4 ふるえる指先(後)


 今から七年前に行われたピアノ国際コンクールを収録したCD。それに収録されるほどの実力の持ち主、東條梨香。天才少女とは彼女のことを言うのだ。あたしは何度も彼女の音だけをエンドレスリピートで聴いた。
 殊勝さの中に隠れる哀愁。言葉にすれば簡単だけど、彼女の音からは見事にそれが伝わる。初めて会った数日後、あまりにも腹が立って購入したときはちぐはぐを拭え切れなかったが、それでも彼女らしさを感じた。そして二度目に会った今日は、この音が本物であることを知った。
 彼女を知らなかった自分が憎い。こんなに素晴らしい女だとは思わなかった。いい意味で隠しているのだ、彼女は。この世の中を生きるために。
 一度だけと決めて、彼女の音を一通り聴いて、今日もあたしは勉強をする。馬鹿みたいにこの世のシステムに乗っかって、英語の教科書をめくった。
 明日は音楽高校の文化祭二日目だ。


 今日は塾がないので、流行の小さめの鞄にミニスカートを履いて、もう一度バスに乗る。何度同じことをすれば気が済むのだろう。結局昨日は音楽高校に入らなかった。東條梨香に会わなかったら、あたしはどうしていたのだろう。どっちにしろ、勇気がないことに変わりはない。それでもあたしは向かってしまう。まるで引力に逆らえない磁石のように。
「そんな毎日来るなら、素直になればいいのにー」
 そして、今日も正門前で出くわす東條梨香。こうも偶然が続くと、むしろあたしは東條梨香との運命を強く感じる。何の因果か分からないけれど。
 素直になればいい。そんなことあたしが一番よく知っている。でも出来なかったのだ。甘えるということも、何もかもを捨ててまで奏を好きになることも出来なかった。あたしはこれからを生きるために、どうしても切り捨てなければならなかった。それだけのことで、ある意味素直に生きている。正直に、進んでいる。
「・・・東條さんも昨日も来たのに、よく飽きないですね」
「あたしは音楽スキだもん」
 当然だという風に笑う彼女を、少しうらやましく思う。
「ねえ、今日は塾がないんデショ?」
「・・・はい」
「だったら一緒に行こうよ。あたし、保本サンとゆっくりお話したかったんだ」
 これ以上何を話すというのか。疑問に思ったけれど、今日のあたしは昨日ほど荒れていない。人間はとても不思議だ。ピアノの音を思い出すと、東條梨香のことも嫌いじゃないと思う。眩しくて、少し目がくらむけれど。
 短パンにニーソックスを履いた彼女は、今日も大人っぽい。想像以上にスタイルがよくて、あたしが横を歩くのをためらっていると、早く!と急かされた。
 一年ぶりに歩く音楽高校内は、去年とまったく変わっていなかった。その異質な空間も。
 受付でパンフレットをもらったけれど、開く勇気がなかった。どこで奏の名前を見てしまうか分からない。いちいち動揺する自分を認めるわけにはいかなかった。
「ね、お腹すかない? ここの模擬店のたこ焼き、すっごく美味しいのよ」
 あたしの手を引いて、東條梨香はあたしの返事も待たずに高いヒールのパンプスで歩いていく。きっと彼女は何の迷いもなく、人生という迷路の中も恐怖に臆せずに生きていくのだろうと思った。
「いらっしゃいませー」
「すいません、二つ下さい」
「ありがとうございまーす。・・・って、もしかしたら東條梨香さんですか?」
 ここでもこんなやり取りが行われている。東條梨香はあたしよりも有名人だ。一年前の、まだ無名に等しかった頃のあたしでも声をかけられたことのあるこの狭い世界で、東條梨香はどれだけ輝いた存在なのだろう。
「はい、そうでーす」
「やっぱり! 近くで見ても美人っスね。俺、ソロコンクール見たんスよ。・・・おい、東條梨香が来てるぞ!」
 たこ焼きを焼いていた男子生徒が目を輝かせ、テントの裏でたこ焼き粉を混ぜていた生徒数人に声をかけている。東條梨香はあたしを見て、肩をすくめたように笑った。この現状を楽しんでいるようで、でもどこか無理していた。
「うわー、ホンモノだ! わたし、東条サンのバイオリン大好きです! これからも頑張って下さい!」
「ありがとー」
 奥から出てきた初々しい女子生徒の発言を聞いて、あたしは目を見張った。思わず東條梨香を見つめるけれど、彼女はただ笑顔でいるだけで、何も言わない。
「おまけ、付けときました! また来てくださいねっ!」
「あははー、おまけ? ありがとう。みんなも頑張ってね」
 袋に入った二つの箱を両手に抱えながら、彼女は今度こそ可笑しそうに笑った後、あたしにベンチに行こうと促した。あたしは鞄をぎゅっと握り締めた。
「東条さんって、バイオリンもやっているんですか・・・?」
「あれ、知らなかったの? あたしは元々バイオリン子なのよ。小学校のときにピアノで優勝しちゃったけど、今もどっちかといえばバイオリンで活動しているの。もちろんピアノも好きだし、ピアノも弾いていくけれど、やっぱりバイオリンのほうが合っているみたい」
 ベンチに座りながら、東條梨香はなんでもないことのように壮大なスケールを口にするので、あたしは何がなんだか分からなくなってきた。あたしはピアノしか出来ない。勝負なんてしなくたって、最初から勝ち負けは決まっているではないか。
 彼女は袋からたこ焼きの箱を出して、一個あたしに渡した。
「あ、お金・・・・・・」
「いいよ。奢り。お詫びも兼ねてね。・・・こんなに安くないと思うけれど」
 声のトーンを落として、東條梨香はゆっくりとあたしの瞳の奥を見つめる。
「ねえ、昨日言っていたことはまだ変わらないの」
「・・・変わらないし、変えるつもりもないです」
「奏くんの気持ちは無視しているの?」
「それは・・・・・・・」
 東條梨香に責められるような視線を向けられて、あたしは目を伏せた。奏の気持ちなんて知らない。聞いたこともない。愛情を感じたのは確かだけど、それだって抽象的すぎた。奏ほどの人間には、あたしなんかよりもっとふさわしい人がいると思った。自由に生きればいいのだ。
「じゃあ、あなたはもう奏くんのことを好きじゃないの」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「例えばあたしが奏くんと付き合っても、あなたは文句言わずに受け入れられる?」
 具体的な質問をされて、あたしは更に言葉に詰まって唇を噛んだ。想像するだけで胸が苦しい。東條梨香のほうが、音楽の才能も、容姿も、年齢も、大人っぽい奏には釣り合っている。
 黙りこんだあたしに見かねたのか、彼女はため息をついてからパンフレットをめくった。
「午後から奏くんのソロコンサートがあるの。一緒に行かない?」
 はっと顔を上げると、東條梨香はあたしに一粒のキャンディーを渡した。
「さっきもらったおまけ」
 そう言って彼女は笑った。


 奏の音は相変わらずだった。だけど意外だと思ったのが、彼が選んだ曲がしっとりとしたモーツァルトであることだった。
「どうしてこんなのを・・・」
 七分程度の演奏が終わり、講堂がざわついて来ても呆然と座ったままのあたしに、東条梨香が振り向いた。
「・・・奏くんが志望したって聞いたよ」
「でも、奏はこんな雰囲気の曲は苦手だし、それに」
「苦手でも弾くのがピアニストでしょう」
 誰もいなくなって真っ暗になった舞台をまっすぐ見据えながら、彼女はあたしの言葉をさえぎった。
「あなたは本当に奏くんのことを理解してあげていた?」
 人の声がうるさいのに、彼女の声は消えない。
「・・・していないよね。本当に分かっていたら、こんな風に奏くんを苦しめたりしないよ」
「そこまで言う権利、東条さんにはないと思います」
「・・・そうだね。・・・でもあたし、まだ奏くんのことが好きだった気持ち、ずっと残っているの。新しい人にめぐり会っても、きっとずっと引きずるよ。保本サンにはその覚悟、ある?」
 東條梨香の落ち着いたトーンの声を聞くのがこれ以上耐えられなくて、あたしは乱暴に立ち上がった。
「もう帰ります」
 座ったままの東條梨香を見て、あたしは目を見開いた。なんと彼女は舞台を見つめたまま、涙をぼろぼろとこぼしていたのだ。
「・・・東条さん?」
「放っておいて」
 涙に似合わない口調で、彼女はぴしゃりと言い放った。
「・・・あなたなんて大嫌いよ。欲しいもの、全部持っているじゃない。・・・なのに、自ら捨てて、大切なものも分からないなんて。・・・大嫌い」
 そこまで言って、彼女は細い指で涙を拭った。世界をも巻き込む音を創り出す指。あたしだって嫉妬する。彼女に。考えても考えても分からない。答えは見えない。
 急にあづさのことを思い出した。歳をとれば分かることってあるのだろうか。一瞬でも歳のせいにしてしまったことに、あたしは首を横に振る。そんなことじゃない。あたしは大事なことを見失っている。
 だけど。
 このエリアの外に出れば、あたしはまた受験生で、もう何がなんだか分からない。この世の中の波に巻き込まれると、あたしは窒息して、音楽におぼれることしか生きる道がないのに。
 静かに涙を流す彼女を一瞥してから、あたしは背を向けて講堂を出た。あんなふうに泣けることも出来ない。一年前は、奏の演奏を聞き終わったあとにトイレで号泣した。
 感受性が弱くなっている気がする。
 呆然と目の前を、瞬く間に景色が流れていくように、人々があたしを置いていっている。あたしは時間に置いていかれている。まるで人形になっているようだ。
 講堂を出て、正門に向かった。それでもあたしは、この文化祭に来ずにはいられなかった。
 空を見上げた。この正門を出れば、あたしにはまたあの退屈な毎日が待っている。もう嫌だと思った。でもあたしが選んだことだ。二つの思いがあたしを挟み込んで、あたしは逃げ場を失う。
 この場所から家へ向かうのが億劫で、振り向いた。
 すると、目が、合った。
 奏と。
 さっきまで演奏していた奏が、立ってあたしを見ていた。
「・・・・・・・・・っ」
 あたしは息を飲み込んで、震える足を走らせた。正門に、逃げる。足がガクガクする。それでも走った。走って正門を出て、角を曲がって、信号を渡って振り返ると。
 もうその影はなかった。
 まだ足は震えている。あたしは浅い呼吸を繰り返しながら、心臓を抑えた。こんなに全速力で奏から逃げるなんて。
 疲れた足でバス停まで歩き、大きく息を吐いた。まだ指先が震えていて、持っていたパンフレットがアスファルトの道路に落ちる。
 あたしはゆっくりとしゃがみ込んで、パンフレットを拾い、そのまま立ち上がりたくなかった。
 あたしはどこに向かっているのか分からない。未来に歩いていきたいはずなのに。


     
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