5 水を吸う心(前)


 放課後、あたしは筆を持って文字を書いていた。
「それにしても、優ちゃんって地味だよねぇ・・・」
 佳苗が笑いをこらえて、それでも顔は笑いを隠しきれていないままつぶやいた。
「うるさいなー・・・」
「だって、『健康』って! 小学生レベルの単語だし、どれだけ病んでるのって感じじゃない」
 こらえきれなくなったのか、佳苗は笑い出し、隣にいた結城くんも笑った。
「そやそやー。もうクラスのみんなが提出し終わったのに、なかなか決まらんくて、決まったと思ったら『健康』やもんなぁ」
「だから、うるさいってばー。佳苗だって、いつもの雰囲気とは違う文字選んだじゃん?」
 筆を動かしながら、あたしはふてくされた。あたしの中学校の文化祭は明後日だというのに、ようやくあたしがこの書道に取り掛かったのだ。他のクラスメイトは当然ながら、もう提出している。
 文字を自分で選ぶというのが難関だった。あたしは国語が苦手だし、書道も苦手だし、なかなか決められず、少ない語彙力の中から選んだ熟語がこれしかなかったのだ。今あたしに必要な二文字。別に肉体的には普通に健康ですけれど!
「佳苗ちゃんは『外柔内剛』やもんなぁ。まさに佳苗ちゃんそのものや」
「それに比べて、結城くんは『哀愁』って、女々しいよねぇ」
 あたしが仕返しに言うと、結城くんは可笑しそうに笑った。
「初めてこの単語を知った人に言われたくないんやけどー」
 その言葉にカチンとしながらも、確かに中三にもなって哀愁という単語も知らなかった自分が恥ずかしいのも事実で、勢いに任せて筆を払った。これで完成だ。書道というものは、始めるまでは酷く面倒くさいものだけど、やり始めればあっという間に終わる。あたしのようにいい加減にやっていれば。
「よし、出来た。なんで五枚も提出しなくちゃいけないのか、意味分からないけれど」
「それは先生が一番出来がいいのを展示してくれるからやろ」
「そうかなぁ」
 あたしは書き終わった『健康』の五枚を見比べてみるけれど、どう考えても一番初めに書いたものが一番上手いと思う。そのあとの文字は、飽きているのが見え見えだ。
「これで一安心だ・・・」
 つぶやいて、墨で汚れた石を廊下にある洗面台で洗った。その間、手に英単語の本を持ちながらも、佳苗も結城くんもあたしを待っていてくれた。


 もう十月になっていた。
 今週末、第一週目の土曜日と日曜日が文化祭だ。
 音楽高校の文化祭から二週間近く経っていた。視線が交わったあの瞬間を思い出すと、あたしは今でも身震いを起こす。
「それにしても、優ちゃんも無事提出出来てよかったねぇ」
 木曜日の午後六時半。すでに暗い空の下で、あたしの横で佳苗が笑った。
「最近、優ちゃん調子悪い?」
「なに、突然?」
 何事もないようにあたしが笑うと、佳苗が大きな黒めで横からあたしを見つめた。
「なんか、疲れている感じだから・・・」
「みんな疲れているよ。受験生だもん」
「そうじゃなくて・・・。上手く言えないんだけど・・・。優ちゃん、いつも無理するから心配なの」
 ブレザーのポケットに手を突っ込んでつぶやく彼女は誰だろう。あたしは目を見張る。仲良くなったばかりの頃、小学生の頃は、ただひたすらに人懐こい目をしながらもあたしを追いかけてきた彼女は、いつのまにか物静かにこんなにもあたしを見据えているなんて。
 今まではいくらでも佳苗に嘘をつけたし、傷つけないように頑張ってきたけれど、もうそんな必要はないと思った。ううん、本当は最初からそんなものは要らなかったんだ。佳苗はいつだって、飾らない姿でいつもあたしに向き合ってくれていた。
 大切に出来ていないのはあたしだった。
「・・・優ちゃん?」
 佳苗が黙りこんだあたしの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「・・・あたし」
 あたしは震える唇を動かして、佳苗を見た。
「わ、忘れ物・・・、忘れ物したから、・・・先帰ってて!」
「え!? ちょっと優ちゃん!?」
 あたしは泣きそうになる顔を佳苗に向けないように踵を返して、そのまま学校へ走った。
 どうして今まで気付かなかったのだろう。あたしが佳苗に求めていたこと。


 むせそうになるほどの呼吸をして、下駄箱から上履きを取って床に落とした。軽い音が誰もいない生徒用玄関に響く。乱暴にコンバースのスニーカーを下駄箱に突っ込んで、あたしは教室に急いだ。誰もいない校舎は不気味だけど、今は全然気にならなかった。教室のドアを開けて、自分の席に急いだ。つい先ほどに片付けた書道道具をまた取り出して、墨汁を出して、筆を手に取って、そこで初めてあたしはまだ半紙を用意していないことに気付いて自嘲した。
「・・・何やってんだあたし」
 焦るな、焦るな。自分に言い聞かせて、下敷きと半紙を広げて、震える手でもう一度筆を握る。
 たった今、頭をいっぱいにした単語。
 夢世界。
 かつて昔にあづさが創った世界。あづさの言葉を簡単にすれば、普遍的と言いたいのだろう。そんな世界。簡単そうで、難しい。そんな世界は存在しないから、あづさは心に創った。人間はとても弱いものだから。
 あたしは奏との居場所を夢世界であればいいと思ったことがあった。それは中学一年の頃で、まだその感情を恋愛にするには覚悟や勇気が足りていなくて、子供だった。
 今はそんなものはキレイごとだと分かっていた。だけど、当時中学生だった姉がその世界を創造した意味も分かる気がする。彼女も分かっていたのだ。キレイごとだと。それでも願わずにはいられなかった。生きていくことは、とても悲しいことだから。
 そしてあたしも今なら分かる。キレイごとでは終わらせない。あたしと佳苗の関係だって、きっと変わらない。そして、あたしとあづさの関係も、もっと変わらない。そんなに単純ではないけれど、あたしは信じたいよ。
 筆で丁寧に三文字を書いた。夢世界。
 受験とか世間体とか進路とか未来とか常識とか、そんな混沌とした世の中で、それでも背筋を曲げずに生きていく。現実の世界はとてつもなく無秩序に散らばった場所だけれど。
 夢世界。
 あたしはひたすら書き続けた。五枚なんかじゃ足りない。ピアノを弾くときとおんなじ、感情をこめて書いた。未来を懇願するように。
 書道も芸術だ。音楽と同じ。いい加減になんてしてはいけなかった。
 目標は十枚だ。あと二枚、そう思ったとき、
「保本さん? まだ残っていたの?」
 担任が眩しそうに教室を覗いて、あたしは驚いて書きかけの半紙を墨で汚してしまった。
「あ・・・、先生」
「さっき提出したでしょう。どうしたの?」
「あの、違う文字を思いついたので、書いていました」
「もう外は暗いわよ。何枚書いたの?」
「えっと・・・、八枚・・・」
「じゃあ、特別にそれを受け取るから、早く帰りなさいね」
 担任は嘆息しながらも、あたしの顔を見て笑った。仕方ないわねという笑顔は、少しあづさを思い出す。
「ほら、何ぼーっとしているの? 早く帰りなさい?」
「あ、はい、すみません!」
 あたしは慌てて片付けて、学校を出た。
 午後七時の空。さっきよりも寒くなっている。これから憂鬱な秋が来るんだ。なぜだか無性に切なくなった。


 準備で慌しかった金曜日を超え、土曜日は生徒も部活を鑑賞したりと強制的に忙しく、やっと日曜日に自由を得た。二日目の文化祭で学校は更に盛り上がっていた。今日は一般人もたくさんやって来るのだ。
「それにしてもびっくりやなー。まさか保本さんの『健康』が日の目を見んとは」
 結城くんが心底残念そうに項垂れる。
「そこの人、うるさい」
「ちょっと優ちゃんー、そこの人っていうのは酷いんじゃない?」
 自由を得たと思えばあたしと結城くんは教室内で掲示の受付をやっている。受付とは言っても、ただ入り口に机を並べて座っているだけで、何もしていないんだけど。剣道部の屋台に差し入れを持って行き終えた佳苗は、暇だと言ってあたしの隣に立って、一緒に雑談していた。
「でも珍しい言葉だよね、夢世界って。誰が考えたの?」
「・・・秘密」
 姉の名前を出そうかと思ったけれど、やめた。なんだか気恥ずかしくて、もったいない気がした。あたしとあづさの関係性は、姉妹という簡単なものだけではないから。
 あたしが書いた不器用な夢世界の文字は、ちゃんとクラスメイトの中に混じっていた。
「あと五分で当番終わりやな」
 結城くんが目を細めて黒板の上にある時計を見た。当番が終われば、あたしたちは今度こそ自由だ。
「ねえ、これ終わったらバレー部がやっている喫茶店行かない? 今年はすごく評判がいいんだよね」
 佳苗がパンフレットをめくった。いいね、とあたしはうなずく。


 佳苗が言っていた喫茶店は、コーヒーや紅茶、スイーツはもちろん、簡単な軽食もあって本格的だった。
「頑張っているなぁ、バレー部。今年は県大会も突破しちゃったから、遠征費がかかるっていうので、儲けなくちゃいけないのねー」
 大変だなぁ、と佳苗はシビアで現実的なことをつぶやく。でもあたしが食べたスパゲッティはとても美味しくて、お祭りの割には贅沢をした気分だ。やたら背の高くて体格のいい女の子がコーヒーやケーキを運ぶ姿は、とても妙だけど、それすら思い出だ。
 校舎を出て、あたしたちはグラウンドに並ぶ屋台に目を向けた。
「ねぇ、桐川センパイは来ないの?」
 佳苗に訊ねられ、あたしは思わず顔をこばらせてしまった。これでは何かがありましたというのがバレバレだ。分かっていても、あたしは結局上手に嘘をつくことが出来ない。
 去年は奏が来てくれた。一つ上の学園の女の先輩が騒いでいるなか、奏と一緒に校舎をまわれたのは快感だった。あたしは思っている以上に独占欲が強いのだと気付かされた秋。
 記憶が目の前に広がる光景にリンクして、あたしは一瞬言葉を失った。
「あ、優ちゃん、桐川センパイ!」
「え・・・・・・」
 佳苗の視線があたしから外れ、思わずあたしは佳苗の視線の方向を追ってしまった。そこには佳苗の言うとおり、私服姿の桐川奏がいた。二十メートルくらい向こう側。あたしには気付いていないようだった。ほっと胸を撫で下ろし、なんとかこの場を逃げようとしたとき、
「桐川センパーイ!」
 佳苗が奏を呼んだのだ。奏はいぶかしげにこっちを見たあと、あたしを見つけて目を見開いた。
「ほら、優ちゃん。どうせセンパイと喧嘩でもしたんでしょー?」
「え・・・?」
「最近の優ちゃん、おかしかったもん。私に隠し事するなんて、無駄だよ?」
 あたしの背中を押す佳苗を恨めしく思う。でもどこか温かみがあって、あたしはやっぱり強く願う。夢世界を。
 本当は奏ともそんな世界を築きたかった。
 動けずに立っていると、佳苗はあたしから離れていき、そして代わりに奏があたしに近づいてきた。
 無言であたしの目の前に立つ彼は、相変わらずあたしを威圧する目を向ける。あの頃と一緒。久しぶりの距離に、あたしは緊張し、うつむいた。
「この間はどうも」
 奏は低い声で短く言い、あたしの手首をつかんで歩き出した。この間っていつのことだろう。一瞬考えるけれど、この力、この痛みさえ懐かしくて、あたしは奏の歩く早さに惑わされながらも、こんなときに泣きそうになった。


      
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