2 水晶の世界


 もう八月もあと十日しか残されていなかった。宿題はほとんど七月の間にやっていたけれど、苦手な英語の長文読解が残っている。そして、塾の夏期講習もあり、残暑の中忙しい毎日を過ごしていた。
 塾は学校と違って、クーラーが効きすぎていて、一日目に何も知らずに上着を持ってこないで半袖Tシャツで授業を受けていたあたしは途中退出をやらかした。初日で途中退出。どう見てもやる気のない生徒だ。それでも冷え切った腕がビルの外の三十度越える空気に触れたとき、心底温かいと思った。その翌日からはパーカを持参して、塾の授業を聞いた。慣れない冷たい空気の下。受験生という身分。突然現実の世界に連れ込まれたような感覚に身震いした。あたしの生きる場所はこんなところじゃないのに、敢えて選んだ道。
 予想通り、あたしは友達なんて出来なくて、休憩時間は教室中がにぎわっているのに、あたし一人だけが浮いていた。他の生徒は夏休みが始まってからこの講習に参加しているのに、あたしは八月の後半に初めて来て、しかも一日目から途中退出。後れをとっても仕方がなかった。
 数学と国語と英語の三科目が終わって、夕方にはあたしはそのビルを一人で出る。外はまだ真昼の熱気を取り払っていなかった。西からの日差しが痛い。
「保本さん?」
 声がかかって振り向くと、クラスメートが立っていた。
「こんなところで何しとるん? ・・・あ、塾?」
「結城くん!」
 あたしは肩にかけていたトートバッグの紐をぎゅっと握った。家族以外の人と喋ることが久しぶりだったことに気付いた。
「うん、塾。・・・って言っても、最近になってやっと行き始めたんだけど」
「そやなぁ。先週まではコンクールの全国大会で忙しかったらしいやん」
「うん・・・・・・」
 全国大会、という響きに二人で眉をひそめた。結城くんもあたしが全国のトップクラスには及ばなかったという結果を知っているのだろう。そして、奏のことも。
「桐川さんは、さすがやな」
「そうだね」
 他人事のようにつぶやいたあたしを、結城くんはぎょっと見つめた。
 あの東京で、あたしが掴んだものは何だったかな。奏はちゃんと結果を残してきた。あるコンクールの全国大会の奨励賞。最優秀賞や準優秀賞には及ばなかったけれど、それでも立派な結果だ。きっと奏が通う音楽高校も喜ぶ。それに比べてあたしは・・・。いつかのコンクールの悪夢を思い出した。音が壊れて失くなった、二年前。
「・・・無理、すんなや」
 結城くんは太陽みたいに笑って、そのまま街の中に溶け込んで行ってしまった。あたしはしばらくそのざわめきを見つめて、帰るために駅に向かった。足取りが重い。
 したいことはたくさんあるのに、どれも中途半端だ。夢も勉強も、そして恋も。


 街から家まで、電車で数十分。電車から降りたときには、空は薄暗くなっていた。家の鍵を取り出して、鍵を開けてドアを開けると、見慣れないミュールが一足ど真ん中に置いてあった。
「おかえりー」
 間延びした声に、あたしは肩の力を失くす。
「・・・おねえちゃん、うちに帰るなら前もって言ってくれればいいのに」
「だって、このほうが優が驚いて面白いでしょう?」
 黒いワンピースが異様に似合う姉は、そう言ってふんわりと笑った。同じ姉妹でも、あたしたちは顔も似ていないし、まとわりつく雰囲気ってやつも全然違う。あたしはあづさみたいにふんわり柔らかい雰囲気の、いわゆる癒し系って人間では絶対ない。
「どこ行ってたの?」
「塾。行き始めたの、最近だけど」
「青春だねぇ」
 リビングまでの廊下で、そんな会話をしながらあづさは何が可笑しいのかクスクス笑う。
「塾が青春なの?」
「だって大人になったら行けないし、多分勉強もすることなくなるのよ? 勉強できるのって今のうちなんだよね」
「お姉ちゃん、お母さんと同じこと言うんだね」
「・・・わたしも歳とったってことかな」
 思い切りへこんでつぶやくあづさを見て、やっとあたしは笑った。彼女はとても表情豊かだ。そういうところも似ていない。
「おかえりなさい」
 リビングのドアを開けると、キッチンから母がいつものように顔を覗かせた。
「ただいま」
 それだけ言って、あたしはまたリビングから廊下を歩いて、階段を上って自分の部屋に荷物を置く。父はまだ帰ってきていないようだ。


 父が帰ってきて、久しぶりに家族四人でご飯を食べてから、部屋に戻るあたしにあづさもついて来た。
「まだ奏くんとは続いてるの?」
 あたしのベッドに背中を預けるようにして、クッションを抱えたままあづさは訊く。あたしは机に座って塾のテキストをめくりながら、嘆息した。
「お姉ちゃん、あたしの勉強を邪魔するの?」
「だって、優は頭いいんだし、そんなに勉強しなくたって大丈夫よ。それより奏くんとはどうなの?」
「どうって・・・・・・」
「どうせ一緒に東京行ったんでしょ? お母さんにはただの先輩と行くって嘘ついちゃうなんて、悪い子だなー」
「・・・先輩っていうのは嘘じゃないもん」
 言い訳をしながら、十日前のことを思い出す。東京駅から新幹線に乗って西へ。ずっと無言で、結局あたしたちはお互いのことをほとんど喋ることもなく、奏は家まで送ってくれたけれど、キスもしないまま帰っていった。・・・こんなこと考えていると、いつも帰り際にキスすることが当たり前になっていることが可笑しい気がしてくるけれど。
 そしてずっと連絡はない。あたしは受験生だし、奏は他にもコンクールだったり課題だったり、忙しいのだ。学校も置かれている状況も違うあたしたちは、会わないまま過ごすというのも難しいことではなかった。そのことに寂しいという感情を抱くほど、暇でもなかった。
「東京でなんかあった?」
「・・・嫌な女に会った」
「何それ。元カノ?」
「知らないよ!」
 テキストを閉じて、椅子を跨ぐように座ってあづさを見下ろした。奏の昔の女事情なんて知りたくもない。でも奏はあたしより二つも年上だし、あたしが入学する前は荒れていて裏では女関係も乱れていたって誰かが言っていたし、考えれば考えるほど嫉妬する。噂に流されたくないのに、あたしは噂に振り回されている。
「ごめん、ごめん。優、でもそんなに深刻に落ち込むことでもないと思うけど」
「・・・深刻だよ。あたし素直になれないし」
「奏くんとはもう寝た?」
「・・・・・・・・・」
 あづさの発言に、あたしは椅子ごとひっくり返りそうになった。な、何を言うのかな、この女! 誰だ、この人。
「優、大丈夫ー? まだなんだ? もうすぐ付き合って一年になるのにねぇ」
 からかっているとしか思えない。笑いながら、あづさは倒れそうになったあたしを支えた。手が温かい。
 驚いたのはむしろ、あづさの発言だった。そういう話題を簡単に切り出せるほどオトナなんだとびっくりした。もっと不器用な人だと思っていたから。
「別に無理にやれとは言わないけどさ。素直になれないなら、そういうのもコミュニケーションの一つかなってわたし個人的には思うわけで」
「・・・本当?」
「だって甘えられる絶好のチャンスじゃない? 特に優みたいな子は特にね」
「・・・・・・・・・」
 顔が赤くなる。想像、したことがないとは言わない。でもやっぱり自分には縁がないことのようだった。ただでさえ手を繋いだりキスをするだけで心臓が破裂しそうなのに、それ以上に抱きしめられたら、あたしは本当にやばい。素直になったら駄目な気がする。
「それってどうゆう感じなの」
 かすれそうになる声を抑えて、あたしがあづさをじっと見つめると、あづさは微笑んだ。
「透き通った世界を見つけられるよ」
 この世にそんな世界があるなんて思えない。人間ほど濁った生き物にそんなものが見えるなんて思えない。あたしは眉をしかめて、再び机に向かってテキストを開いた。あづさもそれに伴って立ち上がる。
「じゃあ、勉強の邪魔してごめんね」
 まるで常識人のようにあづさはそう言って、部屋を出て行った。急に寂しくなる部屋の気配。奏のことなんて考えなくなるほど勉強してやる。そう思うのに、気付けばシャーペンを持つ手は止まって、奏のことばかり考える自分が憎い。今日も携帯は何も告げない。


     
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