第三部
1 呪文めいた言葉(前)



 中学最後の夏休み。八月の日差しが都会に光を強く射る。あたしはその頃、東京にいた。
「何これ・・・・・・」
 あの有名な渋谷のスクランブル交差点を見て、唖然とする。
「なんでこんなに人が多いのー!?」
「おまえ、そんなにビビるなよ。田舎者丸出しだろうが」
 横で奏がため息をついた。東京に来たのが初めてなあたしと違って、奏だけ慣れていた。この都会の波を上手に泳いで、馴染んでいた。あたしがここにいたらそれこそ田舎者丸出しなのに、奏だったら違和感がないのだろう。あたしと奏の距離感は相変わらずだった。昔はそれを悔しいって思うときもあったけれど、今はそう思わない。仕方ないことだった。生まれてから今までの長い年数を考えたら、違って当たり前だった。あたしは覚悟を持った生き方をしてこなかったから。
「マルキュー行きたい! マルキュー!」
「行って何すんの」
「服見るの。あー、でももう世の中は秋服かなぁ」
 歩いていくと肩がぶつかりそうな交差点を渡りながら、街の女の子たちのファッションに目が行く。思っていたよりも普通だった。ギャルっぽい子もいるし、そうじゃない子もいる。それぞれのおしゃれがあるのは、あたしの地元と同じだったので少し安心する。あたしは自分の着ているオレンジチェックのワンピースを着た自分の姿を思い浮かべる。こうやって人の目を気にしているのはいつからだっただろう。
「女ってなんで服好きなんだ? おまえどれだけ持っているんだよ」
「あたしはそんなに持っていないけどなぁ」
 クローゼットに収まる程度にと母に言われたこともある。同じ年代の女たちに比べれば、あたしはまだまだだ。それよりもあたしは奏のほうがファッションに対するこだわりはあるんだと思っていたので、そんなことを言われたことが意外だった。今日の奏は半そでのTシャツを二枚重ねて、羽のチョーカーを首からぶら下げていた。昔よりもラフな格好をするようになったと思う。クラシックな奏もカジュアルな奏も、あたしはどっちもいいと思う。背の高い奏は両方似合う。
 あたしたちの会話にはまるで緊張感がない。坂をずっと上りながら、何が現実で何が夢なのか分からなくなりそうだった。妙な浮遊感がいつまでもあたしを支配している。
 明日はピアノコンクールの全国大会だというのに、こんなに馬鹿みたいにはしゃいでいる。


 六月に行われたピアノコンクールで、あたしは見事に優勝してしまった。その日のうちに張り出された結果を見て、信じられなくて思わず奏に電話してしまったあの感覚は今でも忘れない。夢じゃないかと何度も疑った。今も少し疑っている。だから、こうして奏と東京を歩いていても、あたしが都合のいい夢を見ているだけなんじゃないかと思う。
 夢じゃねぇよ。そう言ってくれた奏の言葉すら現実味を帯びない。奏はまた違うコンクールで全国大会に進出して、偶然同じ日が重なったのはお互い驚いた。地方から東京大会を受ける人間には、前日に練習できないというハンデを負うことをあたしは初めて知った。それでも金持ちの音楽一家の子供は、どうにかするらしいけれど、奏はそれをしない。普通の庶民と同じように、同じハンデを持って、戦いに挑む。
 前日に慌てたって仕方がない。あたしたちの意見は一致し、前日の今日は昼ごろに東京に来て、ずっとこんな風に東京見物をしている。東京は遠いわけじゃないけれど、なかなか来る機会はないし。
 あたしたちはマルキューを一通り見た後、その奥にある楽器店に入った。ここが東京でもやることは同じだ。ピアノを目にしても、ピアノの課題曲なんて弾かない。ここに誰がいるか分からないのだ。いつものようにふざけあって連弾したり曲作ったり、それだけでも指にはいい刺激になっていた。
 奏に出逢ってからもう二年以上の月日が経ってしまったけれど、奏の音の進化は衰えを知らない。キラキラ光っていると感じたのは一年前。今は、ただ綺麗なだけじゃなくなっているように思う。どこか悲しげで、消えそうで、でも強く存在していた。深みを増していた。そんな音をかなでるということは、生半可な努力じゃ無理だと思う。そして努力だけでもなかなか創造できない。そんな感情を持った人間だけがかなでられる。どこかに毒を持ったその音は、あたしの心の中で消えることもない。まるで呪文のように存在していた。
 東京の日差しはとても暑い。肌を焦がすその光から逃げるようにあたしたちは音楽に没頭して、楽器店を出る頃はもう五時を過ぎていた。
 今頃になって、明日のことが現実になる。突然怖くなる。どうしてだろう、地区予選では何度も弾いてきたし、最近では恐怖を伴うような緊張はしたことなかったのに。あたしは何に怯えているのだろう。
「優・・・?」
 黙りこんだあたしを奏が静かに伺う。この男は最近、鋭くなったと思う。あたしが何を考えているのかとか、全てバレている。心を読める超能力でも持っているんじゃないかと疑ってしまう。
「うん、大丈夫」
 あまりの暑さに手をつなぐこともしないけれど、あたしは大丈夫。そう言い聞かせて笑って見せた。あたしは明日どんな音をかなでるのかな。あたしは奏の音のことなら何時間でも語れるのに、自分の音のことは分からない。いつも探ってばかりだ。
 まるで気持ちのようだった。奏と一緒に過ごすようになって秋で一年になるけれど、あたしは今でも自分の気持ちが分からない。気付く前に奏が教えてくれる。でもピアノはそうはいかない。自分との戦いだ。
 センター街の一角でご飯を食べて、渋谷駅前で予約してあるビジネスホテルに帰った。午後九時。シングルの部屋で奏とは隣の部屋だけど、ホテルで一人で過ごすのは初めての経験で、寂しかった。
「もう寝るの?」
 あたしが聞くと、奏は少し困ったような顔をした。
「・・・まだ寝ないけど」
「奏の部屋、遊びに行っていい?」
 出来るだけ無邪気に言ってみた。ただ一人になりたくないだけだった。奏に迷惑はかけない。あたしが言うと、奏は顔をしかめたまま、別にいいけどとだけ答えた。
 狭い部屋に入って、奏はベッドに座り、あたしは椅子に座った。奏はテレビをつけたけど、あまり意味を成さなかった。程よく空調の効いた部屋には妙な沈黙が漂って、やっぱり来なければよかったと思ったときだった。奏が静かにベッドを指で叩いていることに気付いた。
「奏、緊張しているの?」
 あたしが訊ねると、奏はあたしを見て曖昧に笑った。笑い方も昔と変わった。一見やわらかくなったけれど、その分少しその笑顔が怖い。
「・・・おまえは?」
「分からない」
 あたしは正直に答える。
「夢みたいなんだもん」
「まだそんなこと言ってたのか」
 奏は呆れたように笑った。あたしは仏頂面で、奏の隣に座ってテレビに視線を向けた。放送されている洋画はあたしの知らないもので、俳優の顔と吹き替え声優の声が合っていないと思った。
 ふと気配を感じて奏を見ると、奏の顔が近づいてきて、そのまま口付けされた。何回目なのか分からない。数え切れないほどに、あたしは数を重ねれば重ねるほどキスに酔わされる。でも、どこかで慣れてきた自分もいて、悲しくもなる。
 いつもよりも長く感じて、やっぱり今日の奏は少しおかしいんだと今になって気付いた。緊張している奏は、それを隠そうとして尚更あたしに気を遣う。隠し事が増える悪循環。
「・・・大丈夫?」
 唇が離れたときに訊ねると、奏は再び顔を近づけて、あたしの下唇をやわらかく噛んだ。今度は慣れない刺激にあたしは顔をしかめる。
 気付いたらあたしはベッドの上に転がっていて、奏を見上げていた。ただ呆然と、抵抗するわけでも受け入れるわけでもなく、そして奏も何をするわけでもなくただあたしを見下ろしていた。
 一年近くも付き合っているのに、あたしたちはまだ一度も寝ていなかった。クラスメイトから色々な情報や噂は耳にするものの、どこかで自分には関係ないものだと思った。必要のないものだとも思っていた。あたしはそんなことしなくても奏と一緒にいられると思ったし、奏にもそんな欲情があるなんて考えられなかったから。
 だけど今。奏の瞳はいつもと違う色を帯びていて、あたしは心底恐怖を覚えた。なのに、動くことが出来ない。また奏があたしの唇にキスを落として、奏の体の重みを感じた。どうしようって思う暇もなかった。望んでもいないのに、何故かあたしの腕が奏を抱きしめた。そのとき。
「・・・・・・もう帰れよ」
 あたしから逃げるように離れた奏が、ベッドから立ち上がって背を向けた。
「俺、もう寝るし」
「・・・・・・・・・・・・うん」
 ベッドの上に取り残されたあたしは、鼓動の高鳴りから逃げるように奏の顔も見ずに部屋を出て、隣の部屋の鍵を回してベッドに飛び込んだ。
 まだ唇が熱い・・・。
 枕をぎゅっと抱きしめた。やっぱり奏に甘えたら駄目だった。そんなコンクールの前夜。現実から逃避するように目を閉じても、明日の音すら見えてこない。


     
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