いつも隣で音は鳴り続けているはずなのに、ときどき孤独があたしを襲う。
六月の午後六時だというのに、外は薄暗い。ビルの窓から見下ろすと、人の姿は見えなくて、代わりに傘だけが目立っている。 「外、雨降っているみたい?」 グランドピアノの上にある楽譜を整理しながら、玉島先生はあたしに訊いた。 「うん、みんな傘さしているし、暗いし。梅雨って嫌だな」 うなずくあたしに先生は苦笑した。 「そんなことも言っていられないわよ。コンクールも明後日でしょ?」 「うん」 あたしは鞄に楽譜を入れながら笑って見せた。リベンジというわけではないけれど、ありのままの自分の力を発揮できるように、あたしは六月に行われる小さなコンクールを受けることに決めていた。その決心は簡単なものではなかったけれど、相変わらずあたしの音を見つめてくれる先生や、その他の人のおかげであたしは今年も頑張ろうと思える気力が出てきたばかりだった。 「優ちゃん、最近ずっと元気なかったけれど、もう大丈夫なの?」 「え? あたし元気なかった?」 「うん、春先からずっとね。でも、ピアノを弾いている優ちゃんは幸せそう」 先生の言葉に、あたしは曖昧に笑う。笑うことしか出来ないけれど、ありがとうと言ってレッスン室を出た。 買ったばかりのオレンジ色のチェックが入った傘をさして、水溜りにはまらないように歩く。雨の日は好きではない。お気に入りのミュールも履けやしない。それでもこの傘に打たれる雨の音を想いながらあたしは駅まで歩いた。
ぼんやりと時間が流れていた。 腹に時計があるように、心にも時計があるならば止まっているようにも思った。特に何を思うこともなく四月を迎え、あたしは中学二年生に進級した。頼れる友達の佳苗とはまた同じクラスで心強かった。 去年のように騒がれることは少なくなり、特に不快な思いをすることもなくなった。相変わらず協調性のないあたしにとって学校は好きではないけれど。 家に帰り玄関のドアを開けると、受話器を持った母が玄関までやって来た。 「おかえり、優。あづさから電話よ」 「・・・お姉ちゃんから?」 あたしは受話器を受け取って、耳に当てた。 「もしもし?」 『優! 久しぶり。元気?』 「うん、お姉ちゃんも元気なの? 一人暮らし、大変?」 『大変だけど楽しいよ。料理とか出来るし』 「お姉ちゃん、料理なんて出来るんだ?」 『花嫁修業よ』 受話器の向こう側のあたしのたったひとりの姉、あづさは相変わらずな口調で柔らかく笑った。この春から大学生になり、地元を離れて一人暮らしをしていた。 『優、明後日コンクールなんだって? 頑張ってね』 「うん、別に何もこだわっていないけれど」 『それが一番自然でいいことだよ』 あづさの言う事は的確だった。この春に出来てしまった心の空洞をどうにかして埋めたくて、ピアノを弾きたいと思った。弾き続けていくうちにコンクールを受けてみようと思い、悩んだ末に一番相談に乗ってくれたのがあづさだった。
コンクール日和というものが存在するのなら、梅雨真っ只中のこの快晴空はそのために用意されたものなのだろうか。もっともコンクールなんて屋内で人間が音を競い合う狭いイベントに過ぎないのだけれど。 そのコンクールは小学生の低、高学年部門のふたつと、中学生部門、高校生部門、一般部門の全部で五つに分かれていた。今日は午前中に中学生部門が、午後に高校生部門と一般部門があった。あたしは受付でもらった受験者の名簿の中の高校生部門のページを開いて、目を見開いた。 心臓が高鳴る。 最近元気がないつもりはなかったけれど、それでも鋭い玉島先生に気付かれてしまう何かがあるなら、心当たりがあった。でもあたしはそれをきつく閉まっておく。 今は自分のことに集中しなければならない。あたしはイヤホンに手を当てて、今日弾く曲をもう一度だけウォークマンで聴くことにした。目を閉じて、MDの中にはないあたしの音を思う。 去年とは違う。あたしには怖いものなんてない気がした。だって、音はいつも心に流れてくる。優しくて切なくなるあのメロディ。 番号を呼ばれて舞台に立って、無機質な視線を感じてもあたしはあたしのままでい続けた。鍵盤に触れる喜び、ただそれだけを感じた。 音は成長するものだと知った。きっと一年前、いや、半年前でもあたしはこの音をかなでられなかったと思う。それほど一年という月日はあたしにとって尊くて大切で、もう一度やり直したいとは思わないけれど、あたしにとってはなくてはならない時間だった。すべては彼のおかげだった。 目を閉じて、最後の和音を弾く。鐘が鳴って、試験終了の知らせを受ける。あたしは椅子から立って審査員に向かって一礼をし、舞台の袖まで静かに歩いた。 終わった。大層な決心をしたわりにはあっけなかった。あたしは鞄をロッカーから取り出し、ピアノを弾くために履き替えていたヒールの低いパンプスを脱ぎ、家から履いてきたミュールに履き替えた。 そして、鞄からもう一度名簿を取り出し、ページを開く。 本当は午前で帰る予定だったけれど、変更だ。家になんて帰っていられない。
近くにあるファーストフード店でハンバーガーをかじっていたら、後ろに気配を感じた。 「キミ、ひとり?」 振り返ると、男が一人立っていた。奏ほど大人びた雰囲気を持っていなかった。あたしと同じ歳くらいかもしれない。カジュアル系の大きめのパーカーを着て黒髪を立てているその姿は、黒いワンピースを着たあたしには不釣合いだった。 「・・・ナンパならお断りです」 あたしは男を睨みつけて、再び男に背を向けて、最後の一口を口に突っ込んだ。 「豪快やな、キミ」 男はあたしの科白になんて気にも留めていないかのように、無断にあたしの前の席に座る。あたしは口を拭いて、オレンジジュースを飲み干した。 「勝手に座らないでよ!」 「まあそう言うなや。俺、キミのこと知ってんねん。保本優、やろ?」 標準語とは恐ろしくイントネーションが違う言葉で、彼は言った。こんな人間があたしの中学にいただろうか。なぜあたしのことを?そこまで思って、あたしは口を開いた。 「あんた、さっきのコンクールの関係者?」 「つーか、俺も出よとったんや」 「へえ。でもだからってあたしはあんたとつるむ気なんかない」 「なんや、せっかく教えよう思うたのに」 彼はわざとらしく残念そうに言う。 「奨励賞、おめでとー」 「ああ、あたし入賞したんだ」 「さっき会場の廊下に張り出されてんて。それにしても、キミ、感慨ねぇへんな。嬉しくないんかいな?」 「だって三分の一は入賞するって言われているでしょ。そんなことでいちいち浮かれている場合じゃないの」 「志がご立派やね」 少々皮肉っぽく彼は笑った。あたしは表情ひとつ崩さずに席を立った。 奨励賞なんて、あたしにとって入って当たり前だった。あたしが目指しているのはもっと高い場所。一年前のあたしなんかじゃ手も届かない場所を、今は見据えることが出来た。 それだけで距離を縮めることができるならなんだって出来る。自己満足で終わってしまうかもしれなくても。 「でもなぁ」 ファーストフード店を出ても彼はしつこくあたしの後から声をかけてくる。うんざりするものの、特に生理的に受け付けないわけじゃないし、放っておこうと思ったとき。 「キミ、確かに上手いと思うねんけど、こう伝わるものがあらへんな」 「・・・え?」 あたしはコンクール会場に向かって歩いていた足を止めて、後ろにいた彼を見た。 「伝わるって?」 「ピアノってさ、他の楽器もやけど、聴いてくれはる人に伝えるモノってあると思うねん。誰の演奏にもそれぞれあると思うし、技術がある人間はその伝え方が上手かったりするんやけど、キミの演奏には、それが分からへんのよ」 その言葉にドキドキして、あたしはこの妙な鼓動を不快に感じて彼を睨んだ。 「あたしが下手だと言いたいの?」 「今はあんたの指がフォローしてくれとるけど、それで技術を失ってしもうたら、ただの騒音やな」 口調は穏やかな関西弁らしき言葉なのに、鋭く感じてしまった。その鋭さは、あたしに孤独を与える何かに似ていた。
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