3 ひび割れたガラス(後)


 呆然としたあたしの態度に、彼女はクスリと笑った。
「・・・なんて、ね。冗談よ」
 そう言って可愛らしく舌を出す彼女を見て、嘘じゃないだろうと分かった。・・・分かっていた。奏にはそういう過去があること、あたしみたいに恋愛初心者ではないこと、分かっていたのに、ひどく傷つく。
「大丈夫、保本サン?」
「・・・・・・・・・」
 あたしがじっと東條梨香を睨むと、彼女は嘆息を見せながら、困ったように微笑んだ。
「悔しいけれど、アタシ、あなたのピアノ好きなのよ」
「それとさっきの話、どう関係が・・・」
「ないけれどね。ちょっと気になっちゃっただけ。奏くんがお気に入りの女の子。悔しいけれどね」
 口角だけ無理やり上げて喋る彼女は、どこか無理しているように見えた。でも同情なんてしない。
 彼女は高校三年だと言っていた。ということはあたしと三つ違いだから、彼女がこの中学に通っていたとしてもあたしの入学と入れ違いで卒業してしまったのだし、顔を合わせたことがないとしても無理はない。
「あなたとアタシ、まだ正々堂々と勝負できないのね。来年になればアタシは社会人枠で戦わなくちゃいけない。悔しいな」
 少しうつむいて喋る彼女の髪の毛が風で揺れる。この場所に立っているのはとても辛いのに、何故か逃げられない。何故だろう。
「保本サン、早く社会人枠に出てきてね。とても待ち遠しい」
「え・・・・・・」
 彼女の言葉にあたしは一瞬言葉を失った。上手い科白が出なくて、唇だけが空回りする。
「あの・・・」
「何?」
「あの、あたし、・・・あたしは多分、社会人枠には出場しないと思います」
「どうして」
 彼女は怪訝そうに眉根を寄せる。あたしは一度目を逸らしてから、そして思い切って彼女を正面から見つめる。思ったよりも大人でもなかった。あたしと同じ生き物。安心した。美人だし大人だし、あたしと違う世界の人だと思っていたのに、正面から向き合えば、あたしと変わらない。大丈夫。
「あたしは・・・音楽の道には進まないから。高校生くらいまではコンクールに出ることもあるだろうけれど、社会人枠に出られるほどあたしは上手くもないし・・・」
 あたしがしどろもどろ言うと、東條梨香は噴き出したように笑い、そして人間ではないものを見るような目つきであたしを見た。
「あなた馬鹿?」
「え・・・」
「奏くんは何も言わないの? 奏くんの前でそんな科白言ったら、あの人傷つくわよ」
 奏の名前が出てくるたびに、彼女と奏の仲を疑ってしまって悔しい。奏よりも年上の彼女。今度こそいたたまれなくなり、あたしはかばんを握り締めて踵を返して走り出した。
 彼女が何か叫んだのが聞こえたけれど、もう何も聞こえない。


 奏のことが好きだ。思えば思うほど涙が出る。伝えられないもどかしさが切ない。全てあたしのせいなのに。
 抱きしめられたときの感触や唇の温もり、わずかに見せる奏の笑顔、あたしが感じてきたものは全て事実なのに、まるで夢の中の出来事のようで怖い。いつだって思い出せるのに、片思いをしている気分だ。
「優ちゃん?」
 奏の姿が見えたと思ったら、声が聞こえて、あたしはゆっくりと目を覚ます。
「優ちゃん、起きてー? 大丈夫?」
 声の方向を見上げると、玉島先生があたしの顔を覗き込んでいた。横目で場所を確認する。ピアノ教室の待合室のソファで、あたしは寝ていたようだった。
「・・・すみません」
「いいのよ。おはよう」
「・・・おはようございます」
 眠い目をこすりながら、立ち上がると、ふらついた。
「優ちゃん!? 本当に大丈夫?」
「んー・・・」
 大きくあくびをして、あたしは先生を見た。
「うん、大丈夫。でも眠い・・・」
「昨日何時に寝たの?」
「えー・・・、朝の四時・・・?」
「・・・ちなみに朝は何時に起きたの」
「あー・・・七時にお母さんに叩き起こされました」
 あたしが答えると、先生は盛大にため息をついた。
「優ちゃん、そんな生活を続けたらいつか倒れるわよ」
「・・・今倒れそうです」
「どうしてもっと早く寝ないのよ」
「・・・学校の宿題やって、塾の宿題やって、布団に入ったのは二時くらいだったんだけど。なんか眠れなくて・・・」
「二時でも十分遅いわよ」
 玉島先生はあたしの前を歩いて、狭い廊下の突き当たりのドアを開けて部屋に入った。
「時間になっても優ちゃんが入ってこないから驚いたわ」
「・・・ごめんなさい」
「いや、私はいいけれどね・・・。受験で忙しいなら、ピアノをお休みしてもいいのよ?」
 ぼんやりと鞄をピアノの椅子に置いて楽譜を出していたら、思いがけない言葉が聞こえて、あたしは先生を見た。
「え・・・」
「だって、こんなに憔悴しきっているのに、ピアノを弾けるの?」
「・・・・・・・・・・・・」
 あたしは唇を噛む。本当は分かっていた。もう限界だと思っていた。それでも。
「あたしからピアノを取らないで・・・・・・」
 涙が溢れ出して、あたしは床に座り込んだ。椅子の上に重なった三つの楽譜も崩れて、あたしの横に音を立てて落ちる。
 まるで片思いをしているようだ。昔みたいに、ピアノでしか繋がっていないみたいだ。奏との絆はこんなものじゃないって信じたいのに、あたしはただピアノを弾くだけで満足していた。
「優ちゃん・・・・・・」
 先生も困ったようにあたしの隣にしゃがんだ。あたしの背中を優しく撫でながら、あたしの顔を覗く。
「誰も優ちゃんの音を取ることなんてしないわ」
 でも、と言いかけて、あたしはやめた。勇気を出して行った音楽高校の文化祭。あの頃のあたしは、こんなことを望んだんじゃない。こんなに傷つくことを願ったんじゃない。前にも進めなくなるような恋なら、最初からしなかった。
 結局、あたしは歳だけとって、でも全然成長していない。まだ子供のままだ。二年前と何も変わっていない。
「優ちゃん・・・」
 あたしは涙を拭いて、先生を見た。
「優ちゃんがお休みをしたって、ちゃんと戻ってこれるように、私はこの場所で待っているよ。優ちゃんはピアノとは違う方向を選んだんでしょ? きっともっといい音を拾ってくれるって、私は信じているよ」
 先生の言葉を聞いて、信じられるということはこういうことなんだと知った。あたしは少しでも奏の力になれたかな。あたしは未来や奏を信じて今まで歩いてきたつもりだったけれど、それは奏にちゃんと伝わっていたかな。
 でも、もう駄目だ。あたしは一瞬でも奏を疑った。傷つけた。  あたしがするべきことは間違っていた。受験に逃げるのはただの逃避だ。誰のためにもならなかった。


 ビルを出ると、雨が降っていた。まるでガラスにヒビが入る音だ。生理的に苦痛を伴うこの音。雨の音は嫌いじゃないはずなのに、痛い。心が。
 涙みたいだと思った。決して綺麗な水ではないけれど、空の涙だ。空が泣くならあたしはもう泣く必要はないよね?
 家に帰って、温かいお風呂に入って、涙で荒れた顔を洗って、鏡で自分の顔を睨んだ。すぐに湯気で曇るあたしは、とても白けた顔をしていたけれど。
 二年前を思う。そして、今を思って、未来を思う。
 お風呂から上がって部屋で英語の文法を解き終わると、もう十一時近くになっていた。まだ数学の宿題が残っている。明日の夜は塾もある。一度机から離れて、ベッドに倒れこんだ。今にも寝てしまいそうな自分を叱咤しながら、携帯電話を握り締めた。
 今だったら、あたしは素直になれるだろうか。今奏の声を聴けたなら、あたしは明日からも頑張れる気がする。
 起き上がって、携帯を慣れた手つきで操作して、受話器を耳に当てた。コール数四回目が終わろうとしたときに、コール音が消えた。そして変わりに期待する声。
『もしもし・・・』
 やっぱり受話器越しは切ない。それを嬉しく思ったときもあったのだ。携帯電話を買ってもらったばかりの頃、あたしは奏のすべてを独り占めした気分になっていた。でも違ったのだ。きっと一生あたしは奏だけを見つめて生きていくことなんて出来ないし、奏も同じだ。
「あ、も、もしもし・・・」
 窓の外ではまだ雨が降っている。
 最後に交わした会話を急に思い出して、あたしは口をつぐんだ。・・・大丈夫、分かっているよ。大丈夫だ。
 奏を好き。誰かを思って泣くことがあるなんて幸せだ。この気持ち、全部全部閉じ込めて、あたしは無理やり声を出す。
「奏・・・」
 鏡で見たあたしの顔を思い出す。大丈夫だよ、やっぱりあたしは二年前のあたしとは違う。でも、きっと二年前と同じように戦えるよね?
「奏、この前はごめんなさい・・・」
『・・・・・・うん』
 そっけない奏の返事。いつもと同じだ。それだけであたしはなんだか嬉しくなる。
「自惚れていいよ。もっと自惚れて、もっと分かっていいよ。・・・だから、ね」
 あたしは息を吸い込んだ。走馬灯のように流れる、奏と一緒に過ごした時間。それは決して長くはなかったけれど。
「もう別れよう?」
 これ以上、あたしが奏を傷つけないように。
 あたしは奏を解放する。あたしという呪縛から自由にして、そして奏には過去も未来も関係ない場所で、ピアノを弾き続けて欲しいと思った。その音はきっとあたしにも届くから。
 信じている。


     
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