2 基準が高すぎる(前)


 紺色の集団が同じ方向へ集まっていく。この光景が、背筋が凍りそうになるほどに嫌だったこともあったけれど、あたしももう慣れてしまった。今日も朝から雨が降っていて、だから傘の鮮やかな色々に紛れただけかもしれないけれど。
「優ちゃん!」
 後ろからの高い声にあたしは振り返る。
「優ちゃん、おはよう!」
「おはよ、佳苗。今日はいつもより遅いね?」
「うん、昨日遅くまで宿題するの時間かかっちゃって・・・。寝坊しちゃったよ」
「ふうん、偉いね」
 さりげなく微笑んで、あたしは正面を向く。佳苗の息を呑む音が聞こえた。
「・・・私は、優ちゃんみたいに頭よくないから」
「・・・・・・・・・・・」
 俯いて、さっきまでの笑顔をなくして、少し顔を赤らめた佳苗がぶっきらぼうに言って、あたしを置いて昇降口に早足で歩いて行った。あたしは一瞬何が起こったのか分からなくて、その途端に周りの視線が怖くなった。こんな登校直前に、誰もあたしたちのやり取りをみているわけがないのに、自意識過剰にもほどがある。あたしは鞄を握り締めて、佳苗を追いかけた。
「佳苗!」
 上履きに履き替えている佳苗の肩を掴む。あたしはいつだって不器用で、未だに人と向き合うのが下手だ。だけど。
「ごめん、あたし、・・・何か気に触ることしたかな・・・」
 佳苗は大きな黒目であたしをじっと見つめた。寝不足のせいなのか、少し腫れているように見えて痛々しい。
「・・・ううん、私こそごめんね。ちょっと・・・イライラしていただけだから」
「そう・・・・・・?」
「うん・・・本当にごめんね。私ね、優ちゃんが追いかけてきてくれて嬉しいって思ってる」
「・・・そう?」
「だって、今までの優ちゃんだったら放っておいたでしょ?」
 弱々しい口調から吐かれたのは鋭い一言。あたしは苦笑して、佳苗と並んで教室に向かう。
 あたしにはまだ分かっていなかった。感情を揺るがすほどの人の弱さを。


 教室に入ると、そこはいつもよりも騒然としていた。
「おはよう、何? どうしたの?」
 クラスメイトのほとんどと仲がいい佳苗には、さきほどのような弱々しい瞳はなくなっていた。近くにいた女子に挨拶をし、軽く訊ねている光景をあたしは佳苗の三歩ほど後ろから眺めている。
「あ、佳苗、保本さん、おはよー。なんかね、今日転校生が来るらしいのよ」
 ここで誰からも名前で呼ばれるか苗字で呼ばれるか、それがこのクラスの地位を表されているような気がしてならない。そう思ったけれどあたしは曖昧に挨拶を返し、佳苗は話題に前乗りになる。
「転校生? こんな変な時期に?」
「急に決まったらしいよ」
 だからこんなに教室は騒がしいのか。納得をしてあたしは席につく。タイミングよくチャイムがなり、担任が教室に入ってくるのと同時に、生徒は慌てて席につく。それはこのクラスだけではない、上の階の教室でもガタガタと椅子をひく音が響いてくる。
「おはようございます。転校生を紹介するぞ」
 去年の担任とは違い、今年の男の担任は淡白で、あたしは気に入っている。おせっかいな教師よりもずっとこのほうが関わりやすい。担任がそう言ったとき、まるでドラマのワンシーンのように前のドアから転校生が入ってきた。あまりにも安っぽい景色にあたしは思わず噴出しそうになってしまったが、転校生の顔を見てその感情も消えうせた。
「結城庸人(ゆうきようと)です。よろしくお願いします」
 あたしたちとは違うイントネーションで、喋るその声をあたしは聞き覚えがあった。はっと顔を隠そうとしたときは遅かった。
「あれ、キミ・・・、この間のコンクールのときの・・・、この学校やったん?」
 彼の瞳はあたしを捕らえていた。その瞬間に、静まっていたクラスはざわめきだした。その事態にあたしは深くため息をつく。


「どうしてくれるの」
「別に俺はなんも悪いことしてへんやん」
 昼休み、いつもだったら佳苗と一緒にお弁当を食べて、のんびりと話したりクラスの音を聴いたり眠ったりしているはずなのに。おまえら知り合いだったのか、なら保本、案内してやれよ。冷めた口調でそう言った担任のおかげで、あたしはその日常的な昼を送れないでいる。
 あたしは昼休みに教室から出ることをしたくないのに、こんな男と一緒に静かな廊下を歩く羽目になるなんて。もっとも、今日は教室にいても好奇心の瞳に囲まれていただろうけれど。さっそく妙な噂が出そうで今からため息が出る。
「それで、ここは視聴覚室ね。向こう側は実験室。この上には第一音楽室と、第二音楽室が・・・って、ちょっと、結城くん、聞いてる?」
「ああ、ごめんごめん。こっちの校舎が気になってな」
 彼は軽く笑い、違う方向に歩いていく。あたしは、その方向がとても怖くて、一瞬足がすくんで彼を追いかけるのが数秒遅れた。
「ゆ、結城くん、どこに行くの?」
「せやからこっちの校舎や」
「そっちは何もないよ! 一階には物置部屋や、昔使用していたっていう宿直室があるけれど・・・、ねえ、結城くん。二階には先生たちの準備室とか・・・、結城くん」
 彼は、あたしの声など聞こえないかのように奥へと進んでいく。あたしが涙しそうな顔でもう一度彼を呼ぶと、彼は振り向いて、一つのドアを指差した。
「ここだけ分厚いドアやな。なんで?」
「し、知らない、そんなの!」
「これって防音扉なんちゃう?」
「知らないってば!こっちの校舎は関係ないよ! 早く戻ろうよ」
 あたしの願いも虚しく、彼はドアのノブを握った。そして、部屋の中を覗いたようだった。
「うわ、グラウンドピアノやんけ・・・、なんでこんなもんがこんな狭い部屋に置いてあるん?なんでこんな六畳部屋があるん?」
「・・・知らないってば」
「そうなん? キミがそんなに嫌がるからワケありかと思うたやん」
 そう笑い、結城くんは中へと入る。・・・何をする気。そう感じた瞬間、あたしは駆け出した。結城くんの、指、が・・・。
「触らないで!」
 あたしが叫ぶと、彼は怯んだようにピアノから離れてあたしを見た。今までどこかふざけていた表情しか見せなかった彼が、真剣に驚いた顔をしていた。当たり前だった。あたしにそんなこと言える権利はない。
「・・・保本さん? ・・・どうかしたん?」
 神妙に語りかける結城くんを見て、それでもあたしはそのピアノの圧倒的な存在感の強さと自分の声の鋭さに驚いて、その場に座り込んでしまった。
「保本さん?」
 あたしは大きく深呼吸をして、あたしの顔を覗き込む結城くんを見上げた。
「・・・ごめん、なんでもない」
「なんでもないわけないやろ・・・?」
「お願い、なんでもないんだから、そういうことにしておいて」
 あたしは床に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「だいたい、結城くんがこういうところに来るから、悪いんだよ」
 あたしは結城くんを睨む。彼は何も言わずに床に視線を落とした。
「ここは、第三音楽室。どうしてピアノがあるのか分からないけれど、使われてないから、あたしたちには関係のない教室。関わらないほうがいいよ」
 そう言い残して、あたしは教室に向かった。
「や、保本さん、待ってや」
 後ろから結城くんが、先ほどが嘘のように明るい声で後ろから叫んだ。
「俺、まだ校内把握出来てないんや、一緒に戻ろ」
「・・・あたしにあんなこと言われたのに懲りないの?」
「っていうか」
 早足で歩きながら冷たく言い放つあたしに、結城くんは再び声色を変えた。
「俺、愛想だけはいいからすぐに友達になれるタイプなんや」
「・・・だから何」
「聞いたで、保本さん。キミが、桐川奏の彼女?」
「・・・・・・・・・・・・」
 あたしは思わず足を止めてしまった。それが肯定を表すことくらい、きっとこの男は気付いている。結城くんを見上げる。彼女、それは嘘じゃないけれど真実でもない。遠くで昼休みの喧騒が聞こえてくるけれど、特別教室ばかりが並ぶこの校舎には響かない。静かな空気が怖かった。
「この前のコンクールのときは、桐川奏のピアノを聞きに行っとったんやね」
「・・・何が言いたいの」
「なんであの時言ってくれへんかったんかなって、それだけや。俺は、ファンとまで白状したんに」
「・・・あんたには関係ないことだよ」
 それこそ真実。堂々と言えるような関係にはないから。あたしと奏のつながりなんて、もうなくなってしまったから。今度こそ泣きそうになって、あたしは慌てて顔を背けた。
「もう五時間目が始まる。早く教室に戻ろう」
「ちょっと待ってや、最後にひとつ、いい?」
「・・・・・・何」
 あたしが涙ぐみそうな瞳で彼を睨むと、結城くんはふっと柔らかく微笑んだ。
「キミが、この学校の天才少女やったんやね」
「・・・周りがなんて言ったか知らないけれど、本当のことはあんたが一番知っていることなんじゃないの」
 言い捨てて、あたしはもうそれきり結城くんの顔を見ることが出来なかった。


     
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