第三部
1 呪文めいた言葉(後)



 慣れないシーツの感触に目を覚ましたら、もう朝の七時過ぎていた。なんとなく疲れが取れない身体を起こし、ホテルのスリッパを履いて洗面所に入り、鏡を見た。ちゃんと寝たはずなのに、寝不足の顔をしていた。顔を洗って、歯を磨いて、制服に着替える。ちゃんと第一ボタンまで閉めて、襟元のリボンの形を整える。
 今日はアクセサリーは一切しない。奏にもらったピアスと佳苗にもらった指輪を小物ケースに入れる。両方とも私にとっておまじないのような物だから、一度小物ケースを握るように願掛けをした。そのとき、枕もとに置きっぱなしの携帯電話が鳴った。
『おはよ』
 いつもよりもトーンの低い声が聞こえた。
「・・・おはよう」
『朝食、食いにいかねー?』
 奏に問われ、あたしは机の前にある大きな鏡を見た。まだ髪をちゃんと整えていないけれど、そんなに乱れていない。
「うん」
 あたしが答えると、部屋のチャイムが鳴った。慌ててスリッパから靴に履き替えてからドアを開けると、やっぱり制服姿の奏が受話器を持ったまま立っていた。
「おはよ」
「・・・おはよう」
 馬鹿みたいにさっきと同じ挨拶をして、あたしたちは並んでエレベーターに乗った。先に乗っていたサラリーマンが珍しい物を見る目つきであたしたちを見ていた。確かに制服の男女二人がこうして朝のホテルで一緒にいるのは奇妙な光景だ。あたしたちが別々の部屋だったなんて、想像だけでは分からないのだし。あたしより頭一つ分背の高い奏の顔をこっそりうかがってみるけれど、そんな視線にも気付いてないのか、気にしていないのか、無表情に何か一点をじっと見据えていた。
 コンクールの朝。あたしは不思議なほどに緊張をしていなかった。これを何かの小さな発表会か何かと勘違いしているんじゃないかと自分で疑いたくなる。緊張しすぎるのはもちろんよくないことだけど、適度な緊張がないと駄目なのも知っていた。
 ロビーの横にあるレストランで、あたしたちは洋食の朝食を頼んだ。ロールパン二つとスクランブルエッグ、サラダ、オレンジジュースが運ばれてきて、朝からこんなに食べられるか心配した。あたしたちは不自然なほど会話をしなかった。サラダのレタスをかじる音が自分の耳の中で響く。シャリシャリいうその音は自然に満ちていて、夏らしかった。ウサギになった気分だ。
 急に唇の感触を思い出して、あたしは飲んでいたオレンジジュースのグラスを叩きつけるようにテーブルに置いた。思ったよりも軽い音が響く。
「・・・どうした?」
 黙々とパンをかじっていた奏が、怪訝そうにあたしを見た。
「な、なんでもないっ!」
 怒るように答えて、あたしは極力奏の顔を見ないようにしながら残りのサラダを食べた。それだけでお腹いっぱいになった。朝からなんということを思い出しているのだろう、あたしは! オレンジジュースを飲み干して席を立った。
「ごちそうさま!」
「・・・まだパンと卵、残っているけど」
「お腹いっぱいなの。奏、食べていいよ!」
 部屋の鍵を握ったまま顔も見ないで意味もなく叫んで、あたしは走ってエレベーターに飛び乗った。鼓動が高鳴っている。どうかしてる。だって。・・・だって。
 こんなときにでもあたしは奏のキスを望むのだ。


 髪の毛をブローする。もともとストレートなあたしの髪は胸元まで伸びていた。学校のときはピアスを隠すように髪を下ろしているのだけど、今日はどうしようか考えて、一度二つに結んでみた。ひどく幼く見えて、結局下ろすことにした。
 午前八時半。あたしたちは荷物をフロントに預けてから外に出た。今日も東京の日差しは暑い。これからあたしたちは別行動になる。あたしは渋谷の会場で、奏は電車に乗って代々木に向かう。
「一人で行けるか?」
 奏が太陽の光に目を細めながら訊ねた。
「子供じゃないんだから、大丈夫だよ」
 あたしは笑いながら答えた。本当は不安で仕方がない。知らない土地で、たった一人で。でもそんな弱音も吐けなかった。あたしは奏に手を振った。
「じゃあね、そ・・・」
「奏くん!?」
 挨拶を仕掛けたとき、ホテルの入り口から声がした。あたしじゃない声だった。女っぽくて甲高い声。あたしと奏は二人同時に振り返った。
「やっだー、奏くんじゃない! もしかしたらこれから代々木会場?」
 その女は茶髪のパーマがかった髪の毛を揺らしながら奏に近づいた。地元の女子高の制服が可愛かった。よく似合っていた。一言で言うなら大人っぽい。あたしよりずっと奏に似合っていた。あたしが言葉を失くして呆然としていると、女はあたしを一瞥して、そして何もなかったように奏に微笑んだ。
「代々木のホテル、取れなくてさー、仕方なく渋谷に泊まったんだけど。でも奏くんに会えてラッキー。ねぇ、一緒に行こうよ」
 あたしは三回連続で瞬きをしながら二人を見つめ、そして二人に背を向けた。奏があたしを気にしているのが分かったけれど、振り向けない。ホテルから右に行けばいいのか左に行けばいいのか分からないのに、とりあえず右に走って、人通りの多い交差点の端でやっと立ち止まった。
 首の後ろ側にくっついている髪の毛が気持ち悪い。鞄からコンクールの要項を取り出して、会場の地図を見た。本当はホテルから左に行ったほうが早かった。でも今から戻っても、まだ二人がいるかもしれない。駅までの道でばったり会うかもしれない。出来るだけ遠回りをするように、あたしは歩いた。早めにホテルを出てよかった。でももう少し遅ければあの女に会わなくて済んだのに。


 いろんな感情があたしを揺るがして、もうこれ以上心臓が持たないと思った。あたしにとってピアノを弾くということは、この持て余した気持ちを吐き出すことでもあった。何かに触れるたびにあたしはいちいち感動してしまって、あたしもどうにかしてそれを表現したいと思ったのはいつだっただろう。曲を弾くのも作るのも、そこにはあたしの気持ちが伴う。だから、こんな風に乱されたらいい音をかなでられるわけがなかった。
 ただ単純に奏を好きなだけであれば、きっとあたしは綺麗な音を弾ける。でもいつだったか、そんな音ばかりを弾いていたときに結城くんに批判されたことがあった。技術がなくなればただの騒音。その意味が今なら分かる。綺麗ごとだけで生きていけるのなら、この世に音楽なんていらない。
 今あたしを捕らえる感情は汚い感情ばかりだ。綺麗ごとだけでも駄目だけど、こんな調子でいい音を創ることなんて出来るのだろうか。やっとついた会場のロビーは冷房が効いていて、あたしの汗を冷やしてくれた。ロビーにはあたしと同じように、制服姿の中学生がたくさんいた。さすが全国大会、品の良さそうな女の子もたくさんいて、多くの人たちは保護者同伴だった。あたしは急にこの世で一人きりにされた感覚になって、尚更感情が表面に浮き彫りにされる。さっきの女の顔が頭から離れない。美人、だと思う。奏のことを名前で呼んでいた。少なくともあたしは奏を名前で呼ぶ女を見たことがなかった。たったそれだけのことがショックなんて自分でも驚いている。心臓を抑えながら、今更この目の前に広がる光景に現実味が広がって、このまま呼吸困難になるんじゃないかと思うくらい、上手く酸素を吸い込むことが出来ない。
 あたしは今から本当にピアノを弾くの? 自分に質問を投げかけて自嘲した。あたしにはまだ全国大会なんて早かったのかもしれない。
 審査員の目も、全国レベルの音をかなでる中学生の視線も、全てが痛い。まるでデジャブだ。でもあたしはもう音を壊すことなんて出来なかった。
 いつまで経ってもあたしは奏を追いかけてばかりで、このままではそれだけを生きがいとする人形になってしまう。焦れば焦るほど音は空回りするけれど、あたしは負けたくない。


 夕方、街を横から突き刺す太陽すら無視しながらホテルに戻ると、奏がロビーのソファーに座っていた。
「おかえり」
「・・・・・・・・・」
 あたしは無言のまま奏を睨む。もう奏がフロントから荷物を戻してもらったのだろう、あたしの荷物も奏の鞄の隣に置いてあった。あたしはその鞄を取り、奏に背を向けてホテルを出る。
「優、待てよ」
 後ろから長い足で奏が追いかけてきて、あたしの隣に並んで歩いた。
「まだ怒っているのか」
「・・・怒られるようなことでもしたの?」
 あたしよりずっと背の高い奏を睨むと、奏は嘆息した。
「悪かったよ・・・」
「別に・・・」
 分かっている。分かっているのだ。これはとてもみっともない嫉妬であること。今更、今朝のあの女はどうしたのかとか、誰なのかなんて聞けなくて、あたしたちは妙に気まずい沈黙の中で渋谷駅から東京駅に向かう。新宿で中央線に乗り換える。
 あたしは格好悪い女にだけはなりたくないのに、あたしがなろうとしている人間は、理想から大きくかけ離れている。
 コンクールでの失敗を思い出して、泣きたくなる。でも泣かない。もう子供じゃない。あたしはこんなことでは壊れないことを、もう知っているから。
 全国大会は甘くない。きっとあたしは一生奏に追いつくことは出来ない。でもそれでもいい。ただあたしは奏の隣にいたいだけなのだ。ピアノを弾き続けることがことが出来るのなら、あたしはピアノを言い訳にはしない。


     
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