九月初めの土曜日、天気は晴れ。 学校はすでに二学期が始まり、初めての週末。あたしはノンスリーブのセーターにデニムのミニスカート、そして迷った結果ミュールを取り出した。外はまだ暑い。 「優、どこ行くの?」 スリッパを鳴らせて母が玄関にやって来る。 「ねえお母さん、今日晴れるよね?」 「そうねぇ、天気予報ではそう言っていたけれど・・・、どこへ行くの?」 しつこく訊ねる母、心配されていることを素直に受け止め、あたしは笑って答えた。 「音楽高校の文化祭」
マジになることが格好悪いって思ったこともあるけれど、あたしはただ一目散に行くしかなかった。佳苗にだって応援されてしまったのだ。固執している限り、あたしはこの気持ちのやり場を忘れ、そして心の時計は止まったままだろうと知った。 バスを乗り継いで着いた初めての場所。その辺の公立の高校とはまるで雰囲気が違う、レンガ造りの豪華な正門にあたしは圧倒された。 正門の前に立つ生徒からあたしはパンフレットを受け取り、中に入った。何もかもが初めてで、驚いていた。 芝生に置かれたベンチは人が群がっている。あたしは端のほうに移動し、スカートの裾を気にしながら腰をおろしてパンフレットを開いた。 「カーノジョ!」 上から声が降ってくる。何気なく見ると、男が三人。 「何やってんの、一人じゃ寂しくない?」 「・・・・・・」 「黙ってたら分かんないって、何か言えよ」 「・・・別に寂しくない」 あたしは睨みつけながらぶっきらぼうに言う。ここの生徒だった。どこの学校にもおんなじようなのがいるんだなと半ば呆れながらも感心してみる。 「私服だね、他のガッコーの子? それとも中学生?」 「可愛いね、よく言われない?」 「言われない!」 叫んだあと、思い切り立ち上がる。ヒールの高いミュールを履いている両足は不安定で、少し震えていた。 「あたしは、あんた達と付き合っている場合じゃない」 「えー、じゃあ何しに来たの」 男ひとりの質問にさえ睨みをきかせる。深呼吸をしてあたしは答えた。 「桐川奏に会いに」 「え、ピアノ科の?」 そうか、ここは音楽高校、そんなふうにいろいろな科があったのだなと今更知る。それでも怯むような真似はしたくなくて、あたしは表情を変えないままうなずいた。 「知っているの?」 あたしが訊くと、三人とも面白そうに笑った。 「だって有名だからな。一年の桐川奏、生意気だしさ、・・・って会ったことはないけれどな」 ・・・結局奏だって、どこに行っても音を聴いてもらえないまま騒がれているじゃないか。あたしは舌打ちをする。 「でも、彼はコンクールに入賞しました」 「知ってるって。それに伴って学校は祭り騒ぎさ。午後からあいつのソロのコンサートがあるぜ?」 「・・・コンサート?」 「そ。パンフ見てみなよ、優等生のやることはやっぱり違うなー、まあ七光りもあるかもしれないけれどな」 「・・・七光り?」 思いがけない単語を耳にして、あたしは彼らを見つめた。 「彼女、そんな風に上目遣いしたらホントに襲われるよー?」 ケラケラとあたしを馬鹿にしたように笑う。だけどあたしはそれどころじゃなかった。あたしはため息をついた。指の汗がパンフレットに吸い付く。 「・・・教えてくれてありがとう」 そう言って踵を返すと、一人に腕を掴まれた。 「ちょっとー、それはないんじゃないのー?桐川なんて関係ないじゃん、俺らと一緒に遊んだほうが楽しいって」 いい加減、あたしもウンザリしてその手を振り払って、彼らを睨みつけ叫んだ。 「触るんじゃねえよ!」 自分でも驚くほどに汚い言葉だった。だけど罪悪感はまるでない。 「・・・さっきから調子に乗ってんじゃねえよ、あんたたちここの生徒でしょ? 音楽を愛しているんでしょ? だったらそれ相当の行動を取れよ! 女ナンパして遊んでんじゃねえよ!」 一気にまくしたてると、彼らは突然のあたしの豹変に呆気に取られたようにあたしを見ていた。その隙にあたしはもう一度口を開く。 「それに・・・、関係なくないから。・・・あたしは! ・・・・・・桐川奏の・・・カノジョ、なんだから」 このくらいの嘘は許して欲しい。胸の痛みは伴っても、それだけで幸せな気分になった。あたしはそのまま今度こそ振り向いて、駆け出した。
その敷地内の一番奥にある、豪華な講堂。 先ほどの男の言うとおり、その講堂で行われるいくつもの舞台のなかに桐川奏のソロのピアノコンサートも組まれていた。たった十分程度、だけど、ソロなんて普通の生徒では出来ない舞台だ。ましてや奏は一年生なのに。 七光りって、何のことだろう。こういうとき、あたしは奏のことを何も知らないと思い知らされる。一年の間、あたしたちは何をしていたんだろう。あたしは姉のことやクラスのこと、ピアノのこと、レッスンのことや玉島先生のこと、何でも話したのに。奏の話を聞こうともしなかった。話すことが苦手な彼のために、少しでも耳を傾ければよかったのに。 あたしは賑わう人の群れの間を上手くよけながら、この学校特有の文化祭を感じながら、講堂に向かって歩いた。パンフレットは手に持ったままだ。 現在午前十一時半。奏のコンサートは午後一時。まだ時間がある。だけど、お腹はすかない。あたしは近くにあった校舎に入った。この学校は土足のままで入れるようだ。そんな小さなことにさえドキドキする。 外では普通の中学や高校と同じように模擬店がたくさん並んでいて、人気の店の前では長い行列が出来ている。ごく当たり前の文化祭の風景。だけど、校舎の中に入ると空気がひんやりしていて、外とはまるで違う世界だった。歩くたびに、あたしのミュールのヒールが鳴る。 あたしはパンフレットを見ながらひとつの教室に入った。 この学校の定期演奏会の写真や曲の紹介が展示してあり、机の上には譜面が置いてある。オーケストラ用の楽譜、これは指揮者用だからたった一小節が何行にも渡ってかなでられる。あたしは身震いをした。 たった二楽章で終わったというシューベルトの『未完成』を手に取った。最初のバイオリンの控えめな音や、チェロの力強い音が今にも聞こえてくるようだった。 「何か楽器をされているんですか?」 他には客がいないその教室で声がかかって振り返ると、入り口で受付をしていた女生徒があたしを見ていた。黒髪をみつあみで結んだ、典型的なお嬢様な気がした。 「楽器・・・っていうか、ピアノしか出来ないんですけれど」 あたしはしどろもどろ答える。そう、あたしはピアノしか出来ないのだ。だから、こんな譜面は羨ましいし刺激的だった。 「でも音楽の基本はピアノだもの。もしかしたら、この学校の入学希望者?」 「いいえ、ただ知り合いがいるから来ただけで・・・」 「そう、ゆっくり見て行ってくださいね。こんなに譜面を丁寧に見ている人を初めて見たから、つい声をかけてしまってすみません」 肩をすくめる彼女にあたしは笑って、ありがとうと言った。 それからもしばらくその教室でひとつひとつ譜面をめくっていると、気付いたら時計は十二時過ぎていた。 「よろしかったら、お名前書いていただけませんか?」 受付の彼女が言った。あたしはうなずいて、そのノートに名前を記帳した。 「・・・保本優?」 書いた瞬間に驚いたような声で彼女が言ったけれど、驚いたのはあたしだ。あたしは思わず彼女をまじまじと見つめてしまった。 「あの、何か・・・?」 「あ、いえ、す、すみません・・・、どこかで見たことある子だなって思って・・・。あ、あたしもピアノやっているんですよ、ピアノ科で。・・・あなた、保本優さんだったんですね、夏のCコンクールで入賞した、」 順序の整っていない説明でも、なんとなく分かってしまった。あたしは再びありがとうと笑ってその教室を出た。
太陽が真上で輝く、九月になってもまだまだ外は暑く、日差しは強い。 少し早いけれどあたしは講堂に入った。演奏の途中だったため、入り口に立っている係の人に「静かに入ってくださいね」と忠告を受ける。 あたしはそっと思い扉を開け、中に入った。高校生レベルとは思えないほどの合唱団。こんなのどうやって発声しているんだろう、特別歌を歌うことをしないあたしは驚きながら舞台を見つめた。 やがてその合唱は終わり、盛大な拍手が会場内に響き渡る。それに便乗したようにあたしも手を叩いた。時計を見つめた。十二時四十分。これからこの舞台は空白になり、二十分後には奏がピアノを弾くのだ。そう考えると、心臓の鼓動が速まった。 合唱目当てにきていた観客は席を空け、あたしが入ったドアから出て行く。あたしは引き止めて一人でも多くの人に奏の音を知って欲しいという気持ちと、これから奏がかなでる音を独り占めにしたい気持ち、両方を自覚して戸惑った。 ここは第三音楽室ではない。もうあたしは奏の音を自分のもののように思うことなんて二度とない。そう思うと涙が出そうだった。 悲しい。 それってとても悲しくて寂しいことだと、今更気付いた。息が出来ないほど苦しいことって本当にこの世にあったんだ。あたしはパンフレットを胸元でぎゅっと握り締めた。 半年近く、奏と会わないまま平気で過ごしてきたのが嘘みたいだ。・・・平気ではなかったのかもしれないけれど、そうやって自分に言い聞かせてきたのは事実だ。自分に嘘をついていた。だけど、もう限界だった。 二十分の間、客の出入りが激しかった。合唱とはまるで客層が違うらしかった。席はたくさん空いていたけれど、あたしは一番後ろで壁に寄りかかるようにして立っていた。 ブザーが鳴る。客席の照明が暗くなる。桐川くーん、という女生徒の声。やめてよ、奏にプレッシャー与えないでよ! 一瞬でも嫉妬してしまう自分が憎い。 奏は、見た目があんな風にぶっきらぼうでクールだから分かりづらいけれど、本当はとても真面目で繊細で、今だって緊張しているに違いなかった。 あたしは黙ったまま、ステージの袖を気にする。 制服に包まれた奏がゆっくりと歩いてきた。歓声と拍手と、ブーイング。先ほどの男子のように、たった一年の生徒がソロを持つことをよく思っていない人たちがいるのを知る。ここは芸術の世界、そして、みんな競争心を持ってこの学校で音楽を学んでいるのだ。 奏は何食わぬ顔でイスに座り、鍵盤に手を置いた。 あんなに遠いステージから電流が伝わったように、あたしの心臓はびりびりと震えた。
手つきとは正反対のなめらかな音、モーツァルト。 キラキラ輝いていて、上から星が降ってくるようだった。あたしは、いつの間にか涙を流していた。
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