。思えば彼女の存在が全ての原因だった気がして、あたしは思わず口ごもる。
「別に・・・。音楽高校の文化祭で会っただけ」
 奏の初めての女。急に思い出して、切なくなった。カップを持つ手に汗が溜まりそうになり、あたしはわざと笑顔を作る。
「そういえばさ」
 紅茶を飲みながら、あたしは無理やり話題を変えた。上品なアップルの香りがあたしの鼻腔や喉、食道を通り、少し癒される。
「朝ごはん、ありがとう。あたし、朝弱くて・・・。寝ぼけててごめんね」
「いや・・・」
 奏は思い出したように、微笑した。
「おまえのあんな姿、なかなか見れないから。貴重なものを見せてもらったよ」
「・・・あんな姿って何?」
「無防備っていうのか? 近寄らないでオーラが全く出ていないし」
「あたしいつも、そんなオーラを出しているの?」
「気付いていないのか?」
 奏はカップを置いてから、あたしを見た。
「今だって、そういうオーラ出ているのに。だから俺は気安く近づけない」
「・・・・・・・・・」
 ショックだった。いや、ショックというよりも心外だという方が言葉の選択が正しいのかもしれない。
 確かにあたしは世界の全てが敵だと思っていた頃もあった。だけど、奏は違う。いつだって奏は、あたしの一番近くにいるべき人間なはずなのに。
 自分でも気付かない、自分の雰囲気っていうものに落胆して、あたしは震える足取りで立ち上がり、奏の目の前に立った。テーブルとソファの隙間は狭いから、必然的にあたしは奏のひざを跨ぐことになる。
 そのまま手を伸ばして、奏の首に手をかけた。
「・・・こんなに近くにいるのに」
 あたしはつぶやいて、そのまま顔を近づけてキスをする。あたしは自分からキスをするという行為にはまだ慣れていなくて、ただ唇を押し付けるような子供じみたやり方しか出来ないけれど、それでもちゃんと奏は答えてくれる。
 そうしているうちに、奏は自分から甘いキスをあたしに与えてくれて、いつだって主導権は奏のものになる。でもあたしはそこにプライドはない。歳のせいもあるかもしれない。いつも歳を気にするくせに、こういうときだけ利用するなんて好都合だというのも分かっているけれど、そうやってあたしは奏に身を委ねるしかないのだと思った。
 奏の手はあたしの腰に回り、身体ごと引き寄せられて、あたしは奏の腿の上に座り込む体制になってしまった。さすがにこれは恥ずかしくて、あたしは身体を離そうとするけれど、奏がそれを許さない。
 そのまま長い口付けを交わして、あたしは奏の瞳を間近で捕らえた。不安定に揺らいでいるのはきっとお互い同じだった。
「昨日さ」
 あたしの髪を指で梳きながら、奏は言う。
「寝顔、可愛かったよ」
 その瞬間、あたしは顔を真っ赤にさせて、そんな顔を見せたくなくて奏の肩に額をくっつけた。
「・・・知らない!」
 そんな科白はいらない。あたしたちの間にそんな言葉はいらない。その代わり、この鼓動、この想いのやり場を教えて欲しい。こんなに身体をくっつけて、こんなに近くにいるのに、どうしようもないほど切なかった。いつまでも東條梨香の存在が消えなくて、悔しい。
 あたしの態度に奏は余裕を持ったように笑い、再びあたしの顔を上げさせて、額に、まぶたにキスをした。だから大人は嫌いだ。こんなことにも慣れていて、とても憎たらしくて、あたしは奏を睨んだ。
「そういう目が男を欲情させるって知っている?」
 奏は面白そうに言い、あたしは眉をしかめた。貞操の危機だと一瞬に悟り、奏から離れて床に座り込んだ。
「また出したな。近寄らないでオーラ」
 今度は自覚がある分、あたしは言い訳が出来ない。
「誰がそうさせたと思っているの」
「そうやって俺を焦らして楽しんでいるのは誰だよ?」
 奏は立ち上がって、あたしの手を取った。あたしと同じ体温に感じて、それだけでなんだか嬉しくて、だから奏の質問の意味を図りかねた。
「ほら、明日学校だろ?」
「・・・うん」
「また夕飯食べに来いよ」
 奏はいつの間にかあたしのニットコートを持って、あたしを玄関まで引っ張った。ニットコートをあたしに着せる。あたしはまたこの家の静けさを感じて、うなずいた。
「うん、また来るね」
「優の好きな食べ物って何?」
 今更と思えるものを訊かれて、あたしは考えた。一年以上も付き合っていながら、そんなありふれた会話もしなかったことに気付く。
「・・・ドリアが好き。ホワイトソースの」
「今度、作り方見ておくよ」
 あたしが靴を履いている間、横で奏も靴を履いていた。
「送っていくよ」
 奏は何事もなかったように笑うけれど、あたしは何故か罪悪感でいっぱいになる。
 あたしは奏を焦らしているつもりなんてない。焦らしているのはどっちだと問いただしたい気持ちにもなるけれど、でもどこかで薄々感じていた。それは最近のことではなくて、ずっと前から。
 そして、あたしも同じ気持ちになる。
 すっかり暗くなった空は、雲が少ないせいで星が輝いていた。この住宅街はあまり外灯が目立たないので、星が綺麗だ。繋いだ奏の手の体温を感じながら、あたしは思う。
 あたしだって、奏を欲しいと願う瞬間はある。
 何も知らないまま奏の家に泊まったわけじゃない。
 まるでこぼれそうなほどの金平糖のような星々を見て、いっそう空気が冷たくなったのを感じた。その分、奏の温もりを感じられるのなら、もっともっと気温が低くなったってあたしは何も恐れない。


     
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