10 二人は嫌だ(後)


 時間は瞬く間に流れて、一年分の膨大な範囲を含んだ学年末試験をどうにか乗り越えて、気付いたらもう三月になっていた。
「優ちゃん、テストどうだった?」
 佳苗はこっそりとあたしに耳打ちをするけれど、もうあたしは学年トップではない。二学期の半分以上欠席してしまったのだ。周りが言うほどあたしは天才なんかじゃないし、あたしは普通の人間だ。
 奏とはいつ以来会っていないだろう。あたし自身、卒業式での伴奏のこととか、試験のこと、そしてクラスのことで忙しくてなかなか第三音楽室に行けないでいた。
 流れる時間に置いてけぼりになっている感覚。しっかり生きているようにみえても、あたしの心には小さな穴が棲んでいるようだった。


 音楽の先生にもらった卒業式用の楽譜をリビングにあるピアノの楽譜立てに置いた。 その並んだ音符を見ただけで、なぜか切なくなった。苦しいことも悲しいこともないはずなのに、心が痛くて死んじゃいそうだと思った。
 突然リビングのドアが開いた。まだ母は帰ってこない時間なのに。黒いピアノに映った白い影。―――あづさだ。
「ただいま、優」
 制服姿のあづさは、張り詰めた声であたしに言葉を投げた。あたしは振り向けないでいた。ずっと塾にこもって二次試験のための勉強をしていたあづさが、高校の制服を着て、こんな夕方に家に帰ってくるのは久しぶりだった。無視しないわけにはいかない、だけど、どうしても振り返って、お帰りということができなかった。恐くて。
「優、こっち向いて」
「・・・・・・嫌だ」
 あたしの声は、自分でも驚くほど震えていた。結局あたしは何一つ成長していない。大切なのは本当なのに、傷つけてしまう 。あたし自身が傷つきたくないからって、そんなワガママで、いつまでも子供だからと甘えてばかりいられるはずがないのに。あづさがため息をついたのが聞こえて、さらにあたしはうつむいた。
「じゃあ、そのままでいいから、聞いて。わたし、県外の大学に行くから」
「・・・・・・え?」
 県外って。あたしはとっさにあづさのほうに振り返った。やっとこっちを向いてくれたとあづさは苦笑した。
「・・・どうやって通うの?」
「一人暮らしする。家を出るんだ。昨日、合格発表見てきたから」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 いつだってそうだ。あづさはいつもあたしに何も言わないまま、あたしはいつだってあづさに追いつけない。
「優、わたし、あんたにとって凄く嫌な姉だったと思う。でも、優のこと大好きよ?」
「・・・・・・それは何度も聞いたよ」
「うん、何度でも言える。優が信じてくれるまで、何度だって言うよ。わたしは優のことが大好きよ。嫌いになってことなんて一度もない。・・・でも、優はわたしの憧れ、だから」
 あづさの言葉に目を見開いた。憧れ?そんなこと知らなかった。あたしの羨望の的にあったのはあづさだったけれど、まさかあづさが、五つも年下のあたしにそんな感情があるなんて思いもしなかったから。
「優は何でも出来て、ピアノも上手くて、成績もよくて、羨ましかった。わたしが持っていないもの、優が全部持っているから、羨ましくて恨んだこともあったよ。わたしが勝手だっただけ。勝手に嫉妬していただけ。でも、違うよね。優にだって、弱点とか欠点ってあるはずなんだよね。でもわたしには、優は完璧に見えた。わたしが優になりたかった」
 一気にそこまで喋ったとき、あづさの瞳から涙が一粒零れ落ちた。
「ごめんね」
 崩れ落ちるようにあづさはその場にしゃがみ込んだ。
「お姉ちゃん・・・」
 あたしはあづさの頭を抱きしめた。どうすればいいのか分からなかったけ れど、あたしだってきっと理解していなかった。あづさの心は複雑すぎて、覗くのが恐かった。
 でもあづさの言葉は綺麗だ。その純粋さすらあたしは欲してしまう。あたしたちはお互いにないものを求めていたのだと知る。だから、十三年間も距離を感じてきてしまったけれど。
「あたしもね、お姉ちゃんと一緒だよ。お姉ちゃんはあたしの先を歩いているような、そんな存在なの。ずっと手が届かないって思っていたの。でも、きっと同じ場所にいるよね? あたしも、お姉ちゃんのこと好きだよ?」
 あたしは言葉を捜しながらしどろもどろ言うと、あづさは優しく微笑んだ。あたしはあづさの制服のブレザーの胸元にある花を見つけた。
「この花、綺麗だね」
「うん、今日卒業式だったから」
 あづさから出てきた思いがけない言葉にドキリとした。もうそんな季節だった。
「優の学校ももうすぐでしょ?」
 あたしははじけるように、リビングに掛かって あるカレンダーを見た。
 ―――卒業式まであと三日。


 それからどうにかして奏に会わなければと思ったけれど、第三音楽室で待っていても奏はやって来なかった。卒業前で、三年生はクラスで騒いだり別れを惜しんだり、忙しいに違いなかった。
 あたしの願いも虚しく、卒業式がやって来てしまった。
 出逢いの数だけ別れがある。何かの歌詞であるようなフレーズを、あたしはつい先日まで馬鹿にしていたけれど、今は身に浸みて感じている。
 あたしはピアノを伴奏しなければならないため、在校生の列からは外れて、グランドピアノの傍で立っていた。ここからなら卒業生をよく見えるだろうと思ったけれど、二百人くらいいる卒業生の中から奏を探し出すことは出来なかった。こんな日は全員が真面目に制服を整えて、みんな同じように見えてしまう。
 式の進むままに伴奏する。こんなときこそ涙は出ない。なんとなく、感情がいつもよりも欠落してしまったようだった。
「校歌斉唱」
 マイクで響き渡る声、それを合図にあたしは、多分中学校生活で一番耳にするであろう校歌の前奏を弾き出した。
 あたしが卒業式で伴奏することは誰にも知らされていなかった。さすがに公立の中学校、その辺りは配慮していた。誰もあたしだと分からない、でもその音をちゃんと聴いて、メロディーに乗せて歌を歌ってくれている、あたしの中に何か熱いモノが込み上げてきた。
 名前だけじゃない、ちゃんと音を聴いてくれている。それがこんなに嬉しいものだったなんて知らなかった。ずっとあたしが求めていたはずだったのに。
 途中ですすり泣く声が聞こえた。学校が好きだったんだろうな、とあたしはぼんやり思う。あたしはあまり学校に執着していないけれど、学校が好きだった人はたくさんいるはずだった。学校がひとつの居場所である人も。
 でも、居場所はココだけじゃない。生きている限り、可能性が消えないように、自分の生きる場所がなくなるなんてことは絶対にない。まるであたしは自分に言い聞かせるように、その想いをピアノに込めた。すすり泣く声が大きくなっても歌は消えなかった。


 式が終わると、卒業生は最後に在校生と個人的な別れを交わす。その場所が運動場だった。クラブに所属していないあたしはそこに行く必要もなかったのに、佳苗に引っ張られて来てしまった。
「桐川センパイにちゃんと挨拶しなよね」
 そう言って、佳苗は所属している剣道部の先輩に会いに行ったようだ。
 あたしは一人で立ち尽くして、周りの風景を見渡した。卒業 生同士、抱き合って泣いている姿や、第二ボタンを貰って頬を赤くしている女子生徒、まるで明日も会うみたいに笑い合っているグループ、誰を見ても感情が溢れていて、何よりも人間らしいと思った 。
「桐川くん、第二ボタンはもうないのー?」
 背後からそんな声がして、あたしは身体をこわばめる。声高くて甘え上手な女の声だった。そんなものにさえ嫉妬してしまうあたしは、汚くて情けない。
「悪い、もうないんだ」
「そうなんだー、残念」
 やっぱりこんな場所に来 るんじゃなかった。場違いだった。そう思って逃げ出そうとしたとき。
「保本優」
 背後から胸が震えそうなほど優しい声。
「・・・先輩」
 あたしは今気づいたとでもいう風に繕って、笑顔を見せた。
「卒業おめでとうございます」
「おう、サンキュ」
 そして奏は、ズボンのポケットに手を突っ込んで、あたしの手をとった。
「これ、やる」
「何・・・?」
 あたしの手のひらに乗っていたのは、ブレザーについているはずのボタンだった。
「第二ボタンやるよ」
「・・・どうしてあたしに」
 期待させるのはやめて欲しい。それでも嬉しくてたまらないあたしはもっと訳がわからない。あたしが奏を見上げると、複雑は表情で奏は笑った。
「今日、ピアノ弾いていただろ」
「え・・・、どうして分かるんですか? 誰にも言っていないの に」
「だからさ、おまえの音くらい雰囲気で分かるって。おまえの音くらいすぐ分かる」
  耳が熱くなる。このまま時間が止まればいいって本気で願った。今日でサヨナラなんて嘘だ。だって 、この人は・・・。
「嫌だ・・・、なんか泣いてしまいそうだ」
 あたしが溢れそうな涙をこらえるようにつぶやくと、奏はつらそうな目を向けた。
「泣くな。泣かれたら・・・、俺どうすればいいのか分からなくなる」
 どうして今まで気付かなかったんだろう。この人は、あたしのことが好きだ。直感で分かってしまった。楽器もないのに溢れ出る音をあたしは拾ってしまった。
 あたしはボタンをぎゅっと握り締める。きっとあたしの気持ちももうばれていると思った。それでもどうしても超えられない境界線。
 ―――夢世界。
「最近会わなかったから言えなかったけれ ど、俺、音高受かったから」
 嬉しそうに、あたしたちがいる時間よりももっと先を見据えた瞳で奏は言う。
「俺、四月から音高に通う」
「・・・おめでとうございます」
 戸惑いながらもあたしは笑ってみせる。一つの夢が叶って、更に奏は先を歩いていくのだろうと思った。それでもいい、今は幸せそうな奏を見ることが出来たのだ。
「おまえはどうするの」
「あたし?」
「将来、音高とか目指してんの?」
「あたし、は・・・・・・」
 まだそんな先のこと考えられない。でも逃げずに考えなくちゃならない。一度地面を見た後、思い切ってまた奏を見た。
「あたしは、多分普通の高校に行って、夢を探すと思う。先輩みたいに、未来を見ることがまだ出来ていないから」
「そっか。それでもピアノを弾いていけばいいんじゃねえの?」
「うん」
 ありがとう、とあたしは言った。あたしのことを一番に分かってくれる人。今後こんなに素敵な人 に出逢うことなんて出来るのだろうか。奏以上のひとなんてきっといない。なのに、あたしは別れを選んでいる。
「あたしね、先輩に出会えてすごく嬉しかったよ」
 最後の告白だった。勇気を振り絞っていったら、奏はため息をついた。
「おまえさ、『先輩』はやめろよ」
「どうして・・・?」
「トモダチ、だろ?」
 奏の言葉にあたしは一瞬何を言っていいのか分からなくなった。でもあたしが選ぼうとしている道は間違っていないと思った。音楽のトモダチ。この先ずっと心の中で息づいていくもの。
 無限の空間。
 夢世界とはそんな場所だった。
 やりきれない思いと、納得する気持ち、両方が交錯して、それでも泣くもんかって自分に言い聞かせた。
「じゃあな、元気で」
 奏はあたしの頭を撫でた。あたしを魅了したあの音をかなでた長い指。どんなに望んでもあたしのものじゃない。
 あたしの返事も聞かないうちに、奏は離れていった。奏の後ろ姿。これで最後だ、これで最後だ。・・・あたしまだ何も言っていないのに? もう二度会えない人なのに?
 あたしは駆け出した。
「奏・・・っ」
 『先輩』が駄目ならと勢いで呼んでしまって自分自身驚いた。奏も驚いたように立ち止まってあたしを見た。
「ま・・・、 またね!!」
「―――おう、またな」
 会えないと分かっていても、あたしはその単語に恐れを抱かなかった。奏に大きく手を振って、あたしは振り返った。
 奏の背中を最後に見たくなかったから。奏に涙を見せたくなかったから。
 あたしは走った。堪えていた分の涙を拭うことも忘れて。


 奏の音がいつまでもあたしの心の中に在るように。
 今もあたしの中に存在する夢世界ではリズム狂うことなく音が鳴っている。あたしはそれを糧にこれからも生きていけるだろう。



第一部 Fin.



     
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