7 月光を浴びる(後)


 テレビの画面に映るニューヨークで飾られているという大きなクリスマスツリーが飾られていた。それを片目にあたしはコートを着る。
 去年買ったコートだけど、流行り廃りのないものだからしばらく着れそうだ。あたしのお気に入りのデザインだから、長い間使いたい。
 十二月二十四日。恋人達にとっての最大のイベント。クリスマスイブ。自分にも関係しているのかと思うと、少し変な気持ちになる。いつだって他人事のように思っていたのに、奏がわざわざこの日を空けてくれるなんて。絶対そんな性格ではないはずなのに。
 ブーツを買うお金がなかったので、仕方なくスニーカーを履く。きっと奏はそんなことを気にしない。それよりも大事なものが欲しかった。忘れ物がないことを確認してあたしは玄関のドアを開けた。
 今年も例のごとくホワイトクリスマスには無縁だけれど、青空を見上げたら心が晴れる。そしてまた音が降る。白い息を吐いて、あたしは待ち合わせの場所に向かった。
 待ち合わせの午後三時の十分前。
「早いですね」
 顔をあげると、嫌味たらしく笑う奏に出逢った。太陽はまだ空で輝いていて、そのせいでその顔には影が出来ていてもったいないなと思う。いつだって輝きを与えたいのに、なんて馬鹿なことを考えていると、奏があたしの髪を引っ張った。
「・・・痛。何すんの」
「それはこっちの科白。俺が来てもシカトしてんじゃん」
 その表情から怒っている様子は伺えず、ただ乾いた声で奏は笑った。
 無視じゃなくて、声もかけられないほどあたしは緊張しているだけ。だけどそれを知られるわけにはいかない。いつもあたしばかり下手(したで)に出ているのに、今日はせめて対等にいられたらと思う。
 せっかくのクリスマスイブなのだ。


 あたしたちはいつものように楽器店に行った。最新のキーボードでクリスマスソングを弾き合った。何曲思い出し、それを弾くことが出来るか、あたしたちは勝負をした。こういう場合、どうでもいいときには思い出すような曲を思い出せない。探し物をいざ探し始めると見つからないのと同じ原理だ。定番のジングルベルから始まり、勝負は次第にマニアックになっていく。
 結果、奏は十二曲、あたしは九曲で負けてしまった。店員に睨まれながら、それでもあたしたちは会話をし続けて店を出る。
「あの店員、ケチな。少しくらい弾かせろってんだ」
「・・・少しじゃないと思うけれどね。でももうちょっと時間あったら絶対あたしが勝っていたのに」
 苦笑しながら、歩きながら当たった奏の手を握った。そしたら何気なくちゃんと握り返してくれる。その瞬間がとても好きで、この瞬間は世界で一番幸せなんじゃないかと思う。
「いや、よく考えてみろよ。もっと時間あれば俺だってもっと弾けるから、結局俺の勝ちじゃねえか」
 負けず嫌いの奏は威張ってそう言い張る。ときどき子供っぽい。男の人はずっと少年の心を持つっていうけれど、少年なんて綺麗な単語ではニュアンスが違う気がする。でも奏だったら許せる。こんなときに、あたしは抱きしめたくなってたまらなくなる。
 時計を見るともう夕方の五時で、空は暗くなり始めていた。
「優、飯何が食いたい?」
 いつもと同じように奏は訊く。あまりデートをしないあたしたちだけど、たまにこうして二人で出て、どちらも忙しくない一日は、たいてい二人で夕食をとる。
「今日はどこも混んでいるんじゃない?」
 周りの飲食店を見渡すと、やはりカップルがぞろぞろと歩いていて、こんな時間からすでに並び始めている有名な店もあった。
「・・・・・・今日は俺ん家で食おう」
 しかめっ面で奏はつぶやいて、そのまま歩き出してしまった。あたしは慌ててそれを追いかける。先ほどまでお互いこれ以上ないほど楽しくて笑っていて、なのに急にどうして。
 早足で奏を追いかけながらショッピングビルの傍にあるクリスマスツリーを見た。ニューヨークのそれより小さいけれど、暗くなり始めた空にはとても映えた。恋人達だけではなく、全ての人間を魅了するツリー。
 まだイブは終わっていないのに、急にあたしは寂しくなった。奏の背中からは何も分からない。


 お互い横に並ぶこともなく、無言のまま歩いて、奏の家に着いた。奏の家に来たのは二回目だ。
 重そうな玄関のドアを開けて、靴を脱いだ奏はあたしを見下ろした。あたしはしゃがんでスニーカーの紐を解いた。
「・・・ごめん」
 ポツリと低い声が落ちてきた。
「せっかくのイブなのに」
 それを聞いて、あたしは顔をあげて奏を見つめた。
「・・・ごめん」
 何に対して謝られているのか分からなくてあたしは戸惑ってばかりだった。確かに、あたしの存在なんてなかったかのようにあたしの前をずっと歩かれていたことはとても胸が痛んで悲しかったけれど。分かっていたことだった。そう、分かっていたのだ。
 昔から奏はそんな人だったと。
「別に気にしていないよ」
 出来るだけ微笑むようにしてあたしは明るい声で言って、靴を脱いで玄関の上にあがった。
「・・・そんなわけ、ないだろ」
 突っ立ったまま奏は無表情で言った。その口調とはアンバランスな鋭い視線。いつだって奏はあたしを知っている。そんなところも昔から変わらない。
「クリスマス、だもんな。店混むに決まっているんだ」
 一人ごちって、クソ、と奏は舌打ちをした。
「予約とかすれば、よかったんだ・・・」
 やつあたりを出来るものがなくてとても苦しそうで、でもどうしていいのか分からなくてあたしはおずおずと口を開く。
「あたしは奏といることができたらそれでいいんだよ」
 だから気にしないで。そういう想いが伝わっていればいい。どこだっていい。なんだっていい。ただそれだけが大事。場所なんて関係ない。
 あたしの言葉を聞いて、奏はやっと笑顔を見せてため息をついた。
「そういう科白を真顔で言う奴、いるんだな」
「え?」
「・・・なんでもない。あ、コートかけるか?」
 あたしから目を逸らして、あたしのコートを脱がせた。それがとてもエスコートし慣れている男に見えて、なおさらドキドキした。こんな芸当、どこで知ったのだろう。
 甘えついでにあたしはひとつ思いつく。
「奏、あのね」
「ん?」
「あ・・・、家で食べるのは、いいんだけど、ね・・・、あたし、料理できないんだよね・・・」
 自嘲気味につぶやくと、リビングに入ってすぐにあるハンガーにあたしのコートをかけながら奏は笑った。
「いいよ、俺が作る」
「奏、作れるの?」
「親は仕事でほとんどいないし、一人暮らし同然だからな」
 広い大理石の床のキッチンに入っていきながら、奏は慣れた手つきで冷蔵庫を開けた。今日も前に来たときと同じで、この家には誰もいない。だからか生活臭が漂わない。例えシンクに使用済みのコーヒーカップがあったって、それすら飾り物に思えてならない。
「優は・・・、リビングの奥にあるピアノでも弾いてろよ」
「え、手伝うよ?」
「駄目。俺が料理しているところなんて見せられねえよ」
「なんで?」
「男が料理なんて、格好よくないじゃん?」
「・・・そんなことないのに」
 むしろ今の時代は格好いいんじゃないかと思ったけれど、ここは奏の家だし、せっかく機嫌を直してくれたのであたしは遠慮なくリビングの奥にある白いグランドピアノに触れた。
「このピアノ、奏のお母さんの?」
 距離があるため少し大きめの声で、叫ぶように訊ねると、「おう」と返事が返ってきた。そんな大切なものにあたしが触れていいのかと戸惑ったけれど、思い切って蓋を開けた。
 さっき弾き忘れたクリスマスソングをかなでる。ゆっくりと、変調したり伴奏を変えたり雰囲気を変えてアップテンポにしたり、遊んでいたら奏が笑い声をたてた。
「そんな変奏、初めて聞いたよ。おまえしか思いつかねえよ」
 キッチンの向こうで奏は何を作っているのだろう。気のせいか、なんとなくいい香りがしていいタイミングでお腹がすく。
 何度見渡してもこの家は広い。こんな広い家で一人暮らし同然だという奏は、何を思って生きてきたのだろう。寂しくないはずなかったのに。


 奏はスパゲッティとスープを作ってくれて、それをリビングの窓の傍にあるソファのテーブルまで運んできてくれた。
「わ、奏、こんなの作れるの? 天才!?」
「別に普通だよ。ちょっと練習すればすぐ出来るって」
 なんでもないことのように奏は言うけれど、きっとあたしは十年練習しても無理だと思った。
「いただきまーす」
 二人で手を合わせた。それはまるで神への啓示。今日はクリスマスイブ。キリストの誕生日は明日だけれど、なんだかとても神聖な気持ちになる。
 スパゲッティもスープも期待以上に美味しくて、あたしのテンションは上がって話ははずんだ。中学校の教師の話をすると、奏は懐かしそうに目を細める。奏がピアノの話をすれば、あたしは憧れで目を輝かせる。
 いつまでこんな風にいられるのだろうと漠然と思う。
 もちろん来年もきっと二人でいることは出来ると信じることは出来る。だけど、あたしたちは一つ歳を重ねてしまう。再来年にはさらにもう一つ。そうしてどんどん大人にならなければならない状況の中で、いつまでも今のような甘い生活を送ることなんて出来ない気がした。十四歳のクリスマスイブはもう二度とやってこないのだ。
「どうした?」
 急に黙り込んだあたしを覗き込んで、優しい声で奏はつぶやいた。
「・・・来年もこうしていられたらいいなって」
 そう言うと、奏は黙ってあたしを見た。そして立ち上がり、すぐ横の窓のカーテンを開けた。窓ガラスには自分の姿が反射した。今日のために着てきた白いセーターと黒いスカート、そして網タイツ。普段はそんな格好しないけれど、今日だけはと思った。
 奏がリビングの入り口まで歩いたとき、パチンと音がなった。そして急に視界が暗くなる。奏が電気を消したのだ。
「奏・・・・・・?」
 なんとなく奏が見えるけれど、ほとんど見えない。驚いて立ち上がるあたしを奏は片手で制して、窓の外を指差した。
「月・・・」
「え?」
「見えるか、月?」
 カーテンも開けたその窓はあまり街灯も見えない場所で、その代わり黒い空がくっきりと見えた。
「見えるか?」
 あたしの隣でもう一度奏は言い、あたしは目を凝らして見た。黒の中に浮かぶ白。
「・・・見えた」
 そして、白の周りにはぼんやりとした滲み。あれを月光と言うんだと思った。
「ベートーベンの月光、奏は弾ける?」
「まあな」
「聴きたい。第一楽章が好き。すごく悲しくて、でも優しい曲」
 いつの間にかあたしの肩を抱いてくれていた奏に体重全部預けるように寄りかかって、そう言った。
「三楽章まで弾いてね」
 あたしが言うと、奏はうなずく。あたしにはあんな柔らかいメロディーは弾けない。奏に弾いて欲しい。今すぐに。でも、今あたしの隣から奏がいなくなるのも嫌だった。わがままなあたしだ。
 ほんのちょっとだけ触れ合った部分が熱くてどうにもならなくて、このままいたら壊れてしまうと思った。あたしだっていい加減、恋人同士が何をするのか知っているけれど、理屈では知っているけれど、でもまだ頭では理解できていなかった。そんなものよりもただあたしは抱きしめて欲しいし、それだけで満足できた。奏も同じだったらいい。でもきっと違う。本当にあたしのことを好きだと伝えてくれたこの人は。
 そんなことを考えていると、奏はあたしから離れて電気を付けた。たった数分の出来事だったのに、もう蛍光灯は眩しくて目を細めた。
 ・・・なんとなく、寂しい気がした。もっと傍にいたかったのに。
「月なんて見たの、久しぶりだ」
 そう言って、奏はさっきまであたしが弾いていたピアノの鍵盤に指を載せ、ベートーベンの『月光』第一楽章を弾き始めた。
 相変わらず優しくて深いその旋律。それを聴きながら、なぜか泣きたくなった。大声で泣きたくなった。なぜだか分からないけれど。初めて恋人と過ごすクリスマスイブに、幸せだと叫びたくてたまらない。切ないと心が震える、それをどう言葉に表せばいいだろう。


      
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