4 ふるえる指先(前)


 あたしはこんなところで何をやっているんだろうと、何度もため息をついた。音楽高校の正門の前。正門をくぐれば、お祭りだ。
 奏と再会してからもう一年経ったんだと実感する。今年の音楽高校の文化祭は、去年と同じように盛り上がっていた。
「保本サン!?」
 聞き覚えのある声に思わず振り向くと、東條梨香が立っていた。初めてみる私服姿。白い半袖ニットに黒いミニスカート、今年流行ると言われているブーツ。自分と比べて惨めになる。あたしは夕方から塾だから、重いトートバッグを抱えていて、まだ真夏のミュールを履いているし、格好悪い。
「こんなところで何やってるの? 入らないの?」
「・・・・・・・・・」
 あたしは何も言葉が出なかった。こんなところで彼女に出会うなんて最悪だ。その様子を読み取ったのか、東條梨香がまつげを伏せて、無理やり笑みを見せた。
「この前のこと、まだ気にしているなら本当にごめんなさい」
 先日の殊勝な態度とは打って変わり、彼女は深く頭を下げた。そんなことされても、あたしはますます困るだけだ。唾を飲み込んで、あたしは口を開く。
「・・・別にもう関係ないです。あたしは、奏と別れたので」
「え・・・・・・?」
 東條梨香は勢いよく顔を上げた。
「別れた・・・?」
「はい」
「どうして」
「そんなの東條さんに関係ないです」
 あたしが冷たく言うと、東條梨香はあたしの手を掴んだ。華奢な指だった。彼女は小学校時代に一度全国でも優勝し、さらに国際コンクールでも賞をとっていることをあたしは後で知った。そのときのCDを探して、スピーカー越しに聴いた。彼女らしい音だと思った。彼女のことなんて何も知らないのに。
「関係あるよ! アタシのせいなら本当に謝るわ。奏くんにも頭を下げたっていい。誤解しないで、保本サン。・・・あたしは奏くんの彼女にもなれなかったのよ」
 泣きそうな顔をして東條梨香が言う。思わず同情してしまいそうになって、慌てて言葉を捜した。
「・・・東條さんのせいじゃないです」
「じゃあ、どうして! 奏くんはあなたがいないと駄目なの。・・・今日もきっと彼のソロがあるよ。なのに、あなたがいなくてどうするの」
「あたしと奏のこと、何を知っているんですか」
 あたしが冷たく言い放つと、彼女はあたしから手を離して、言いづらそうに、それでもはっきりと言った。
「・・・最初は噂だった。あたしが高校に入ったばかりの頃に、天才少女が中学に入っているって。・・・会えないのを心底悔しいと思ったよ。そのうち、また噂が流れたの。奏くんを好きな子は多かったから、情報はいつでも流れた。天才少女が奏くんと仲のいいって。そして、彼女は奏くんのお気に入りで、奏くんが音高に入れたのも、彼女のおかげなんだって」
「・・・それって、あたし?」
「あなた以外に誰がいるのよ」
 東條梨香は寂しそうに笑った。
「・・・悔しかった。あたしは奏くんが好きだったのよ。彼にも本当に最低なことをしたと思う。・・・反省、していたんだけど、あなたに出会って、つい・・・、ごめんなさい」
 もう一度頭を下げる彼女に、あたしは首を横に振った。
「どっちにしても、東條さんに謝られる必要はないです」
「だったら」
 震える声で、彼女は言う。
「奏くんを捨てないで」
「・・・奏はモノじゃないです」
「でもあなたがいないと、本当に駄目になる・・・」
 東條梨香の必死の声は聞こえたけれど、あたしは塾があることを理由に結局音楽高校の正門をくぐることはなかった。


 胸につかえているものがあった。でも上手く泣けない。涙に流したら少しはすっきりしそうなのに。
 塾の授業を聞いて、黒板に書かれたことをノートに書き込んでいくと、手首が痛んだ。ピアノを弾きすぎたときの手の痛みは嫌いじゃないけれど、シャープペンシルを持ちすぎて手が痛むと、色々心配になる。去年よりも酷くなったペンだこをぼんやりと見つめていると、あっという間に板書の量が溜まっていく。
 奏に別れを告げてから、もう十日が経っていた。
「もう別れよう?」
 あたしが電話越しにつぶやくと、しばらく沈黙が漂った。顔も見えないのはとても不安だけれど、こんなときは逆に好都合なのかもしれなかった。いくらでも嘘をつける。
『・・・なんで』
 六十秒くらい経ってから、奏が低い声でつぶやいた。あたしは大げさにため息をついた。
「なんでって、さっき説明したじゃない」
『あんな屁理屈、分からねぇよ』
「分からなくていいよ」
 強がりでモノを言う。分かってもらわなくていい。こんな気持ちはもう、あたしも持て余しているのだ。他人の奏に受け止めてもらおうなんて思わない。
 愛なんていらないと思った。そんな抽象的なものよりも、あたしは奏の音があれば生きていける。もうこれ以上欲張らなくていい。
 そんなことを考えていると、突然電話が切れた。なんの挨拶も交わさずに突然。あたしは驚いて、携帯電話を握っていたけれど、もうそれきり電話が鳴ることはなかった。
 終わったんだ。
 ぼんやり思った。
 こんなにあっけなく、終わっちゃうものなんだ。
 やっと携帯を床に置いて、あたしはどうすることも出来なくなっていた。泣きたい。でも泣けない。涙なんて流したら、ただの独りよがりな悲劇のヒロイン気取りに成り下がってしまう気がした。あたしが決めたことなのだ。
 あたしはこの先、恋をすることがあるのだろうか。でもきっと奏との恋以上のものは見つけられないだろうと思った。奏以上に好きな人が出来るなんて、想像することも出来ない。
 ぼんやりと十日前の出来事を思い出して、そうしていたら授業の波に乗れなくなっていた。仕方ないので、わけ分からないまま板書だけをひたすら写していく。
 生きている心地がしなかった。もうあたしには何も残されていなかった。何のために頑張っているのか分からない。何のために生きているのか分からない。
 本当にあたしは戦えるのだろうか。このシビアな世界で、たった一人で。シャーペンを握る右手が震えた。


 塾から帰るとき、駅で佳苗にばったり会った。
「あれー、同じ時間に終わったんだね」
 佳苗はあたしを見つけた途端、嬉しそうに笑ってくれた。それだけであたしは幸せになる。存在を認めてもらうということは、なんて幸せなんだろう。それは音楽を作り出すことよりも難しい。
「今日と明日、音高の文化祭でしょ? 優ちゃん行ったの?」
「・・・・・・」
 何も知らずに無邪気に訊ねてくる佳苗に、あたしは曖昧に笑うことしか出来なかった。二年前、あたしが奏をひどく傷つけたときに、奏が荒れていたことを教えてくれたのは佳苗だった。あたしだから奏を救えると佳苗は言った。同じことを東條梨香も言う。
 でも、あたしがこうして変わったように、きっと奏も変わったはずだ。奏ももうそんなに弱くない。あたしがいなくたって生きていけるはずだ。・・・もともと、あたしがいなくても生きていけた人だけど。強い人間だから。憧れるほどに。
 時折見せる弱さにあたしは惹かれて、抱きしめたいと思っていたけれど、この一年であたしは守ってもらってばかりだった。やっと彼を解放できたんだ。
 自分の中では納得できているのに、何故か佳苗には言えなかった。
 そして、明日もある音楽高校の文化祭のことが気になっていた。


     
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