5 水を吸う心(後)


「おまえの逃げ足の速さには心底感心するよ」
 校舎の裏側の、誰も来ないような場所まで引っ張られて連れてこられ、やっと手が離れたと思ったら、奏があたしを見下してつぶやいた。
 音楽高校の文化祭のときのことだとやっと思い出した。
「・・・今更、何の用」
 視線も合わせられなくて、低い声でうつむいたままつぶやいたら、舌打ちが聞こえてあたしは肩を震わせる。
「そんなに俺が嫌いかよ」
「・・・・・・・・・・・・」
 あたしは唇を噛んだ。このもどかしい気持ちを言葉にする術をあたしは知らない。その代わり、久しぶりに、本当に久しぶりにあたしは涙を流した。自分でも驚いて、慌てて手で拭ったけれど、もう遅い。奏に見つかった。こんな顔、見られたくなかった。両手で顔を覆って、涙が止まってくれるように祈るのに、こんなときに限って涙は止まらない。本当に泣きたいときに涙は出てくれないくせに。
 鼻をすすることも上手く出来ないでいると、奏はあたしを抱きしめた。誰もいない校舎裏。肩越しに、二年前まで第三音楽室と呼ばれていた教室が見えた。
「どうしてあのとき追いかけて来てくれなかったの・・・・・・?」
 両手を奏の背中にまわして涙を奏のチェック柄のシャツに押し付けながら、思わずあたしは声に出していた。ずっと思っていたこと。
 音楽高校の文化祭の二日目。聞きなれない奏のモーツァルトを聞いて、余計に精神が揺らいだ。東條梨香の存在はあたしにとって脅威で、あたしは余計に臆病になった。あの時奏と目が合って、どこかで期待していた。追いかけて来てくれると。名前を呼んでくれるって。
 奏の匂いが懐かしい。安心する。あたしはどうして奏に別れを告げたんだったっけ? 何も思い出せない。東京に行ったころが遠い昔に思えて、あたしが悩んできたことなんて全然たいしたことないものだとなんとなく思う。それでも苦しかった。どんなに音を紡いでも、どんなに奏を好きでも、あたしは夢世界で生きることは出来ない。
「奏・・・・・・」
 力いっぱい奏にしがみついた。そうでもしないと、また離れそうになる。それがとても怖かった。どうして理性と感情は別々に動くのだろう。あたしの願いとあたしの心は、一致しないのだろう。
 こうしてあたしはまた奏を縛ってしまうのだ。才能溢れる奏を、またあたしが邪魔をする。くだらない感情で。
 奏に幸せになって欲しかったのは事実だ。でもそこにある絵の中に、あたしが含まれていないのはどうしようもなく辛かった。奏の未来にはあたしがいないと、突き放されることと同じだった。
「・・・奏」
 何度も何度も名前を呼んで、奏がすぐ近くにいることを確かめて、それでも不安であたしは涙を流す。奏も苦しいくらいにあたしを抱きしめていて、苦しかったけれど、会えない苦しさに比べたらずっと良かった。同じ苦しさでも、幸せな苦しみがある。
「別れたなんて、嘘だよな・・・?」
 かすれた声で奏がつぶやいた。
「絶対、別れないからな・・・」
 奏の言葉が不覚にも嬉しくて、あたしは何度もうなずいた。声にならない声で。
 あたしはそうやって、何度も間違えないと分からない。そうやってひとつずつ生きていくんだ。乾いた心に水を与えながら。


 久しぶりに奏の家に来た。相変わらず静かで、生活感のかけらもなくて、もし自分がここに住んでいたらと想像する。
 もしあたしが、両親と離れ、兄弟もいなくて、ここで一人で暮らしていて、急に奏に別れを告げられたら。
 あたしが奏を想う気持ちと、奏があたしを想う大きさ。それらは違うからはっきりとは分からないけれど、とても寂しいことだと思った。想像を超える孤独感。あたしはもしかしたらそれを奏に与えてしまったのかもしれない。
 奏が夜ご飯を作っている間、あたしはリビングでピアノを弾くように言われていたけれど、急にそんなことを考え付いてしまって、あたしは慌ててキッチンに入った。
「どうした?」
 何事もなかったように奏はあたしを見る。とてつもない孤独に慣れきっている奏を思うと、どうしようもなくなり、あたしは後ろから奏に抱きついた。
「優? 今包丁持っているし、危ないから・・・」
「あのね」
 奏の言葉を遮り、その大きな背中に頬をくっつけた。温かくて、やっぱりあたしと違う生き物だと思った。
「あたし、奏の邪魔になりたくなかったの」
「邪魔?」
 奏は野菜を切るのを諦めたのか、包丁を置いて、そのままの姿勢であたしの話を聞いてくれた。
「奏の人生の邪魔をしたくなかったの。でも、奏の人生からあたしの存在が排除されるのはもっと嫌だった・・・」
 何もかも中途半端で、そしてあたしはまた、いつの間にかあたしのほうを向いた奏に抱きしめられる。奏の野菜の水で濡れた指があたしの頬に触れて、冷たい。
「馬鹿だな、おまえ・・・」
 奏は困ったように笑った。優しい顔だった。
「まぁ、でも。俺もおまえくらいの歳の頃はそういうこと考えていたからな。責められないよ」
 歳の差を見せ付けられて、あたしがむくれると奏はまた笑い、あたしの髪を撫でた。
「ご飯、もう少しで出来るから、ピアノ弾いてろ。勉強していてもいいけど」
「・・・手伝ったら駄目?」
「いいけど」
 今は少しでも離れたくなくて、奏を見上げて訊ねたら、奏は苦笑した。
「今日泊まっていく?」
 あたしの心を読んだかのようなタイミングで奏が訊き、あたしは奏から離れた。
「あ・・・・・・、じゃあお母さんに電話してくる」
「うん」
 奏が軽く笑ったのを見て、あたしはキッチンから出て、リビングに置きっぱなしの鞄の中から携帯電話を手に取った。今頃になって心臓がドキドキする。
 泊まるって何だ? 首をかしげる。
『もしもし、優?』
 考えている途中で母が電話に出た。夜ご飯は食べていくって言ってあるから、まったく心配していないようだ。
「あ、あの・・・」
『どうしたの? 彼氏と夜ご飯食べているんじゃないの?』
「あー・・・、うん」
 そういえば正直に打ち明けていたんだったっけ。今更友達の家に泊まるとか適当な嘘もつけずに、後ろめたく言葉を濁していたけれど、今日嘘をつけば、このままずっと隠し事が出来るということなんだとあたしは腹を括った。
「奏の家に泊まろうと思って」
 出来るだけ早口で言うと、あっけない言葉が返ってきた。
『そう。まぁ、あなたは明日学校お休みだしね。ただ向こうは明日学校あるんだし、迷惑かけたら駄目よ』
「・・・分かった」
 あまりにもあっけなくて、あたしはそのまま電話を切ってしばらく呆然とした。
 もしかしたらあたしが何か恥ずかしい勘違いをしているのだろうか。分からなくなり、でも考えていたらますます深みにはまりそうなので、あたしはキッチンに戻った。
「電話してきた」
「何も言われなかったか?」
「うん・・・。奏は明日学校だよね?」
「おう」
「・・・手伝う。皿洗いしか出来ないけれど」
 あたしが言うと、奏は助かるよと笑った。


 ご飯を食べている間、あたしたちは普通に会話をした。
 一ヶ月もすれ違っていたのだから、近況を話すだけで盛り上がった。毎日会えないのは寂しいけれど、たまにしか会えない醍醐味はこれだとあたしは思う。ちょっとしたことでとても嬉しいし、とても幸せだと感じられる。今日奏があたしの隣にいることが当たり前ではないということを、ちゃんと実感できる。
 奏があたしの年齢と同じときに、あたしと同じように何かを突き放したとさっき言っていたけれど、あたしは今十五歳で、奏が十五歳のときにはすでにあたしたちは出会っている。もしそれがあたしのことだとしたら。
 あの卒業式を急に思い出す。奏は何を考えて、一度あたしを突き放したのかな。
「どうして文化祭のソロで、モーツァルトを弾いたの?」
 奏が作ったリゾットを口に運びながらあたしが訊くと、奏は少し考えたようだった。
「・・・あれ聴いたんだ?」
「うん・・・」
「あれ、最悪」
 奏は気まずそうに言い、お茶を飲んだ。
「・・・本当はああいう曲、苦手なんだよ」
「うん、知ってる・・・」
 でもピアニストならそんなの関係ないって、東條梨香が言っていた。それを言いかけて、やめた。今は彼女の名前を出したくなかった。
「本当は・・・」
 奏は長いまつげを伏せて、ゆっくりと話した。
「おまえがいれば弾けるって・・・思っていたけれど、事態が思うように行かず」
「ごめん・・・」
 カッコ笑いが付くような話し方で奏が言ったから、あたしも冗談っぽく謝ったら奏が首を横に振った。
「いや、俺、おまえに頼りすぎだ・・・」
「そんなことないよ!」
 あたしは慌てて否定した。
「ていうか、奏のモーツァルト、よかったよ! 確かに苦手なのは分かったけれど、・・・不器用な優しさがあったの。ちゃんと伝わったよ」
 上手い言葉が見つからなくて、こんなときさえもどかしい。それでも、知っている単語を一生懸命繋いで言うと、奏は微笑んだ。泣きそうな笑顔にあたしが泣きそうになる。ちゃんと奏の傍にいればよかった。あたしは自分のことばかりしか考えていなかった。


 片づけくらいはさせて欲しいと言ったのに、客にはそんなことさせられないと奏は聞かなかった。仕方ないので奏の部屋で社会の教科書を読んでいた。自分で言うのもなんだけど、受験生の自覚はばっちりで、文化祭だというのに教科書を鞄に忍ばせていた自分がなんだか情けない。
 制服姿のままだけど、わずかに寒さが足や肩に襲い、寒かったらカーペットつけていいからという奏の言葉を思い出し、あたしはカーペットのスイッチを入れた。
 奏のベッドに寄りかかってひたすら社会の教科書を読むけれど、あたしは社会が苦手で、眠くなって何度もあくびを押し殺した。
 昨日までは奏を想って、それでも泣けなくて、持て余していた。今はまたこうして奏と一緒にいる。そして夜じゅう一緒にいて、一緒に朝を迎えるんだ。実感の沸かない近い未来を思うと緊張するけれど、でもまだあたしは奏の人生から追い出されていないことに安堵し、そしてカーペットが程よく温かくなってきて、あたしはカーペットに転がって、奏が部屋に来るのを待っていた。
 社会の歴史のページを読む。昔から人間は同じ過ちを繰り返してきたという。もしかしたら人生も同じなのかもしれない。それでも、自らの手で時を刻むことが出来ればいい。


     
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