金曜日の夜、塾を出ると建物の隅っこに奏が立っていた。こんな暗い中でも、彼の放つ威圧感ですぐに分かる。
「奏・・・」
あたしがトートバッグをぎゅっと握って奏の前に立つと、奏は何も感じさせない瞳であたしを見下ろして、口をゆっくりと開く。
「これから俺ん家に来られるか?」
急な申し出に、
「ちょ、ちょっと待って。お母さんにメールしとく」
「ああ」
あたしは震える手で鞄から携帯を取り出す。十二月の夜はとても冷える。なのに奏はコートを羽織らず、ジャケット姿だ。
メールをし終えて、あたしは再び奏を見上げた。
「返事は待たなくていいのか?」
「うん、大丈夫だと思う」
二人して奏の家の方向に歩き始める。まだあたしは奏の今後のことを聞き出せていない。それどころか、会うのもあれ以来だ。
暗い夜道の横を車が通るたびにライトが眩しくて目を細める。去っていくエンジン音と共に、奏はつぶやく。
「話があるんだ」
その言葉にドキリとする。何を聞かされても受け止めなくちゃ。彼の人生なんだから、とあたしは自分に言い聞かせながら、奏の隣を歩いた。それが最悪な事態だとしても、たとえ奏があたしと離れることを選んだとしても。
奏の家に着くと、ホワイトクリームで和えたスパゲッティーが出てきた。
「夕飯、まだだろ?」
「う、うん」
いつものリビングで、あたしは両手を合わせて「いただきます」とつぶやき、フォークにパスタを絡ませる。
「奏はもう食べた?」
「おう」
答えて、奏はテレビを付ける。この家でテレビが付いているのを見るのは初めてかもしれない。それほど、あたしたちは沈黙に耐えられないのだ。
話ってなんだろう。気になっているのに、あたしから聞けない。奏も相変わらずで、視線をテレビに釘付けにしている。
あたしも政治経済のニュースをなんとなく聴きながら、奏お手製のスパゲッティーを完食した。気付いたら冷えた身体が温まっている。
「ごちそうさま。美味しかったよ、ありがとう」
「おう」
「あ、あたし片付ける。台所借りるね」
お皿を持って立ち上がると、奏がその皿を受け取った。
「いいよ。俺がやっとく」
あたしは手持ちぶさたになって、台所に向かった奏の背中を見つめた。そして一瞬の勇気を胸に突きつける。
「奏、話って何」
なけなしのあたしの言葉に、奏は無反応で、そのまま台所へと入ってしまう。水の音が響いた。置いてけぼりなんて慣れている。あたしは悲しくない。そのまま負けずに歩いて、台所を覗いた。
「奏。話がないなら、あたし帰るよ」
シンクを見つめている奏に、あたしはそう投げかけて背中を向けた。何のために来たのか分からない。何も解決していないな、と思ったその時。
「帰らないで・・・」
弱々しく奏が後ろから抱きついてきて、あたしは思わず足を止めた。
「か、帰るな、優・・・」
「え・・・。だ、だって」
背中から感じる温もりに、あたしの心臓の鼓動の速さが倍増する。
思わずあたしが振り返ると、奏は言葉通りに見たこともないほどの弱々しい目をしていて、あたしは思わず視線を逸らす。そうしていると、奏はあたしを壁に押し付けて、そのまま抱きしめてきた。あたしは逃れられなくなっている。
「そ、奏。お、落ち着いて! 話・・・、話をしよう!」
あたしが慌てて奏の背中を叩くと、奏は顔を上げて、あたしの目の中を覗き込んで、薄く笑った。
「落ち着いているよ」
そのまま唇を重ねてくる。あたしは慌ててそれに答える。逃れられない。どうしよう。怖い。奏を抱きしめる指先に力を入れても、びくともしない。
「ちょ、ちょっと・・・、奏! 少し離れて!」
キスの合間にようやくやっとそれだけを言うと、奏は嘆息した。
「子ども扱いするなって言ったの、おまえじゃん」
その言葉に、あたしはかぁっと熱くなる。奏の言うとおりだ。分かっている。分かっているけれど、突然すぎて、どうすればいいのか分からなくなる。
「・・・・・・・・・・・・」
怖いのは本当だ。それでもあたしは奏から手を離せないでいる。きっと恐怖は消えない。それでもあたしは奏を好きだ。ずっと好きだ。
うつむいたまま何も言い返せないでいると、奏はあたしから少し離れて、そっと肩に手を置いた。
「ごめん・・・、優」
「ち、違う」
沈んだ奏の声に、あたしは慌てて首を横に振った。
「違うの・・・。あたしがわがまま言ってごめんね・・・。だって、あたし・・・」
あたしだって奏を欲しいと思う瞬間がある。なのに奏があたしを欲しがるなんて想像も出来なくて、いつも不安だった。
初めてそれを垣間見た東京での夜。夏の出来事。それすら遠い昔に思えてくる。
続く言葉を失くしていると、奏は再びあたしをぎゅっと抱きしめてきた。
「やっぱり俺、落ち着いてないかも」
かすれた声で奏が言うから、思わずあたしは笑ってしまった。
奏のベッドのシーツの感触を味わうのは二度目だ。だけどそれを素肌で感じるのは初めてのことだった。
台所から冷たい廊下を歩いて、階段を上がって、奏の部屋へ。あたしたちは無邪気に一歩歩くたびにキスを重ねながら、ようやく奏の部屋にたどり着き、そのまま二人してベッドに転がり込んだ。そうなることが必然で当然のように。
いざとなってみると、不思議なことに恐怖はなくなっていた。ただ暗闇の中であたしを見つめる奏が愛しくて、それだけでいっぱいになる。
一枚ずつ制服を脱がされて、奏の素肌を温かく感じて、あたしはこれ以上ないほど満たされる。その背中にしがみつけば、幸福でたまらないと感じる。この世にこんな幸せがあったなんて知らなかった。
『透明な世界を見つけられるよ』
いつかのあづさの言葉を思い出す。
本当はこんな世界にあたしは嫌気がさしていた。それは奏も、東條梨香も、みんなそうだった。どろどろに曇って、濁りきった世界なんかに、あたしは期待なんてしていなかった。
だけど、だからこそ奏に出会えてよかった。改めて、心から思う。
「優、大丈夫か?」
あたしの目を覗き込んで、奏が優しく問いかけて、それが甘くあたしの胸の中に広がる。
「うん・・・」
「痛くないか?」
「うん、大丈夫」
あたしが手を伸ばして奏の頭をそっと撫でると、奏はそのままあたしの肩に顔をうずめた。
「俺はすごく痛い、心が。・・・助けて」
聞いたこともない奏の声に、あたしは涙をこぼした。
あたしは真っ暗な暗闇にいた。早くここから出たい。でも怖い。未知の世界への恐怖。でもそろそろ行かないといけない。そんなことを思っていたら、眩しい蛍光灯の下に晒された。
大きな声であたしは泣く。泣き声をあげる。産声。この世に生を受けた証だ。母親の腕に抱かれて、泣き叫んだのは、生まれてきたことに喜びを感じたからではない。
毒だらけのこの世界に生まれてきてしまったことに、絶望を覚えたのだ。
こんなに苦しくて辛いのに、どうして誰も分かってくれないの。あたし、これからどうやって生きていけばいいの。それから数年経って言葉を覚えても、この恐怖を言葉に表すことなんて出来なくて、あたしはいつも胸に痛みを抱いていた。
だけど、そんなときピアノの音色に出会った。最初に聞いたのは、あづさのかなでる音だった。そのときだけは痛みが和らいだ。世界もそんなに悪いものじゃないと覚えた。
まるで中毒のように、あたしはピアノの物悲しくも逞しい音色に惹かれ、虜になっていた。
とりつかれたようにピアノを弾き続けていた。天才少女と呼ばれた頃もあった。それでもあたしは満たされない。この感情をかなでても、誰にも伝わらない。
勝手なレッテルを貼られて、あたしは傷だらけになっていた。毒だらけの世界。重く感じる制服。適応能力のない自分にも嫌気がさして、生きている意味さえ見失った。
そんなとき、あたしは出会ったのだ。
「優・・・?」
優しく響く声に目を開けると、奏が横からあたしの頬に触れていた。
「うなされていたけれど、大丈夫か?」
ゆっくりとあたしは目を覚まし、奏の温もりに身体を預ける。
「うん・・・。変な夢を見ていたみたい・・・」
そしてまた目を閉じる。奏は軽く笑って、あたしの髪を撫でた。今この瞬間、あたし以上に幸せな人間なんているのかな。いて欲しいと願う。こんな世界にも、温もりはあるんだよ。
外の気温は寒いけれど、その分布団の中が温かくて、奏の体温が心地よくて、あたしは再び眠りに墜ちた。
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