4 隙間から覗いて(後)


 衝撃的すぎる奏の演奏が翻弄させたのはあたしだけじゃなかったようだ。その中でもあたしは重症で、奏の演奏が終わりドアが開放されたあとでもただしゃがみ込んでいた。
「あの、お客様、どうなさいましたか?」
 係の札をつけた生徒が戸惑いながらも、うずくまっているあたしに声をかけてくる。
「・・・なんでもないです、目にゴミが入っただけだから。あの、お手洗い、どこですか?」
 あたしは適当に誤魔化して、教えてもらったトイレまで走った。個室に入って、思う存分涙を流す。泣いているわけではない。ただ、涙が止まらないだけなのだ。軽くつけたマスカラやアイラインを崩さないように、タオルハンカチで目を押さえる。きっと目は赤いままだ。格好悪い。
 今日あたしが文化祭に来たのは、少しでも奏を見たかったから。こんなに広い場所で偶然に奏に会えるなんて思ってもいない。だけど、もしかしたら、なんて甘い想像があった。
 だけど、きっと無理だ。この差を見せ付けられてしまっただけだ。ただ会いたくなっただけだ。
 会うという定義を間違えていた。奏の姿を見ればいいなんて、そんな程度の欲望ならとっくにこの恋は終わっている。
 あたしはポーチの中にある鏡で、赤い目を確認し、ため息をついた。さっきまではこの女子トイレも賑わっていたけれど、そろそろステージでは違う演奏会が始まったのだろうか、静まってきた。あたしはそっとドアに出て、今度は洗面台の鏡をのぞくけれど、やはり一度涙を流した目はなかなか元には戻ってくれないようだ。
 あたしはパンフレットを無理やり鞄に押し込んで、もう帰ろうと思った。もうどうにもならないと思った。こんなに苦しいなんて知らなかった。
 佳苗を思い出す。悲しそうに話していた。あたしは佳苗の気持ちすら分からなかった。今になって分かるなんて残酷だ。
 どうして人は恋をするのだろう。こんなに苦しいなら最初から誰も好きにならなければいいのに。
 途方もない考えをめぐらせながらとぼとぼと歩いて、講堂を出た。
 外は、まだ明るい。
「・・・保本優」
 秋の風を浴びていると、ふと背後からそんな声がして、心臓がドクンと大きく鳴った。
「・・・だよな?」
 自信なさそうに自嘲する、その声。あたしはゆっくりと振り返った。
「あ、やっぱそうだ」
 今度は優しく微笑む声の主。
「・・・・・・・・・先輩」
 言いたいことはたくさんあったのに、口から出たのはたったそれだけだった。


「おまえさ、いつから俺のカノジョになったの」
 校内の模擬店に向かいながら、あたしの隣で奏が笑う。
「え?」
「いろんな奴らに聞かれたからさ、オマエのカノジョが来ているぞ紹介しろよって」
「・・・・・・ああ」
 心当たりを思い出して、ただあたしは曖昧に笑った。話さなければならないことのツボから大きくかけ離れている気がした。
 久しぶりに会ったというのに、あたしたちはどこまでもクールで、感激しているのにあたしはそれを表せない。嬉しいけれど、でもそれがあたしの独りよがりだったら? 今でも臆病は治らない。
「まあ、カノジョと言われたらおまえしか思いつかないけれどな」
「・・・そのときあたしのことを思い出した?」
「っていうか・・・・・・ね」
 そこまで言って、奏はただ笑った。誤魔化しているなとあたしはため息をつく。いつまでもその心を掴めない。
「先輩のピアノ、聴いたよ」
「そりゃどうも」
「すっごいよかった」
「そんな科白、誰でも言えるだろ」
 少し尖った口調で、奏は言った。あたしは俯いた。
 中学の頃よりもきつくなったなとあたしは悟る。この世界、いろいろ大変で、自分の音を持っていることすらシビアなのかな。それでも、あたしはこの感動を伝えたくて、奏の袖を掴んだ。奏は驚いたようにあたしを見た。
「あのね、キラキラ輝いていたの。上から降ってきたの、音が」
 必死になって言った。奏は目を見開いてあたしを見下ろしていた。前よりも奏の目線を高く感じた。差がついたのは、ピアノだけじゃなくて背もなのかもしれない。そう思うと余計切なくなった。
「あたし、涙が出たんだよ。だから、目が赤いでしょ? 先輩があたしをこんな風にしたんだよ?」
「おまえさ・・・」
 奏は表情を変えないまま呆れたように言う。
「先輩はやめろって言ったよな」
 あたしは目を伏せた。本来距離を縮める科白なのに、絶望的な言葉のように思った。
「それは、トモダチだから?」
 あたしが訊ねると、奏は何も言わないままあたしから目を逸らす。
 目の前には模擬店がたくさん並んでいる。あたしはゆっくり話したくて、校舎の壁の前に立ち止まった。奏もそれに合わせて立ち止まる。同じ空間の中なのに、人口密度がまるで違う。ここだけ別の世界だといいとあたしは本気で思った。
「ねえ、もうやめようよ」
 あたしは言った。奏はうなずきもしないままただあたしの口許を見ていた。目線を合わせないようにしているんだ、そう気付くと少し腹が立つ。臆病なのはお互い様なのに。
「奏・・・・・・・・・」
 名前を口にすると、またあたしはどうしようもなく苦しくなる。その苦しさから解放されたくて、あたしは奏の肩に額を押し付けた。奏の香りを感じて、尚更泣けた。
「もうやめよう?」
「・・・何を」
 低い声が降って来る。その中に隠れた戸惑いを感じて少しだけ安堵した。
「嘘をつくの、もうやめようよ、苦しいだけだよ、あたしは息も出来なくなる、涙が止まらないよ」
 だんだんと小さくなる声で、奏に縋った。奏はゆっくりと片手であたしの髪を撫でた。
「・・・そうかもな」
 奏は自嘲したように言った。
「嘘をつくには・・・・・・、長すぎる時間だったかもな」
 あたしは顔を上げて、奏を見た。目が合った。奏もあたしとおんなじ顔をしていると思った。きっと切ない気持ち、これを共有っていうのだろうか。
 独りよがりじゃないって、今分かって、すごく安心する。弱虫なのは変わらないけれど、ちょっとした幸福感を胸の中で感じて、この切なさが少し嬉しくもなった。
「・・・優」
 奏があたしの名前を呼んだ。フルネームじゃなくて、ちゃんとあたしの名前を呼んでくれた。それはきっとトモダチなんかじゃなくて。
「何?」
 あたしが訊くと、奏は両手であたしの頬に触れた。そのままかがんであたしと目線の高さを合わせて、あたしに顔を近づけた。
 たった一秒だけ唇が重なった。
 この人こんなことも出来るんだとあたしはドキドキしながら思う。こんなに人が多い場所なのに。
 ああ、そうか。奏もここを別の世界だと思っているのかもしれない。あたしと同じで、それでまた奏との距離が近づく。
「おまえのこと、ずっと考えていたよ」
 さっきの誤魔化しを今更訂正するように、奏はつぶやいた。あたしもだ、と思った。


 あたしたちはゆっくりと正門に向かって歩いていた。ときどき痛い視線を感じるけれど、きっと別の世界なのだと思って何も気付かない振りをしておく。
 寒くねえか? と奏はあたしに訊いた。あたしは首を横に振った。
 風が吹き込む。日差しが強くても、気温が高くても、もう秋は始まっていることを実感する。ミュールの裸足の足の指がひんやりとする。
 あたしは奏の裾を掴んだまま、その横顔を眺めた。そういえば初めてデートしたのもちょうどこの時期だと思い出す。あの頃、怖いものはたくさん溢れていて、一秒後の未来さえ怖かった。だけど、今はこの人がいるならきっと乗り越えていける。そう考えるだけで涙が出そうになるほど切ない。切なくて苦しい。
 だけど、こういう苦しさは嫌いじゃないと思う。
「今度さ・・・」
 あたしは口を開いた。
「また連弾しようよ。前よりうんと気持ちをこめた曲を作ろう?」
 見上げて言うと、奏は微笑んだ。
「おまえと連弾したら、身が持たねぇよ」
「何言ってるの? そっちがめちゃくちゃなメロディ作るからじゃん?」
「・・・『そっち』、じゃなくて」
 真面目な顔をして何を言うのかと思えば。あたしは思わず笑い出した。奏の頬がほんのり赤くて可笑しくて。
「わ、笑うな!」
「だって、そんなに名前呼んで欲しい?」
 笑いながら、あたしこんなに笑えていると感動してみる。こんなに笑ったのはいつ以来だろう。あたしはもう、この人がいないと生きてはいけないんじゃないだろうか。そんなふうに人間に執着することを嫌だと思っていたのに、幸せだと思うあたしは末期症状だ。
「・・・優」
 奏の、低い声にドキリとする。名前を呼んでもらって喜んでいるのはあたしだった。
 正門のすぐ前。時計は午後四時半を表している。奏の演奏が終わって、ずっと一緒にいてくれてとても嬉しかった。楽しかった。懐かしかった。
 ・・・手を離したら夢だった、なんてことはないよね?
「悪いな、俺は明日の準備やリハーサルがあるから、ここまでしか送れないけれど、気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう」
「・・・優、手、離せよ」
 奏に呆れられて、渋々あたしは手を離した。奏は自由になった手でポケットから生徒手帳を取り出し、ボールペンで何かを書いたと思ったらそのページを破ってあたしに渡した。
「これ・・・?」
「俺の番号。今度連絡して」
 あたしは紙をまじまじと見つめる。九桁の携帯の番号。これで、あたしたちの細い繋がりがなくなったのだと安堵した。思えばあたしたちは、ピアノしか繋がりがなくて、だからこそ今までどうしようもなくもがいていたのだった。
 あたしはその紙を大切に折って、鞄の中に入れた。
「奏、あのね・・・」
 あたしは鞄の底に入れていたボタンを取り出した。卒業式の日にもらった、奏の第二ボタン、それを奏に見せる。奏は目を見開いた。
「あのね・・・」
 あたしは何を言えばいいのか分からなくて、言葉を捜す。だけど、この気持ちを表す的確な単語が思いつかなくて、口を閉ざした。ボタンを見せているだけで、その眼差しだけで、伝わっていると信じた。
「・・・ありがとな」
 たぶんたくさんの意味を込めて、奏はあたしの頬にキスをした。あたしはうなずいて、奏に手を振った。
「帰るね。明日も頑張って」
「おう。絶対連絡しろよ!」
「分かっているよ」
 笑って、そのまま正門をあとにした。もう涙なんて出ない。恐れることなんてない。だって、明日がある。未来がある。また会える、それだけでひどく幸せな気分だ。
 あたしはボタンを握ったままバスに乗った。鞄の中から、番号が書かれた紙を取り出し、なんども番号を口の中で唱える。今日のことは夢じゃない。窓の外は、朝に見た景色が逆に流れているだけなのに、目に染みた。
 幸せすぎて泣きそうだ。


      
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