ふと気付くと、視界は真っ暗だった。
自分の置かされている現状を上手くつかめずに、あたしは頭を働かせる。あたしは奏に出会えた気がするんだけど、都合のいい夢だったのだろうか。
記憶が曖昧で、でも慣れないシーツの感触に違和感を抱き、そうしているうちに目が暗闇に慣れてきたのか、やっと目の前にある光景が見えてきた。
まずは奏の背中。同じ布団に入っていて、奏にそっと触れると温かい。Tシャツの感触が新鮮だ。そういえば、奏はあまり外でTシャツを着なかった。
どうやって布団にたどり着き、眠りに就いたのかがまったく思い出せなかった。思い出せるのは、あくびをしながら社会の教科書と睨めっこしていたところまでだ。
もしかしたらあたしはあのまま寝てしまったのではないだろうか。そうとしか考えられない。もしかしたら奏があたしをこのベッドの上まで持ち上げてくれたのか。たった数十センチだけど、それを考えただけであたしの身体は熱くなる。
奏が背中を向けて眠っているのが切ない。聞こえてくる寝息に耳を潜める。ちゃんと生きてる。当たり前のことを実感して、小さな幸せが花開くように、あたしの胸の中いっぱいになった。
それでもやっぱり寂しい。こっち向いて欲しいけれど、むやみに奏に触れることも出来なくて、それも切なかった。まるで広い夜空に一人残されたような気分だ。
今何時なのかも分からず、布団を口許まで被って目を閉じたけれど、隣にある温もりが気になってなかなか眠れない。
布団には奏の匂いが染み付いていて、尚更ドキドキした。こんなの拷問だ。そう思い、あたしはそっと奏の背中に触れた。奏が呼吸するたびに背中も震える。欲が出て、今度は腕に手を回す。起きていないのを確かめて、ぎゅっとくっついた。体温の違いに気付いて、あたしたちは一生相容れることはないんだと気付く。知っていたのに知らなかった。そんな寂しいことに気付かなければよかった。
こんなにくっついても起きないなんて、熟睡しているんだなと思う。あたしに背中を向けて、それでも熟睡して、なんだか複雑になった。あたしを信頼しているのかしていないのか分からない。寝顔をさらしてくれないけれど、背中を見せている。矛盾していないようで、している。
誰かと一緒に得られる孤独ってこういうことなんだと、一人で馬鹿みたいに考え込んで、自嘲した。あたしの冷たい手が奏の体温で温められていく。それが嬉しくて、あたしは再び目を閉じると、暗闇の世界で流れ星が瞬いた。
「優」
肩を軽く叩かれ、目を開けると部屋中に光が差し込んでいた。眩しくて目を細める。
「優、俺、学校行くけれど」
「え・・・」
そこまで言われてやっと脳が覚醒した。
「おはよう」
呆れたように、それでも微笑む奏を起き掛けに見られるなんて幸せだと、ぼんやりと考えていた。
「・・・おはよう」
「俺、学校に行くけれど、大丈夫か?」
「・・・うん」
「鍵、リビングのテーブルの上に置いとくし、ポストに入れといて。朝ごはんは一応台所にあるけれど、食べても食べなくてもいいから」
「・・・分かった」
ぼーっとしたまま答えると、制服姿の奏は笑って、あたしに顔を近づけた。久しぶりのキスだった。奏のブレザーにしがみついて、朝からの口付けは本当に幸せで、このキスひとつであたしは未来を恐れることはないと信じられる。
「じゃあ、行って来ます」
「行ってらっしゃい・・・」
あたしが言うと、奏は部屋を出て行った。ドアの閉まる音がする。あたしはゆっくりと立ち上がって、玄関に行って念のために鍵をかけた。
プリーツのスカートが皴になっていた。でもブレザーは奏が脱がしてくれたのか、皴にならなくて良かった。なんだか変な感覚だ。色々な事実が妙に気恥ずかしい。
行ってらっしゃいのキスしちゃった・・・。妙なことを思いついてしまう今、あたしは世界で一番馬鹿な幸せ者だと思う。
キッチンには市販の食パンが袋に入ったまま置いてあり、傍らにメモが置いてあった。
『冷蔵庫には卵』
ただそれだけの文字に、あたしは心が温かくなって、パンをトースターに入れて、冷蔵庫からラップされたスクランブルエッグを取り出し、レンジに入れた。バターも見つけたので、温まったパンに塗りつけ、頬張る。
一人きりの食卓は寂しかった。奏はいつもこんな風に一人なんだ。幸せの味の中に、またひとつ孤独を見つけて、あたしは食べ終わった後に皿を洗ったあとにメモの裏に『ごちそうさま』と文字を書き、奏の家を出て鍵をポストに入れた。
閑静な住宅街の空気は、朝も爽やかだ。
皴になったスカートを気遣いながら家に帰った。両親とも仕事に出ていて、誰もいなかった。
靴を脱いで、そのままバスルームに向かってシャワーを浴びた。お風呂から上がると、冷たい空気に顔をしかめる。適当な服を着て、スカートにアイロンをかけた。
そして部屋に行って勉強をする。もうあたしは一人じゃない。
午後四時、あたしは私服にニットカーディガンを羽織ってから家を出て、ある女子高に向かった。
立場が逆だ。そう思いながら、正門の前に立っていた。可愛いチェックのプリーツスカートの高校。イマドキの女子高生が、正門に突っ立っているあたしを一瞥しながら、それぞれの方向に帰っていく。
あの時、彼女もこんな気分だったのかなと思う。
「あれ」
まっすぐな茶髪をなびかせながら、長い足を惜しむことなく見せて歩く彼女が、あたしを見つけた。
「保本サン? どうしたの?」
「・・・こんにちは」
「え、あたしに会いに来たの?」
意外だと言うように、東條梨香は目をぱちくりさせた。そして、少しばかり嘆息して、無理やり笑顔を作った。
「いいわ。行きたいお店があったの。お洒落なカフェよ」
嫌われていると分かっている人間に向き合うのは、心が痛む。それでもあたしは彼女に惹かれていて、ちゃんと話をしなければと思うのだ。
高校から少し歩いたところに、カラフルなソファが並ぶカフェに着いた。あたしはキャラメルモカを頼む。
「話があったんでしょ? 奏くんと仲直りでもした?」
ソファに身体ごと寄りかかり、東條梨香はあたしを見た。あたしは正直にうなずく。
「・・・はい」
「わざわざあたしに報告しに来たんだ」
彼女は盛大にため息をつき、あたしを睨んだ。
「人が傷つくこと、平気でやるのね」
「それでも、あたしはちゃんと東条さんに言わなくちゃいけないって思いました。・・・色々迷惑かけたし、それにあたし、東条さんのこと好きです」
あたしが声を潜めて言うと、東条梨香は一瞬あっけらかんとし、その後声を立てて笑った。
「何、それ。本当に面白いな、あなたは」
ウエイトレスが注文したコーヒーを持ってきた。彼女はそれを手にとって飲む。あたしも同様に飲んで、少しばかりの沈黙が走った。
「・・・訂正、しなくちゃいけないのかな」
波打つコーヒーの表面を見つめながら、彼女はつぶやいた。何のことか分からなくてあたしが首をかしげていると、彼女はあたしをまっすぐと見据えた。
「嫌いって言ったのは嘘よ」
そう言って、寂しそうに笑う彼女の表情は何ともいえないほど胸を締め付けるもので、あたしは一生忘れないと思った。自分でも何故か説明出来ないけれど。
瞳の中に宿る星。人間は誰もが宇宙の中を溺れているのかもしれない。
|