夕方になると更に気温がさがり、あたしは両手で自分の身体を抱きしめるようにしながら歩いた。 「寒い?」 隣を歩く奏は、無表情であたしに訊ねる。 「寒いよ! 奏は寒くないの?」 「ブレザーの下にはセーター着てますから」 「何それ、ずるい!」 「おまえは着てないのか?」 「・・・だって、朝時間がなくて」 「天気予報くらい前日にチェックしとけよ」 とどめの一言を受けて、あたしは口を閉ざしてただ奏を睨んだ。そんなあたしの様子を楽しんでいるのか、奏は笑いながらあたしに手を差し出す。 「・・・何よ?」 仏頂面をしながらも、あたしは奏の手を受け取り、ぎゅっと力一杯握った。 「おまえ、それで精一杯の力なわけ? 握力弱くないか?」 「なんでそんなに、いちいちムカつくこと言うのかな」 おまけに、奏の手は腹立たしいほどに温かかった。こんな血も涙もないような男のくせに、あたしの冷たい手のひらは少しずつ温まっていく。 「そんなに冷たい手じゃ、ピアノ弾くのも大変だろ」 「うん、だからね、冬にレッスンに行ってもすぐに弾けなかったりするんだよ」 あたしが一生懸命に愚痴っぽく語っていると、奏がふと笑った。不覚だった。急にこんな笑い方されたら、心臓が持たない。 「じゃあ、今からよーく温めておかないとな」 「なんで? っていうか、今からどこに行くのよ?」 駅からずっと、見慣れない道を歩いている。あたしが聴くと、奏は得意げに言った。 「俺ん家」
奏の家。 自分でも驚くけれど、あたしは奏のプライベートについて考えたことがなかったことに気付いた。もちろん去年は同じ中学校に通っていたわけだし、彼の素顔を知らないわけではない。そして、確かに知りたいと思ったことは幾度かあった。だけど、再会してからこっち、そのことに関しては考えられなかった。余裕がなかったのだ。 あたしが奏のことをよく知らないで辛かった割には、気付くのが遅すぎる。奏にも当たり前に家族がいて、住む家があって、これまでの思い出があって・・・。 当然のことなのに、盲点だった。 それから少し歩くと、高級住宅街に入った。大きな家、見栄えのいい家、高級車が置かれるガレッジ。見慣れないものに、あたしは圧倒されて、奏の手を再びぎゅっと握り締める。 何を勘違いしたのか、奏はおかしそうに笑った。 「別に家に連れ込んで、襲い掛かるようなことはしねえから安心しろよ」 「は? そんなこと考えてもないし!」 これだから金持ちのお坊ちゃんは・・・。と、今知った事実をさも昔から知っていたかのようにあたしはぼやく。 奏は本当に金持ちの息子だったんだな。そもそも音楽を本気でやっている人はそういう人が多いと聞くけれど。 あたしの態度にまた奏は笑う。 「ピアノを、弾いて欲しいと思って」 「・・・奏のピアノ?」 「ああ。あ、着いた」 そう言って、奏は家の門を開ける。見上げるような高さ、二台の車を駐車できるほどのガレッジは隣にあるけれど、車は二台ともなかった。 「入って」 「あ・・・、うん。お邪魔します・・・」 高そうな分厚いドアを開けて、あたしは広い玄関に圧倒されながらも靴を脱いで、丁寧にそろえた。 奏のあとについていった。広い廊下を歩いたら、そのまま突き当たりにある階段を上っていく。 「・・・奏、あの・・・、ご両親は?」 「ああ、不在。いつものことだけどな」 「いつもって?」 階段をのぼりきると、一つの部屋に案内された。ドアを開けると、部屋全体が夕日のオレンジ色に染まっている。まず手前に机が見えた。そしてベッド、一番奥には・・・。 「俺の両親、共働きだし。親父はほとんど帰ってこれないし、母親も家にいること少ないんだ」 「・・・そうなんだ」 つぶやきながらも、驚いた。十畳以上あると思われる広い部屋の奥では、黒いグランドピアノが輝いている。傷ひとつないピアノに、沈みかけている太陽が反射していて、あたしは目を細めた。 「奏の部屋には、ピアノがあったんだね」 「じゃないと練習できないだろ?」 「え、でもあたしは・・・、あたしの家はリビングにピアノがあってね、あたしはいつもそこで弾いているから」 「ふーん。リビングにもピアノはあるけれど、そこは母親が使うから」 「え? お母さん、何やっている人?」 「大学の講師とか・・・、ピアノの講師とか・・・、ときどきピアニスト」 「ええっ?」 あたしは声をあげた。窓から入る夕日が眩しくて奏の表情がよく見えない。 「ちょ、ちょっとそれ、初耳だよ」 「だろうね。俺も他人に言ったの、初めてだもん」 そのとき、いつもと何か違うことを察知して、あたしは奏の手を握った。さっきは温かかったくせに、今は少し冷たくて、震えているように感じた。 「・・・奏」 「ん?」 「あの、ごめんね」 「何が」 「今のこと、あまり訊かれたくないことだったんでしょ?」 奏を見上げてつぶやくと、奏は硬かった表情を崩した。 「そんなことねえよ、おまえなら」 ・・・おまえなら。あたしはほっと胸を撫で下ろす。ときめきを隠すように、笑ってみた。今の一言で浮かれているなんて、こんなときに知られたくなくて。 「ねえ、兄弟はいないの?」 「ああ、いないな。一人っ子なんだ」 「そっか」 笑ってうなずきながら、あたしはピアノに寄っていった。 「すごいね、コレ、最高級のピアノじゃん」 「うん、俺の親は、そこらへんにうるさくてさ。職業柄かな」 「へえ、恵まれた環境なんだ?」 あたしが言うと、奏は、どうかな、と顔をゆがめた。しまったと思ったときは遅かった。あたしはピアノから離れて奏に駆け寄る。 「優、そんなに気にしなくてもいいぞ?」 「でも、だって・・・」 あたしが申し訳なさそうにいうと、奏はあたしの頭を撫でた。 「別に母親が嫌いなわけじゃないんだけど・・・、やっぱりさ、親の職業柄どうしても言われてしまうんだよな」 「・・・何て?」 「七光りって」 つぶやいている本人は、とても涼しい顔をして言うけれど、でも知っている。言われるたびに、ささやかれるたびに、奏が傷ついてきたこと。 「でもね、あたしは知っているよ」 あたしは奏の首に手をまわす。 「親なんて関係ないよ。あの狂おしいほどの音は、全部奏の指から、手から、体全部から生み出されたんだよ、あたし知っているよ」 そのまま奏の胸に耳を当てると、鼓動が聞こえた。生きていると思った。人は何故、このリズムには乗らない自然の音と体温に触れただけで、こんなにも安心してしまうものなのか。単純な仕組みだった。その人が持つ感情はとても複雑だというのに。 初めて奏の音を聞いたときのことを思い出した。今思えば、あの瞬間にあたしは恋へと落とされてしまった。あの瞬間に惹かれた。あたしの心は、そのときからずっと奏に縛られていて、でも自由を与えられているから今ここにいることが出来ている。 時にはその自由が不安になって、寂しくなることもあるけれど、こうして鼓動を感じるだけで、不安はなくなる。 奏はふっと笑って、触れるだけのキスをあたしの唇に落とす。やっぱり、今だってドキドキする。きっと慣れることなんてないのかもしれない。そんなことを考えていると不覚にも顔が赤くなる。 「・・・今まで出逢ってきた奴らは」 ぼそりと奏はつぶやく。 「俺を上手く飾り立てたり、してたのに・・・、生身の俺を見てくれたのってやっぱり優しかいないんだって今実感したよ」 あたしを抱きしめるその腕は今も震えている。あたしは守ってあげたいって思った。今まで守ってもらった分、それを返したいと。 でもどうすればいいのか分からなくて、結局あたしは奏の腕の中でただ静かでいるしかなくて、困る。非力であることを思い知る。 「優」 短く奏が呼んだ。 「ピアノ、弾いてくれないか」 当初の目的を口にして、奏は腕を離した。 「うん、何がいい?」 あたしはいつも奏が座っているであろう椅子に、ゆっくりと腰をおろす。 きっとこの人は、あたしの知らない傷をいくつもいくつも背負っている。何故か分かった。幸せな家庭で、普通の家庭で育ったあたしには全部を理解することなんて不可能だし、そんなことは傲慢だけど、あたしは奏の救いになりたい。 強く願って、あたしは鍵盤に指を下ろした。
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