10 この黄砂(前)


 二月に入っても寒さは消えることなく、むしろそれは増す一方で、あたしは今日も白い息を吐く。今年は一月の下旬に一度雪が降ったけれど、太平洋側に面する場所では数日で完全に溶けてしまう。
 去年の雪の日を思い出す。
「提出の締め切りは来週の月曜日だから、それまでしっかり考えてみるように」
 担任が教壇でそう述べる。あたしたちの手元にあるのは進路表。お気楽ないつものホームルームとは違って、教室の空気は重苦しい。ついにこのときがやってきた。あたしはその紙をじっと見つめ、目を閉じた。
 少しずつでいいんだよ。だって、今のあたしはちゃんと考えることが出来るように出来るし、何より応援してくれる人がいるんだから。
 チャイムがなって、途端に教室が騒がしくなる。先ほどの進路表について話す者もいれば、忘れたかのようにいつもと変わらない世間話を繰り広げる者もいた。
「保本さん、どないな感じ?」
 席の近いあたしに話しかけてきた結城くんは前者だ。
「うん・・・・・・」
 あたしは曖昧にうなずいて、笑った。今はもう大丈夫だ。それは彼にも伝わったようで、結城くんも笑った。
「・・・なんか、寂しいなァ」
「なんで?」
「だって保本さん、もう見据えてるんやろ?」
 そこまで強く見えているわけじゃないんだけどな。そう思ったけれど、口には出さないでおいた。
「・・・結城くんだって、ちゃんと見えているんじゃない?」
「見えていたって、厳しい世界やから」
 音楽の世界。本当に好きなことを職業に出来る人なんてごくわずかだと聞く。そんな世の中で、好きな音楽で食べていける人なんて、一体どれだけなのだろうか。
 あたしがそうだね、とつぶやくと、結城くんは目を細めた。
「保本さんは、頭もええし、普通の道に進むんやんな」
「・・・だけど」
 結城くんにちゃんと伝わるように、あたしは彼の目をしっかり見て、言った。
「ピアノを弾くことは、やめないよ」
 あの卒業式の日に思っていたことと同じ、奏に言ったことと同じ。練習嫌いのあたしはいつか音楽を愛せなくなるかもしれない。縛られるともうかなでることも嫌になるかもしれない。音楽の戦争に巻き込まれたら、あたしは二度とそこに足を踏み入れたくなくなるだろう。
 だけど、だからこそ、あたしはあたしのやり方でその世界を見つめていきたいと思う。自分の居場所になるように。やっと見つけたあたしの生きがいだから。
「やったらいいんちゃう? 逃げるわけとちゃうんやし」
 結城くんは椅子にひじを掛けて言った。奏と同じような科白だった。あたしはありがとうと言って再び笑った。
 結城くんは奏と同じで、音楽の戦争に巻き込まれてもきっと戦える強さを持っているのだ。精神力と技術。そして感性。それをあたしはとても尊いと思う。でも自分が間違っているとは思わない。
 人の数だけ人の道があるのは、当たり前のことなのだから。


 寒さの中震えて家に帰り、書き始めた楽譜を机の引き出しから取り出した。
 今は昔ほど音は降って来ない。それはあたしが成長したせいなのか、情緒不安定なときほど音が降ってくる仕組みになっているのか、定かではないけれど、でもあたしは少しでも音を逃がさないようにする。
 昔見つけたあたしの生きがい。
 楽譜を持って、リビングに降りた。まだ母も仕事から帰ってきていないけれど、帰ってきたらゆっくり作曲できないから今のうちに音を創っておきたいと思う。こういうとき、奏は自分の部屋にピアノがあっていいなぁと漠然と思うけれど、羨ましくは思わない。
 だってあたしにはあたしの音しかかなでることなんて出来ないし、あたしの音はあたししか持つことが許されない。とても、レアなもの。
 音を鳴らして、リズムを刻んで、そしてそれを忘れないように楽譜に音符を並べる。ずいぶん前に、奏に褒められたことがあった。楽譜書くの上手いなって言われた。ちょうど一年前のことだ。
 今まで自分のことなんてあまり好きじゃなかった。奏に恋する自分でさえ好きになれなかった。だけど、奏と一緒にいると、自分のいいところが見つかる。奏が見つけてくれる。あたしはこれ以上ないというほど自然体でいるのに、奏はそれを全部受け止めてくれる。だから、あたしはその心地よさに溺れて、奏の面影をいつだって探してしまう。求めてしまう。とても愚かなことだと思う。だけど嫌いじゃない。
 こんなあたしも嫌いじゃない。誰よりも人間らしいと思う、この感情を抱くことが出来て、あたしはとても幸せだ。
 それを全て、音楽という中にぶちまけて、その世界を作る。


「へぇ」
 その後、ピアノレッスンの日に出来上がった楽譜を玉島先生に見せると、先生は声をあげた。
「いい曲じゃないの。久しぶりだよね、優ちゃんが作曲したの」
「うん、最近それどころじゃなくて、出来なかったけれど、急にしたくなったから」
 あたしが言うと、先生は微笑んだ。
「雰囲気、変わったね」
 そして、ポツリとつぶやかれたその言葉を聞いて、あたしは先生を見た。
「・・・そうですか?」
「うん、優しい感じになった。昔はもっと、挑戦的な曲で、一見強く見えたけれど、とても悲しい曲に感じたから」
 あたしが登校拒否をしていたときに作った夢世界のイメージの曲。それを先生は悲しく聞こえると言った。当時のあたしはそれを受け入れることも出来なくて、ただ必死に抵抗したけれど、あながち嘘ではないのかもしれないと思った。
 あの頃は、自分以外のもの全てが敵だと思っていたから。こんな安らぎや優しさを知らなかったから。
「これ、どうするの?」
「彼氏にあげます」
「・・・彼氏、かぁ」
 そういえば、先生には一言も奏のことを話したことがなかった。幼い頃から知っている先生に言うのは照れくさいというのも理由の一つだった。
「最近、優ちゃんが幸せそうなのは、その人のおかげ?」
「あたし、幸せそうに見える?」
「見える見える。羨ましいもの」
 先生は特に何も聞かず、ただそう言った。もう少し季節を越せば、きっともっと話せると思った。奏のピアノのお話。今は、話すことすら嫉妬に繋がりそうで、躊躇ってしまうけれど。
「先生」
 あたしは言った。
「あたしは普通の高校に行きます」
「・・・・・・そう」
 先生はなぜか寂しそうに笑った。
「優ちゃんほどの能力があると、もったいないって思うけれど、でもそれはとても正しいのかもしれないわね。だって、もし高校になってから音楽の道に進みたいって思っても修正が効くもの。でも、一度音楽の道に走ってから普通の道に戻るのは、難しいわ」
 それはまるで、先生自身のことを言っているようだった。
「私は、成績もあまりよくなくて、ピアノだけが取り柄だったけれど、趣味を仕事にする辛さも知っているから、優ちゃんは優ちゃんなりにピアノをやればいいわ。そして、作曲もね」
 ああ、どうしてみんなあたしのことをこんなにも分かってくれるのだろう。今頃になって泣きそうなほど嬉しくなる。
「それにしても、優ちゃんが受験生になるのねぇ。私も歳をとるはずだわ」
 まるで近所のおばさんと同じことを言う先生が可笑しくて、あたしも笑った。先生はまだ若いのに。


 この曲を奏にあげる。それは以前から決めていたことだった。 もうすぐやってくる今年のバレンタイン。去年と同じで、あたしは今年も奏に曲をあげたいと思う。
 あたしは言葉を上手く使うことが出来ないし、それを表現するのは難しいけれど、でも、この曲であたしの想いが伝わるといいと思う。
 レッスンのあと、あたしは電車の中から流れる景色を見つめて、去年のことと今年のことを思い巡らせた。
 去年のバレンタインは、本当にドキドキした。まだ奏があたしを好きだなんて知らなかったし、ただやってくる別れに怯えていた。それでも幸せだと感じたけれど、今年はそれ以上に幸せになればいい。もっともっとドキドキは増していって、あたしはきっと素直に、好きだって伝えることが出来たらいい。


     
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