3 ひび割れたガラス(前)


 九月になっても暑さは変わらない。始業式の体育館は蒸すように暑くて、脱水症状を起こしそうになる。
「優ちゃん、おはよー!」
 始業式が終わった後、廊下で佳苗があたしの肩を叩いた。
「おはよう」
「久しぶりだねぇ。なんだかんだで夏休み、あんまり会えなかったし」
「そうだね。元気だった?」
 あたしが訊ねると、佳苗は笑顔でうなずいた。でも目の下にクマ。きっと宿題や勉強で寝不足なんだろう。佳苗らしいなって思うけれど、心の中で少し焦りが生じる。
 今はもう、周りが全て敵だなんて馬鹿なことは考えていない。人間はとても複雑な生き物だから、言葉だけではどうにもならないこともあるけれど、それでもいつかは分かり合えるって信じたかった。例えそれがキレイごとだとしても。
 そのために音楽は存在するのかもしれないと最近気付いたのだ。
「二学期始まっちゃうし、一ヵ月後には文化祭かぁ・・・」
「剣道部は今年も模擬店?」
「うん、でも主に二年生が活動してくれるけれどね。私たちは引退した身だし。それよりも学級発表が面倒だな。三年生は書道展示でしょ」
 ため息をつきながら佳苗がつぶやいた。面倒くさいのはあたしも同感だ。受験生であるあたしたちは、書道をしている時間すら惜しいのだ。


 午後から塾に行くために、佳苗とあたしは二人でファーストフードへ昼食をとりに行った。今日が始業式である学校は多いため、店内は制服姿で埋まっていた。
「東京、どうだったの?」
 唐突に訊ねられ、あたしは持っていたハンバーガーを握りつぶしそうになった。
「・・・えっと、賞はとれなかったけれど」
「初めての全国だもん。進出しただけでも十分すごいと思うけれど。それより桐川センパイと行ったんでしょ? 楽しかった?」
「・・・・・・・・・」
 上手く答えられずにあたしは黙り込んだ。そんな簡単に言えるものではなかったし、しかも。まだあれから連絡を取っていない。もう二週間以上経つのに。
「佳苗・・・」
 自分の声があまりにも弱々しいことにびっくりしながらも、あたしはつぶやく。
「奏の昔の彼女って、どんな人なのかな・・・」
 そう訊ねると、佳苗は驚いたように目を見開いた。
「・・・今更そんなこと気にしてどうするの」
 何かを知っていることを隠して、佳苗は無理やり笑う。でもあたしは笑えない。今まで放っておいた問題が急にあたしの心のど真ん中を突き刺す。今までは考えなくても幸せだった。そんなことを考えなくても、あたしは奏を信じたし、過去なんてどうでもいいと思った。でもなぜだろう。
 佳苗の言うとおりだ。今になって、奏の過去がとても気になるなんて。動揺している自分を認めたくなくて、あたしはハンバーガーにかじりついた。
 一年前は、まだ奏と再会していなくて、もがいていた。会えないことに理由をつけて諦めていたこともあった。その頃は、奏と付き合うなんて夢の話で、もしそれが叶えばあたしは何も悩むことはないと思っていた。だけど違った。付き合ってからも、悩みは尽きない。だって、あたしは一度も好きだと言われていない。
 大変なことに気付いた。もうすぐ一年になるのに。そして、何よりもあたしも奏に好きだと一度も言っていない。言わなくても分かるって自負していた。でも、それなら愛なんていらない。
「・・・優ちゃん、大丈夫?」
 佳苗が、急に黙り込んだあたしの顔を覗き込む。あたしは曖昧に笑った。
 もう考えるのはやめようと思った。あたしたちがこれからどうなるかなんて分からないけれど。あたしは恋愛に現を抜かしている場合ではないのだ。塾の授業の時間のことを考えて、あたしはストローでオレンジジュースを飲み干す。
 もう考えるのはやめよう。その矢先、テーブルの上に置いてあった携帯電話がバイブで震えた。あたしは思わず生唾を飲み込む。
「優ちゃん、携帯光ってるよ。メールじゃない?」
 もう逃げられない。何故か、誰からのメールなのか分かった。

  久しぶり。近いうちに会えるか?

「センパイからのメール?」
 佳苗の質問に、ただ首を縦に振った。相変わらず愛想のかけらもない文章。

  今日は塾だし、明日から授業も始まるし、受験生だし、無理。

 あたしも可愛げのないメールを早打ちで送り、佳苗とファーストフード店を出ると、スカートのポケットの中でまた携帯が震える。

  じゃあ今日、塾が終わったら連絡して。駅から家まで送るし。

 あたしは唇を噛んだ。正直、今は会いたくない。しばらく会っていないのに、会いたくないなんて、もう本当に駄目かもしれないと思った。でも断る理由も思いつかないので、適当に返事を送り、あたしたちは塾に向かった。


 佳苗とあたしは同じ塾に通いだしたものの、クラスは違うので、やっぱり塾の中の孤独感はたまらない。それでも学校で友達がいなかった頃よりは少しマシだった。勉強を理由にわざと周りをシャットアウトすることも可能だった。
 午後七時まで三科目の授業を聞いて、やっと終わる。佳苗とは終わる時間も違うので、一人で黙々と帰る。いろんなメロディを頭に浮かべながら帰れば、満員電車の中も退屈ではなかった。
 地元の駅について、ロータリー内に足を踏み入れると、奏と目が合った。そういえば今日迎えに来るって言っていたっけ。昼間のメールを思い出して、ため息をついた。
「おかえり」
 ジーパンのポケットに手を突っ込んで、だるそうに奏は言う。
「・・・ただいま」
 だから、あたしも笑顔になれない。会うのは何週間ぶりだろう。何の感慨もない。あたしたちは会わないことに慣れてしまった。
 いつの間にこんなに陽が短くなったのか、空はもう真っ暗で、外灯が眩しい。
「最近忙しいのか?」
 奏がよそよそしく訊ねて、あたしはむっとした。
「そう言ってるでしょ」
「連絡もしなかったし、会わなかったから怒っているのかと思った」
「・・・何言ってるの」
 あたしは立ち止まって、奏を睨んだ。
「自惚れないでよ。あたしは奏に会いたかったわけじゃない」
 言ってしまってから、言い過ぎたと後悔した。すぐ後悔するくらいなら言わなければいいのに、出てしまった言葉は止まらなくて。
 急に二年前を思い出した。殺されると思ったあの瞬間が身体に蘇って、あたしは怯んで奏から一歩離れた。そして、おそるおそる奏を見上げる。
「・・・・・・」
 あの頃とは違っていた。奏の酷く傷ついた顔に、あたしも傷ついた。傷つけたのはあたしなのに。
 唇が震える。もう何も言えない。逃げ出したい。立っているのも苦しくなってきたとき、奏は無言のままあたしの手を取って歩き出した。
「ちょ、ちょっと、痛い・・・」
 すごい力であたしの手首はつかまれていて、奏は相変わらず歩くのが早くて、あたしは必死に追いかけた。追いつくことはないだろうと思っていた大きな背中。ただ必死に単純に好きだと思っていた頃が懐かしい。
 無言のまま沈黙の中でひたすら歩くのはとても苦しかった。でもあたしは言葉を発することが出来ない。奏の顔も見ることが出来なくて寂しい。ああ、あたしはまだこんなに奏を好きなんだと知る。胸が締め付けられるほど苦しくて切ないのに、どうしてそれを言えないの。どうして素直になれないの。
「優・・・」
 奏が立ち止まって、ため息をついた。あたしを見ている。
「なんで泣くの」
 まるで奏のほうが泣いているような表情なのに、そう言われて可笑しいと思った。気付いたら家の前で、結局あたしは何も言えないままだった。あたしは奏を見上げた。視界が濁っている。まるであたしの心のようだ。
 再び奏に手をつかまれて、そっちに気を取られていたから奏の顔が近づいてきたことに気付かなかった。あ、と思ったときにはキスされていた。久しぶりだった。久しぶりの温もり。もうあたしたちは駄目かもしれない。頭の端で考えながら、それでもあたしは奏を好きで、必死に答えた。あたしの気持ちをキスに込めた。


 奏とのことはもう誰にも相談できなかった。佳苗にも結城くんにも。
 あたしたちはそんな話をしている場合ではない。学校に来て目が覚めた。昨日のような思いに縛られているわけにはいかない。それに、勉強をしていれば忘れられると思った。
 朝から夕方までの学校はしんどい。引きこもりたくなるけれど、それでもあたしたちは馬鹿みたいに毎日学校に来て、それなりに勉強して、友達と喋って、帰る。毎日同じ繰り返し。これでいいんだ。
 夕方、かばんを持って一人で校舎を出る。上履きから気に入ってるコンバースのスニーカーに履き替えて、紐を結んで、前へ歩く。前へ、前へ、前へ進む。
 前方向を凝視するように歩かないと、気が狂いそうだ。
 すると一人の女と目が合った。正門に寄りかかっている、他校生。
「コンニチハ」
 あどけなく彼女は笑った。
「保本優サン?」
 訊かれて、馬鹿みたいに一言、ハイと答えたら、彼女は可笑しそうに笑った。
「桐川奏、の、彼女サン?」
「・・・・・・・・・」
 そこまで言われて、やっと気付く。彼女の正体。
 東京のコンクールの日の朝のホテルの前で会った人だった。この制服も、あの時と同じではないか。女子高の制服。この学校の正門前にはふさわしくない。自分のただの公立中学の地味な制服がとてもダサく見えた。
「何の用ですか」
 あたしの声は驚くくらい震えていた。彼女を見つめる目もきっと弱いだろう。
「アタシ、東條梨香(とうじょうりか)。高三。ヨロシクネ」
 まるで取ってつけたように自己紹介されて、少し腹が立つ。奏より年上なんだということだけ、頭に突っかかる。
「せっかくだから、歩きながら話さない?」
「・・・どうしてですか」
「どうしてって?」
「あたしがあなたと話す理由、ないじゃないですか」
「んー・・・」
 東條梨香は困ったような仕草を見せてから、軽く笑う。巻かれた茶髪と短いスカートから伸びる足は、女っぽさと大人っぽさを持ち合わせていて羨ましい。
「気になるじゃない?」
「・・・なんで」
「だって、アタシが奏の初めて、だから? ・・・意味分かる?」
 目の前が真っ暗になった。


     
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