それから五日、あたしは奏と連絡とらないままだ。 あたしの八つ当たりなのも分かるけれど、それでも胸の痛みは治まらないし、何より電話する勇気がない。 ピアノのレッスンの後、大きくため息を吐くと、玉島先生が小さく笑った。 「どうしたの、優ちゃん。悩み事?」 相変わらず鋭い先生を見て、あたしは考える。そうか、あたしは誰でも持っているような悩みを抱えているだけなんだと。誰だってこれを乗り越えてきたんだと急に分かった気がした。だから、口を開いた。 「あの、ね・・・。高校、どうしようかなぁって、思って」 「優ちゃん、まだ中二だよね?」 「うん・・・」 「なら、まだ時間あるじゃない」 まるで何でもないことのように玉島先生は笑う。 「これから一生懸命勉強して、後悔のないように自分の行きたいところに行けばいいわ。もちろん周りに流されず、優ちゃんが自分で決めて、自分で納得してね」 「・・・・・・・・・」 その笑顔を見ながら、あたしはぼんやりと考えていた。 そうだ、あたしはいつも周りの声ばかり気にして、自分では何も考えられなくなっていた。 昔から、あたしは自分の性格も自分の将来像も、かすかに知っていたはずなのに。
恋愛をすると自信がなくなったり臆病になったりする気がする。もともとあたしはずっとそんな風に生きているけれど、でも今は自分を見失いかけていた。それは奏との恋愛のせいだと思っていたけれど、本当の問題はあたしの中にあるのだと思った。 あたしの弱さが全てを歪ませているんだ。 「優ちゃん、元気ない?」 サラサラな髪の毛を揺らして、佳苗はあたしの顔を覗き込んだ。あたしの苦手な教室の休憩時間。・・・苦手だった。過去形にしてもいいのかもしれない。今は教室の中にいてもそれほど胸は痛まないし、なんとなく居場所の意味を知ったから。 知ったのに、自分から手を離してしまうようなことをしたけれど。 「うん・・・、あの、さ・・・、佳苗は、高校のこととか決めた・・・?」 机に座ってぼんやりしているところを佳苗はわざわざ声をかけてくれたのだ。その優しさが心に染みる。今優しくしてあげなければならないのはあたしの方なのに。 「高校・・・、決めたっていうか、漠然とね。どうして?」 「なんか、決められなくて、分からなくて・・・、あたし本当は普通の高校に行きたいの。でも、それで本当にいいのかなって・・・」 掠れていく声でつぶやいた。 奏や結城くんみたいにまっすぐに未来を眺めることなんて出来なくて、でもあたしはピアノが大好きで、それを持て余している。でも確かにあたしは普通の高校に行くのだと思っていた。練習はあまり好きではないし、そもそもピアノを職業にしようとは思っていない。だけど、それは裏切りな気がした。 ・・・裏切り? 誰に対しての? 「別にいいんじゃない?」 やけにあっさりと佳苗は言った。 「だって、優ちゃんがピアノが上手いのは知っているけれど、だからってどうしてそれを悩みの種にしなくちゃいけないの? 私だって剣道好きだけど、それは趣味だし、そういうものでいいんじゃないの?」 いたって何でもないことのように佳苗は言う。玉島先生と同じだ。ここまで派手に悩んでいるのはあたしだけだった。酷く虚しい気分に陥る。 涙がこぼれそうになってあたしは慌てて目を見開いた。でも奏が・・・、言いかけてやめる。恋を失ったばかりの佳苗にこんな相談、傷口に塩を塗るような行為だ。絶対に言えない。 あたしは馬鹿だ。 音楽高校に行けば、奏と一緒にいられると思った。奏に近づけると思った。ピアノを通して、もっともっと奏に釣り合えると思った。あたしが胸を痛ませてしまうのは、そんなくだらないことなのだ。 この甘い恋愛から抜け出せない。 もうあたしは奏がいないと呼吸さえ出来ないのかもしれない。
授業が終わって掃除を済ませて、あたしは一人で走って正門を出た。いつもとは違う方向に駆ける。 鞄が重い。でももう気が抜けない。もし普通の高校に行くならば、行きたい高校があった。未来は漠然としているくせに、県下一の高校を思い浮かべていた、一年前。卒業式の日に奏に高校はどうするのかと答えて、ちゃんと答えられた。なのに、奏と想いが通じて、奏と一緒に季節を超えて、どうしてあたしは変わってしまったの。 奏と二人で歩いた道。あの幸せな感覚をイメージしながら坂を上った。奏の家に行ったのはたった二回だけ。ピアノを弾いたり、抱きしめてもらったり、月を見たり、たった最近のことなのに、懐かしく感じるなんてあたしも図々しい性格だ。 奏の家を見つけて、相変わらず高い門を見上げた。駐車場も変わらず車がない。でも奏は帰っているかもしれない。儚い期待を抱いてチャイムを押した。 ピンポーンと弱々しく電子音がシとソのフラットを奏でる。そのあとにやってくる沈黙。あたしは泣きそうになりながらも、もう一度ボタン一つで二つの音を聴いた。 ・・・いないのかもしれない。あたしは学校が終わってすぐに走ってきたけれど、電車で通う奏がまだ帰っていなくても全然おかしくないのだ。慌てていてそんなことにも気付かない自分に呆れて、ため息をついた。 そのまま門に寄りかかるようにして座り込んだ。 かじかむ手でカイロを握った。朝から持っているカイロはそろそろ寿命が切れる。一月の空の下で、あたしは何をやっているんだろう。頭のネジを無くしてしまったのかもしれない。だったら奏にもう一度まわしてもらわなくちゃいけない。 奏は何度かあたしに高校のことを訊いたけれど、どういうつもりで訊いたのだろう。はぐらかすことや逆らうことばかりで、その真意を聞くことすらしなかった。あたしは自分の気持ちを押し付けるばかりで、奏の声を聞くこともしなかった。それじゃ駄目なんだと自分に言う。そんなことをしたらきっと奏は疲れてしまう。あたしは奏がいないと駄目なのに、捨てられてしまう。 そうやって考えていくうちに、胸の痛みが増してきて、冷たい頬に生温かい涙が流れた。奏と付き合い始めて四ヶ月。たった四ヶ月。この間、あたしは奏に何かをしてあげられただろうか。いつも与えられているばかりで、何をしてあげられたというのだろう。 「・・・・・・・・・・・・っ」 鼻をすすった。手で涙を拭うけれど、それだけでは抑えきれない。怖いくせに立ち上がることも出来ない。高級な住宅街は妙に静寂が漂っていて、あたしはこの世界にただ一人残された気持ちになった。 ちょうど一年前に読んだあの夢世界。少女は広い世界で居場所を求めた。彼女はいつも一人だった。だけど、その世界こそが救いだった。 あたしにとっては、それが奏なんだよ。 「・・・優?」 溢れる涙を隠すようにうつむいていると、聞き慣れた声が降ってきて、さらに涙が流れた。
「こんなところで何をやっていたんだ?」 あたしを奏の部屋のカーペットに座らせて、奏は制服のネクタイを外した。カーペットは次第に温かくなり、冷えたあたしの足に感覚が蘇る。 「・・・奏に、会いたくて」 あたしはただつぶやいた。自分の声じゃないみたいに震えていて、驚いた。奏もあたしを見て、もう一度嘆息をしてからあたしの隣に座った。脱いだブレザーをコートを着たままのあたしの肩にかけた。 「せっかく携帯持っているんだし、何もわざわざこんな寒いところで待たなくたって・・・」 奏はそう言うけれど、でも怖かったのだ。メールをしても返事が返ってこないかもしれないとか、電話した瞬間に切り捨てられたらどうしようって、自分の発言がいかに酷かったか知っていたから。 「・・・寒かっただろ」 あたしの頭を抱えるように、奏はあたしの顔を覗き込む。あたしは震える唇をぎゅっと閉じた。髪の先まで冷えたあたしを暖めてくれる、今は奏の優しさも痛む心に染みる。 「ごめんなさい・・・・・・」 あたしがつぶやくと、奏はあたしを見て、頬にキスをした。それは許してくれるという合図。もっと叱ってくれてよかったのに。またあたしは奏に負担をかけている。 「あたし、秋から奏と一緒にいることが出来て、すごく幸せだけど、奏は・・・、どうなの? こんなあたしといて、疲れない?」 涙声で訊ねると、奏は一瞬間を置いてから笑った。 「・・・俺こそ、ごめんな」 直接的な返事ではなかったけれど、あたしは奏の心地よい声に耳を傾けた。 「俺も中二のときは、全然未来なんか見えていなかったよ。なのに急かしてしまったよな。・・・悪かったよ」 あたしの顔を見ないで奏はつぶやく。あたしはゆっくりと首を横に振った。 「・・・おまえと、」 まるでこの家の中だけ時間の流れが世界と違うのではないだろうかと思ってしまうほど、あたしたちはゆっくりと喋っていて、喧騒も知らない人間のように落ち着いていた。奏の口調もいつもよりも遅くて、優しくて、切なく聞こえた。あたしは顔をあげて奏の顔を見る。目が合うと、奏は心なしか赤くなって目を逸らした。 なんだろう、この気持ち。 「おまえと、一緒のガッコに通えたらって、思っていたけど・・・・・・」 そこまで言って奏は口を塞ぐ。ますます赤くなる。こんな奏は初めて見た。 「・・・いや、今の話はなしだ。おまえはゆっくり考えろ」 「・・・・・・・・・・・・」 どうして、かな。とても嬉しいことを言われた気がする。感動で胸がいっぱいなこの感情は何度か経験あるけれど、もう一つのこの気持ち。 奏を可愛いと思ってしまうなんて、あたしは変なのかな。 「・・・・・・奏、あたしね」 「あーもういい! 今は何も言うなって。一大決心なんだろ、ちゃんと決まったら教えてくれよ。応援、するから」 「・・・・・・うん」 奏はあたしをぎゅっと抱きしめた。赤くなっている顔を隠しているんだとなぜだか分かってしまった。 あたしの話を聞いてくれて、傍にいてくれて、不安も理解してくれた。あたしはとても恵まれている。こんなに幸せでいいのだろうかと贅沢な悩みを抱えてしまうほどに。 奏はどうしてピアノを弾いていこうと思ったのだろう。音高を受けると奏から告白された一年半前、あたしはただ奏が遠くなってしまったことだけを感じていた。自分に降りかかってくる未来という時間を考えてもいなかった。そして、今だってちゃんと自分の意思を持って歩いている奏が、少し遠くて、とても眩しい。 「奏は、どうして音楽の道に行こうって思ったの・・・?」 奏の肩に頭を預けたまま訊いてみた。 数秒の沈黙を破って、奏はつぶやく。 「それは・・・」 奏の肩に密着しているあたしの鼓膜に、そのまま振動とともに奏の声が響く。このままじゃおかしくなってしまうって慌ててあたしは顔をあげた。奏はあたしを見た。もうその頬は赤くなっていなくて、真剣な眼差しをしていた。 「おまえに会って、おまえのピアノを聴いて、ピアノを弾きたいって思ったから、だ」 「・・・・・・・・・それって、喜んでいいのかな」 「さぁ?」 いつもの調子で奏はあっけらかんと笑う。今度はあたしの顔が赤くなる。結局あたしはいつだって奏には敵わない。 少しでも奏にしてあげられたこと、それは例えあたしの意思じゃなくても、奏があたしのおかげだと言ってくれるだけで、こんなに満たされるなんて。 「・・・ありがと、ね」 「は? セリフ逆じゃねえか?」 訳分からねえよと奏は言って、窓の外に目を向けた。外はもう暗い。 「そろそろ帰るか? 送っていくよ」 「・・・・・・うん」 温まったカーペットから立ち上がるのが億劫だったけれど、あたしは奏に従った。奏の香りがするブレザーを奏に返す。急に肩が寒くなってしまった気がするけれど、それ以上に心を支配するものがあるから、大丈夫だ。 外に出ると、空気は更に冷たくなっていた。その分繋いだ奏の手温かく感じられて、これは冬の特権なのかもしれないと一人で微笑んだ。 自分が用意すべき答えはもう、すぐそこに。
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