10 この黄砂(後)


 二月十四日は空いているかとメールで訊いたら、空いていないと返ってきて気落ちした。その翌日に十六日なら空いているというメールが届き、それだけで舞い上がる。
 あたしはこんなに単純な人間ではなかったはずなのに、嬉しくてその日が待ち遠しくなる。本屋に行けば、バレンタイン特集の雑誌や本が並んでいて、あたしも便乗したようにファッション誌を買う。
 あたしがよく買っている今月号のファッション誌にもバレンタイン特集が組まれていて、簡単なチョコの作り方が載っていた。
 浮いたり沈んだり、だけどその分幸せを感じたり、恋をすることは決して悪いことではないかもしれないと思う。一度温もりを知った今は、もう手放すことも出来ないと知ったから。
「私も高校に入ったら彼氏作るもん」
 学校の机の上で特集を広げながら口を尖らせる佳苗を見て、あたしは笑った。
「高校に入ってからなの?」
「いいの、四月からは受験勉強に一年を費やすから」
 佳苗のその決心にあたしはさらに笑い声をたてる。もうここは悲しむところではないと分かっていた。
「あたしも勉強しなきゃなぁ」
「優ちゃんはいいじゃん! 頭いいんだし」
「まさか。あたしだって勉強しなきゃ無理だよ。だから頑張らなくちゃ」
「そういうもん?」
「うん、そういうものなの」
「だったらさ・・・」
 佳苗はページをめくりながらつぶやく。
「優ちゃんがそんなに頑張ったら、私がどんなに頑張ったって同じ高校には入れないよ」
「なんで?」
「優ちゃんのほうが頭いいからに決まっているでしょー? 優ちゃんが音高じゃなくて普通の高校だって聞いたときはすごく嬉しかったのに、これじゃ意味ないよ!」
 思わぬ言葉を聞いて、あたしは耳を疑ってただ佳苗を見つめた。
 嬉しかったって。あたしが普通の高校に行くって決めて、それを佳苗に伝えたとき?
「あっ、見て、優ちゃん! このチョコレート美味しそー! 食べたいな。しかも作り方、簡単そうじゃない?」
 雑誌のページに指をさしながらバレンタインという行事を勘違いした発言をする佳苗を目の前に、あたしは言葉を忘れた。
「・・・佳苗」
「ん、何?」
「あたしのこと、好き・・・?」
 涙声で小さくつぶやくあたしを見て、佳苗は固まった。休憩時間の教室内は相変わらずうるさくて、佳苗はいつまで経っても返事をしないし、聞こえていないといいと思ったとき。
「好きだよ?」
 少しだけ笑って、佳苗は言った。
「っていうか、どうしたの? 好きじゃなきゃ友達やんないよ。私、その辺わきまえているよ。優ちゃんだって知っているでしょ?」
 うん、知っている。あたしみたいな面倒な女なんて、義理なんかじゃ付き合えないって思った。友達なら尚更。
 昔から人とのコミュニケーションも上手にとれなくて、トラブルメーカーなこのあたしと一緒にいてくれて、一緒の高校に行けたらと夢を見る。
 夢なんかにしたくない。それはあたしだって同じ。だけど、道はたくさん散らばっていて、未来はどうなるか分からないから。
 ずっと友達でいようねなんて思うけれど、こういうときはもどかしい。恋人みたいに「付き合う」という契約なんてないし。
「・・・あたしも好きだよ」
 ただそれだけで精一杯で、言葉を知らない自分に持て余すけれど、佳苗が微笑んでくれたから心底ほっとする。あたしはこの一年でたくさんの感情を知った。


 二月十六日。天候晴れ。
 あたしは今日を決戦の日と名づける。もちろん世間から遅れていることは承知する。学校が終わったら一度家に帰って、冷蔵庫で冷やしておいたラッピング済みのチョコレートを紙袋に入れて靴を履いた。
「優ー、いい加減そろそろお母さんに彼氏を会わせなさいよ」
 母の小言が飛ぶけれど、今はそれどころじゃない。
「行ってきまーす」
 出来るだけ紙袋を揺らさないようにしながら、あたしはマフラーを巻いて寒い冬空の下を早足で歩いた。
 奏の家は、あたしの家と近くはない。でも同じ中学校に通っていたくらいなので、三十分くらい歩けば着く。ウォークマンで最近流行りの曲を聴きながら歩く時間を、あたしは気に入っている。
 この三十分で、あたしはリズムに乗った音に包まれながら、さまざまなことを考える。こんな時間には少しでも自分を客観的に見つめたいとも思う。
 慣れた足つきで坂を上る高級住宅地。まだ五回も来たことないのにあたしはもうこの場所にも戸惑わない。ただこれから奏に会えるんだというこの高揚感があたしの心を支配して、もうそれ以外何も感じられない。
 そして、あと一つ、足りないものは音楽。ピアノの音色。それを求めて、ただあたしは歩く。
 いつものように門を見上げてチャイムを鳴らす。ガチャリと重たい扉が開いた。
 ドアの影から奏が笑って出迎えてくれた。


 バレンタインおめでとう、とあたしが言うと、奏は苦笑した。
「別に何もおめでたくねえだろ」
 あたしのコートをかけながら、奏は言う。あたしはお気に入りの場所であるカーペットの端のほうに座った。でもチョコレートは溶けないようにあたしは紙袋をカーペットから浮かせるようにして手に持っていた。その様子を見た奏は笑って、あたしの隣に座った。
「チョコレート?」
「・・・うん」
「もしかして、手作り?」
 そう訊かれて、今更ながらとてつもなく恥ずかしくなった。
「わ、悪いっ!?」
「ひねくれ者だよな、優って」
 あたしから紙袋を奪って、その包みを眺める。そして、それをそっとあけた。雑貨屋で買った包み紙もリボンも、まるで傷つけないように開けてくれるその指先にあたしは見惚れていた。
 そして、出て来た肝心の中身のチョコレート。
「・・・・・・・・・こ、これは」
 そのチョコを見つめながら、奏が一瞬声を詰まらせた。
「・・・素晴らしい芸術作品ですこと」
「料理嫌いって言ったじゃん」
「嫌いとは聞いてない。出来ないとは言っていたけれど」
「うー・・・・・・」
 あたしはきっと顔を真っ赤にしている。出来るだけ奏にそれを見られたくなくて、うつむいた。
 こんな結果になることくらい分かっていた。母にも止められた。去年は渡せなかった。今年はあたしの愛情をミックスした、奏だけのために作ったチョコレートなんだよ。
 ハートの形は歪み、しかも怪しい焦げた色を残したその物体を奏は指で割り、口に含んだ。パリ、と口の中で音が鳴ったのが聞こえた。
「お、美味しい・・・・・・?」
「んなわけないじゃん」
 即答され、あたしはむっとする。聞いたあたしが馬鹿なのは分かっているけれど。あたしが奏を睨むと、奏はいつもみたいに意地悪に笑って、あたしに顔を近づけた。
「口直し」
 そう言って、キスをする。不意打ちで、あたしは目を閉じるのも忘れる。
「・・・苦いっ!」
「だろ?」
「せっかく作ったのに、奏は嬉しくないんだ、どうせ!」
 心にもないこと言うと、意外にも奏は笑った。怒られるのか、無視されるのか、どっちかだと思ったのに。
「嬉しいぜ?」
 そうやって言うから、あたしはまた心臓がもたないくらいに、血液が逆流したみたいに、脳の中でビックバンが起きたかのように。また、顔が赤くなって、何も言い返せない。
「だって、俺、チョコなんてもらったの初めてだもん」
「嘘」
「いや、マジだって。渡されたことはあるけど、受け取ったことないし」
「お、お母さんとかは?」
「・・・そんな暇ないし」
 つまらなそうに言う奏はあたしだけを見つめて、あたしの視野いっぱいになるくらい近くで囁いた。
「だから、俺が人生で初めて受け取ったチョコってことで」
 奏は微笑して、あたしを抱き寄せた。奏の香りを感じて、あたしは幸せに浸る。普通の恋人より二日遅くなったけれど、その分幸せを感じられていたらいいと自分勝手に思う。
「奏・・・」
 あたしはつぶやいた。
「去年のバレンタインを覚えている?」
「ああ」
 短く答え、その代わりあたしを抱きしめる奏の腕の強さが増したのを感じた。
「曲をもらった」
「うん」
「曲を受け取ったのも初めてだった」
「・・・あたし、すごい特別みたい」
 あたしが言うと、奏が笑った。その振動があたしにも伝わって、どうしようって思う。
「っていうか、特別、だろ?」
「・・・・・・うん」
 どうやっても好きって言えない。たった二文字なのに、佳苗には訊けるし簡単に言えるのに。自分では言えないくせに、特別って言われて、すごく嬉しくて。あたしはとてもずるい。
「あ、あのね・・・」
「ん?」
「き、曲を作ったの」
 あたしが言うと、奏は名残惜しそうに身体を離した。
「・・・曲?」
「チョコは失敗したから・・・、曲。去年と同じになっちゃうけど」
「じゃあ弾いて」
 こういうときの奏は実に潔いと思う。さっきまではあんなにあたしをぎゅっとしてくれていたくせに、あたしが鞄の中から楽譜を取り出したらもう、顔つきが変わっている。
 才能があるってこういうことなのかなとふと思う。天才は普通じゃないってよく聞くし。
 あたしは立ち上がって、この家に来るたびに弾いた奏のピアノを見た。あたしは椅子に座って、一度息を吸ってから鍵盤を叩いた。


 久しぶりに作った曲だった。
 何度も作り直していくうちに見えてきたものがある。何よりもあたしは愛情を乗せたかった。まるで風と一緒に流れてくる黄色い砂のように、ごく自然で当たり前な感情だと、あたしは音に示した。
 昔は大嫌いだったゆっくりとしたテンポで、でも一つ一つの音を大切に和音を崩さないように弾いた。
 これからどこに行くのか分からない。行きたい高校が決まったって、ちゃんとそこに合格するかどうか分からないし、その後のことなんて何も知らない。そして未来はあたしだけのものじゃない。
 奏の未来を考えて、自分のこと以上に怯えた。いつまでもこんな甘えた関係でいられないと思った。でも今はまだ。
 あたしは甘えていたい。
「音、少し変わったか?」
 弾き終えたあと、座ったままあたしを見上げた。
「・・・自分では分からないけれど」
 弾きなれないテンポの曲を弾いて、今になってくる疲れさえも心地よく感じる。
「でも、そういうのもすごく、優らしい」
 微笑む奏を見て、変わらないものなんて何一つないと思った。それを受け入れるのは辛いこともあるけれど、でもちゃんと幸せに向かっていけるなら、それを糧に強くなれるだろうか。
「奏、あたし、普通の高校に行くよ」
 あたしが言うと、奏はただうなずいた。少し悲しそうな瞳の色を感じ取ってしまったけれど、見ないふりをした。自分の意思を捻じ曲げてまで縋るような女では居たくない。ちゃんと両足でこの地面に立っていたい。あたしは奏の隣に座って、大きな手を握った。
 ちゃんと奏はあたしの傍にいてくれるって分かっている。
 そして、あの秋の日に出会えた奇跡を、これからの二人に繋げられるように、ちゃんと自分の足で生きていきたいと思う。何にも代えることなど出来ないあたしたちの音と、離したくない愛と共に。
 あたしはこの手を離さない。


第二部 Fin.




第二部あとがき     
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