「キミは、なんでピアノ弾いとるの?」 会場に向かいながら、彼はあたしの隣で訊いた。 「・・・そんなこと聞いてどうするの」 「興味あるからや。そないな感情のあらへんような、ただ上だけを見ている弾き方をするキミをな」 嫌な言い方だった。だからあたしは黙秘した。 どうしてピアノを弾いているのかなんて、結局自分でも分からない。ただ生きがいのなかの一つだと思ったりもしたけれど。今は追いつきたい場所があるから。 「それより、あんたは帰らないの? これからは高校生部門なんだけど」 「帰らへんよ。人の演奏見るのもええ勉強や。キミも見るん?」 「・・・途中まで」 「ふうん」 彼は意味深に笑って、それからもう何も訊かなかった。
高校生部門になると、将来本格的に音楽の道に進もうと思って参加している人たちばかりなので、かなりレベルが高い争いだった。 あたしは名簿を開いて、ただひとつの名前を確認する。今も隣にいる彼は、人の音を聴くことを好むようだけど、あたしは違った。 薄暗く広くもない会場で、ただピアノの音を目の当たりにすると、全身鳥肌が立って、感情が揺るいでしまう。そんなことでいちいちショックを受ける自分をあたしはあまり好きになれなかった。 だけど、ただ一人のピアノを聴くことだけは好きだった。どんなに鳥肌が立っても、どんなに眩暈がしても、まるで麻薬のようにあたしはいつか中毒になるだろうと思った。それに感動する自分だけは許せた。他の感情を持っていたからかもしれないけれど。今日もあたしは禁断症状を持った人間のように、彼だけの演奏を待っている。 コンクールが始まった。会場は五百人くらいしか席がないような狭いホールで、前列のほうは審査員など関係者が埋まり、他は受験者の保護者や先生が座っているため、あたしは後ろの壁に寄りかかって立って見ていた。 十数人の演奏、確かにすばらしいものもあったけれど、あたしの心はこんなことでは揺るがない。あたしに涙を流させるほどの音を持つ人はただ一人だけ。そう思ったら出てきた。スーツ姿の、あたしが聴きたいと切望したあの音を持つひと。 ステージの真ん中に置いてあるグランドピアノまでまっすぐ歩き、課題曲を弾き始める。 その音は相変わらず優しさが溢れていて、錯覚かもしれないけれど慈愛も満ちているように思った。会わなくなって三ヶ月、彼は何を思って今までこの曲を練習してきたのだろうか。そう思うといたたまれない気持ちになった。 また置いてきぼりされた感覚になる。あたしはもっと、もっとあの音に近づきたい。ちゃんと胸を張れるようになりたい。なのに、隣にいる関西弁の男に下手だって言われるし、自信がなくなって、ステージのライトを見ると目から涙がにじみ出てきそうになった。 弾き終わるか終わらないかのうちに鐘が鳴り、あっという間に音の世界が止む。あたしがため息ついたのと同時に、隣の彼も息を吐いた。 「やっぱり凄いわ、桐川奏」 その言葉にあたしは彼を見上げた。 「知っているの?」 「だって、俺、おっかけやもん」 この世界では聞きなれない単語に、あたしは眉をひそめた。 「・・・おっかけ?」 「今の奴な、桐川奏て言うねんけど、あまり外に出てきぃひんし、知名度は高くないねんけど、俺が幼稚園に通っとった頃にな、こっちにおる親戚にピアノの発表会に連れてってもらったんよ。俺の従兄弟が出るからってな。そしたら桐川奏も出とって、小さいながらに感動したの、今でも思い出せるわ。憧れっていうん? この人のようになりたいって、本気で思ったん初めてだったんよ」 「・・・それは今も思っているの?」 「ずっと彼は俺の目標や」 でも、きっと誰も奏にはなれないだろうとあたしは思ったけれど、言わなかった。奏を目標としているということは、奏の音を認めているということで、それはきっと奏にとっても喜ばしいことだった。あたしたちは、音を聴いてくれることが一番嬉しかったから。 先ほどまで嫌悪感を抱いていた隣の彼に、もうそのような気持ちはなかった。その代わりに親近感みたいものを感じた。 会場ではとっくに次の人がピアノを演奏し始めている。何度も繰り返される同じ曲。 「じゃあ、あたし帰るね」 あたしが彼に手を振ると、彼は一瞬驚いたようにあたしを見たが、うなずいて手を振り返した。 「キミ、正直上手いと思うし、頑張りいや。さっきはキツイこと言ってごめんな」 素直に申し訳なさそうに言う彼に、あたしは笑って、もういいよと言った。もうこの男を嫌う理由なんてなかった。
奨励賞をもらったことを母に告げると、その晩はいつもよりも豪華な料理が出た。 「お母さん、嬉しくてはりきっちゃった」 母は満面の笑顔で言う。親って単純だなと思いながらもあたしは素直にお礼を言っておく。父はあたしのことはお構いナシで、その料理を美味い美味いと口に運んでいる。 食事の途中に電話が鳴った。あたしが一番電話に近い位置にいるので、手を伸ばした。 「もしもし」 『もしもし・・・、えっと、優?』 「・・・はい」 『あ、よかった。あたし、千尋』 かしこまった声から急に聞きなれた声が聞こえて、あたしも笑顔になる。昔のピアノ友達の千尋だ。あたしが登校拒否をしていた頃に一度会って、やっぱりそれっきりだった。届いた年賀状も一度チェックしただけで、あたしも送ったけれどそこに大きな感情を伝えられるほど余裕もなかったし。 「久しぶりだね、千尋。電話なんて珍しいね。どうしたの?」 『あのね、恵梨と話していたんだけど、エレクトーンでアンサンブルしない?』 「アンサンブル・・・?」 アンサンブルとは、数人でエレクトーンを弾いて伴奏することだ。合唱や合奏と同じだ、協力し合って一つの世界を築き上げる。あたしはこのアンサンブルが大好きで、三人しかいないクラスだったけれど、ひとりのパートを難しくしてでも三人でかなでる世界を今でも夢で見る。 『だって、あたしたち来年受験でしょ? そういうの出来るのは今のうちじゃない?』 「あ、そっか・・・」 『ね、考えておいて。玉島先生にはあたしから話しておくし。それで、フェステバルに出ることが出来たら、最高の思い出が出来るよね』 「うん・・・」 フェステバル。エレクトーンで自分達のアンサンブルを披露する最高の舞台。 後ろで母と父が他愛のない会話をしている。耳の端では時計の秒針が音を立てている。あたしは髪を掻きあげた。 『優』 受話器の向こうから千尋が呼ぶ。 『中学の記念、一緒に作りたいよ』 その声はどこか切なくて、この時間もすぐに消え去っていくものなのだと思った。だけどなぜだろう、やっぱりあたしの心の中にある秒針は止まっているようで、あたしは時間に乗り遅れている。ちゃんと学校に行っているし、普通の生活を送っているはずなのに。
その夜はベッドの入っても、胸の動悸がおさまらなかった。 今日の出来事をひとつずつ思い出していく。 トモダチだろ? 屈託のない笑顔でそう言って、あたしの前から消えていった奏。きっと奏なら今日の演奏も成功している。確信していた。欲目でもなんでもない、誰よりも奏の演奏は素敵だった。それはまだあたしの鼓膜に残っていて、久しぶりに幸せな感覚を得たのに、苦しくてたまらない。 あたしは何のためにピアノを弾いているんだろう。 行き着く先はただひとつだけ、それしか見えない。
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