あづさが鍵盤を鳴らした。 「この音は?」 「ドのシャープ」 「じゃあこれは?」 「シのフラット」 「・・・これは?」 「ソ」 昔、あたしたちが通っていたグループレッスンでしつこいほどやらされていた音当てクイズ。どんな音が来ても即答するあたしを見て、あづさは苦笑した。 「優はまだまだ現役だよねぇ」 「当たり前だよ。絶対音感がないと曲作れないし」 「最近作ってる?」 あづさの問いに、あたしは静かに首を横に振った。その場で即興とか、編曲とか、遊び感覚では奏と弾きあうけれど、真剣にペンを持って楽譜に音符を並べるという作業はずいぶんやっていなかったように思う。 「お姉ちゃんだってまだ音当て出来るでしょ?」 音当てとはもちろんピアノを見ないでただひとつ音を聴いただけでその音階を当てると言う単純なクイズだ。ピアノを長い間やっている人間であれば大抵できるだろうとあたしは思う。でも全くやっていない人間からしたら、それはとても不可解なことだと言う。 「わたしはもう駄目ー。半音くらいずれちゃうのよ」 ため息をつきながらあづさは顔をしかめた。話題を変えてごめんねと心の中であたしは思う。 この一年、ずっと走ってきた気がするけれど、でもいざ立ち止まってみたら自分に何も残っていない気がして怖い。あたしが必死に過ごしてきた時間の中で自分の手で得たものは何だろう。
年が明けて五日経つと、あづさは再び一人で暮らす今の場所に帰っていった。ほんのわずかな時間だったのに寂しいとあたしが言うと、あづさは微笑んだ。また帰ってくるよと。 それからさらに二日経つと、もう三学期が始まる。一年で一番駆け抜けていってしまうこれからの三ヶ月間。 「優ちゃん、おっはよ!」 見たことのないマフラーを巻いてあたしの肩をぽんと叩いたのは、佳苗だった。 「佳苗、久しぶりだね。元気していた?」 「うんうん、元気ー」 下駄箱の前で佳苗がマフラーを取ったとき、あたしは冷たい息を飲み込んだ。 「・・・佳苗」 「えへへ・・・、こんな、定番みたいなことしてもどうにもならなかったのに、ね・・・」 上履きを鞄の中から出して、佳苗は小さく笑った。背中の真ん中辺りまであったはずの佳苗の黒い髪の毛は、顎のラインまでなくなっていた。 「まだ冬で寒いのになぁ、ほんと・・・」 馬鹿だなってつぶやく佳苗の声は今にも消えていきそうで、あたしは佳苗の手を握った。 「か、佳苗・・・」 「やだな、優ちゃん。私は大丈夫だよ?」 「・・・・・・うん」 全然大丈夫には見えなくても、本人がそう言うのだからそういうコトにしなければならないと駄目だと思ってあたしはうなずいて手を離す。 あたしは本当に佳苗の友達でいていいのだろうかと余計な不安が胸を襲う。
放課後になったら佳苗は部活に行った。時折さっぱりしたそのうなじは寒そうに感じたけれど、これからの佳苗の覚悟のようにも感じられた。 「保本さん、正月のときはどーも」 軽そうな鞄を持った結城くんがあたしの前に立った。 「うん、びっくりしたよね」 「桐川さん、近くで見ると一層格好ええなぁ」 「・・・そう?」 何気ない会話なのに、なんだか結城くんの雰囲気が違うと思う。あのとき感じたのと同じ。 「結城くんって、さ・・・、桐川奏のファン、だよね・・・?」 嫌な予感が胸を支配し、恐る恐る訊いてみると、結城くんは微笑した。 「ファンだった、やな。過去形。恐れ多いと思うねんけど、今はライバルや。褒め称えている暇、ないんよ」 「・・・そんなに争うのが好き?」 空気の冷たさにぞっとして、あたしが眉をひそめると、意外にも結城くんは首を横に振った。 「違う。自分の音をアピールするには、その場所を奪わないといけないから、その土地を求めるだけや。その戦争に巻き込まれているだけなんや」 結城くんはそう言うけれど、あたしはそんな音楽の戦争に巻き込まれたくなんてない。もともと平穏主義なのだ。 「保本さんさ、高校はどうするん? やっぱ桐川さんと同じ高校やんね?」 「え・・・・・」 あたしは声を詰まらせた。どうしてそんなことを訊くの。未来のことなんてまだ分からないのに。 あたしの様子を察した結城くんは、はっとなって「すまん」とだけ言って、教室を出て行った。 胸がつぶれそうだ。空は恨めしいほどの青い空。大きな圧力があたしを押しつぶしているみたいだ。少しずつ、少しずつ、その力は加わって、きっとこのままではあたしはつぶれて消えてなくなる。
そんな気分のときこそ、奏に会いたいと思ったりしていた。まだ自分を分かっていなかった。 「優」 学校帰りにいつもの待ち合わせ場所で、奏は十分遅れてやってきた。どんなに忙しくても少しでもあたしに会ってくれる、そういうところもすごく好きだった。 何気ない会話をして、公園のベンチや花壇に座って喋る。寒い寒いと言いながら、あたしたちは空気の澄んだ空を見上げる。 「優、俺、気付いたんだけどさ」 「うん?」 「正月のときのあの男、なんて名前だった?」 「ああ、結城くん? 結城庸人。どうしたの?」 奏にとって、彼はあまり好ましい人間ではないはずだった。口には出さないけれど、あたしにもそのくらい分かる。あのときの空気の冷たさが気温のせいではないことくらい。 「アイツ、俺と同じ先生に習っている」 静かに奏がつぶやいたとき、あたしは一瞬意味を理解しそこねた。 よく考えれば、あたしがレッスンに通って玉島先生に習っているように、奏だってどこかでピアノを習っているのだった。とても当たり前のことをあたしは素通りし、何も考えていなかった。 今更、と思いながら、奏を見上げる。 「奏はどこで習っているの?」 「・・・Y芸大の、教授」 「・・・・・・・・・・・・」 奏が言うその教授の名前は、その世界に疎いあたしでも聞いたことある名前だった。コンクールの審査員にも出ているから。 確か、レッスン料は三十分で数万円とか・・・そういう噂を聞いたことあるけれど、多分事実なんだろうと思う。 音楽一家に生まれた奏はともかく、それと同じ先生に習う結城くんはあたしと覚悟が違うんだと思った。音楽に対する覚悟。ピアノを弾き続けるという覚悟。 あ、また胸が痛い。そう思ったとき、数秒おいて、奏があたしの顔を覗き込んだ。 「おまえ、高校どこか決めた?」 「・・・・・・・・・」 ドクン、と心臓が脈打った。 苦しいときはこの人が助けてくれると信じていたのに、奏まであたしを追い詰めると言うの? 唇が震える。 だって何も見えない。明日のことさえ不透明な毎日の中で、どうして一年後のことを考えなくちゃならないの。 なりたい職業がはっきり決まっているわけでも、生涯を通じてやりたいことがあるわけでもない。あたしの手のひらにある可能性すら分からない。覚悟だって足りないままだ。なのに。 「・・・どうして」 「え?」 「どうして、そんなこと訊くの!? そんなこと全然分からないよ! 何も考えたくないのに、どうして放っておいてくれないの!?」 立ち上がって思いのまま叫んでしまった。夕方の静かな公園。遠くで小学生たちの声が聞こえる。そんななかで。 奏は呆然とあたしを見上げていた。息をついた。言葉が出てこない。何を言えばいいのか分からなくて、あたしは鞄を握って走り出した。 「優!?」 奏の声が聞こえたけれど、今は振り向けなかった。今、奏がどんな顔をしているのか、見たくもなかった。 勝手なことをやっているくせに、つい思ってしまう。 お願い、嫌わないで。 あたしの傍にいて。 あたしの話を聞いて。 あたしの不安を理解して欲しい。
ただそれだけのことも言えない。
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