翌朝、あたしは学校をさぼって早い時間から駅の改札口の前に立っていた。スーツを着たサラリーマンや制服姿の高校生が多い早朝ラッシュ。私には馴染めそうもない雰囲気だった。雪は一日でほとんど溶けてしまって、交通機関に影響はなさそうだ。 「おまえ、何してんだ?」 ぼんやりしていると、コート着ている奏があたしの前に立った。ネクタイを固く結び、ブレザーのボタンを全部きちんとしめて、真面目な格好をしていた。学生鞄を重そうに持っていた。あたしは顔をあげる。 「一瞬幻覚でも見ちまったのかと思ったぜ、俺は」 「ごめんね。頑張って下さいって言いたかっただけだから」 それだけでわざわざ学校さぼって駅で待つのか? 奏の目はそう語っていた。あたしは視線を逸らす。どうしてもこの人には嘘をつけなかった。すぐばれた。 奏はため息ひとつをつくと、あたしの頭を撫でた。 「・・・帰ってきたら、いくらでも話聞いてやるから、待ってろ」 「せ、せせ、先輩!!」 いつも以上に優しい奏の言葉にあたしは自分を最低な女だと思った。人生の岐路に立つ奏にまたもや甘えそうになってしまった。こんなところに来てまで、あたしは何をやっているのだろう。 「遅刻しちゃうから、行って!」 奏を押すようにあたしは両手を差し出す。奏の温もりに触れる。その瞬間、指に奏の温もりの記憶が蘇った。何度触れられただろう、初めての告白のときも、文化祭前の怪我を心配してくれたときも、その長い指で触れられたんだと思うと、指に熱がこもった。 奏にはあたしの心配なんてする必要ない。自分のことだけ考えていればいい。どこかでそんな大人っぽい考えも出てくる。それでも、奏はあたしから離れようとしない。電車の発車時刻は何分後だろう。どうしてあたしがこんなに慌てなくちゃならないの。 自分に悔しくなったとき、奏は口を開いた。 「俺、多分緊張すると思う」 「・・・・・・先輩が? 緊張・・・することなんてあるの?」 「俺の人生なんて緊張の連続だぜ?」 あたしは少し笑った。奏は真面目な顔をして科白を続ける。 「でも、そうなったときは、おまえの音を思い出すから」 「・・・・・・・・・あたしの音?」 「ああ、実技試験のとき、おまえの音を思い出しながら弾く。・・・じゃあな」 奏は軽く手を振って、改札口をくぐって行ってしまった。あたしはまだ熱がひかない指をもう片方の手で握った。それでも左胸の心臓は震えていて、あたしはしばらく動くことが出来ないでいた。
学校を遅刻したせいで、あたしは職員室に寄らなければならなかった。熱の冷めない指を抱えたまま、あたしは担任の前に立った。 「成績良好なのはとてもすばらしいことだけれど、あなた内心はよくないわよ」 中学校という場所はときどきそんな脅迫をよく聞いた。あたしは黙って頭を下げた。 「すみません」 「二学期は試験も受けていないでしょう? まあ、それは一学期の成績の八割ということで、それでもあなたは平均以上なんだから問題ないけれど、これ以上学校をおろそかにすると、そのうち大変なことになるわよ」 「はい、ごめんなさい」 社交辞令的にあたしは謝罪を口にする。本当はこれっぽっちも反省していないけれど、こういう大人を目の前にしたらそうするのが一番有効なのだと学んでしまった。汚いと思うけれど、みんなやっていることだった。もう自分だけまっとうに生きようなんてキレイゴトは言いたくなかった。目指すことは悪くなくても、無理な話だった 「ところで先生、先日の卒業式の伴奏の件なんですけれど」 あたしがその持ち札を口にすると、担任の顔色が変わった。 「ああ、考えておくって言っていたわよね。どう? やる気になった?」 「はい、よろしくお願いします」 あたしがにっこりと笑って言うと、担任の顔がほころんだ。 「そう、先生方も喜ぶわ。じゃあ、音楽の先生のところに行ってそのお話をしてきてちょうだい」 「はい」 あたしは担任に礼をして、職員室を出た。息をつく。もう卒業式まで一ヶ月を切っていた。奏の卒業式。あたしはその日何を思って伴奏するのだろう。想像もつかなかった。
「優ちゃん、バレンタインはどうするの?」 教室でお弁当を食べているとき、一緒に食べていた佳苗が唐突にそんな話題を振った。よく考えてみれば、もうバレンタインブームだった。あたしは毎日の慌ただしい生活の中で、今がどんな季節なのか振り向くことすら忘れていた。 「どうするって・・・、お父さんにチョコを買ったり・・・?」 「・・・桐川センパイには?」 佳苗の鋭い突っ込みに、あたしは噴出しそうになってしまいそうになった。 「べ、別に関係ないよ」 あたしが取り繕うように言うと、佳苗はため息をついた。 「もうすぐ卒業だよね、桐川センパイも」 「・・・分かっているよ」 「それまでに私たちだって学年末の試験があるし?」 「・・・そうだね」 あたしは別に、この想いをどうするつもりもない。そこまではっきりと自覚しているわけでもなかった。ただ無性に会いたくなるときがあるだけで。 五場面のストーリーを持ったあの大曲を思い出した。別にバレンタインだからって日本の菓子企業の策略のままに載せられなくたっていいのだ。
家で一度書いた楽譜を、ちゃんと綺麗に書き直し、二月十四日、奏が昼休みに第三音楽室に来てくれることを願ってあたしは待っていた。 ドアが開く瞬間、あたしはそれだけで幸せだと思った。 「今日は早いじゃん」 あたしの姿を見て、奏ははにかんだ。今はもう毎日のように会っているわけではなかった。奏は卒業間近で、試験も控えているし、最近は友達とつるんでいる姿も見かけた。奏にとってあたしは学校生活の一部でしかないように思った。 「先輩、チョコとかもらった?」 「あー・・・、義理とか」 「意外と本命かもよ、それ」 あたしがからかうと奏は黙った。あたしはこの場所でしか奏を知らない。奏は三年生のクラスでどのように過ごし、どのようにクラスメートと関わっているのか、あまり想像したくなかった。彼ら全員に嫉妬をしてしまいそうだった。 「おまえは?」 「え?」 「おまえは誰かにあげるのか?」 奏の、いぶかしげな視線にあたしはゆっくりと首を縦に振った。 「ふうん・・・」 面白くなさそうに奏は舌打ちをする。あたしが今感じているこの汚い気持ちを、少しでも奏に共感して欲しいと思った。傲慢かもしれないけれど。 「先輩、あたし今日は楽譜を持ってきました」 「楽譜?」 「うん、あたしが学校を休んでいた頃にね、作った曲。すごいでしょ、こんなにページ数がある」 軽く二十ページを超える書き直した楽譜を、あたしは奏に渡した。 「・・・俺に渡してどうするつもりだ?」 「先輩にあげる。今日、バレンタインでしょ?」 「・・・・・・・・・」 奏は壁に寄りかかるようにして床に座り、凝視するように口を結んだままあたしの楽譜をめくっていった。紙の無機質な音だけが響く。あたしは今更ドキドキした。自分で意外と大胆なことをやってしまったと思っている。 「おまえ、楽譜書くの上手いな」 「・・・そう?」 「ああ、しっかりしている。丁寧すぎて初見も出来そうだ」 「あたし、これでも一応ちゃんとした教育を受けているからね。基礎はきっちり固められているはずだよ」 奏の前に座って、あたしも一緒に楽譜を覗き込んだ。 「弾けよ」 短く奏は言い、ピアノに目を向けた。 「・・・あたしが弾くの?」 「おまえが弾かなければ意味ないだろ」 「でも、それはもう先輩のだよ」 「いいから弾けよ」 何を焦っているのだろう。奏の声には余裕がないように見えた。どうしたのと聞く暇もなくあたしは椅子に座った。 「暗譜、しているよな?楽譜を俺が持っていても弾けるか?」 「うん、弾ける」 「じゃあ弾いて」 言われるままにあたしは自分の曲を弾いた。夢世界。無限の空間。この場所にもあればよかった。そしたらずっとあたしは奏とこうしていられるのに。 「もう時間がねえよ・・・・・・」 ピアノを弾いている最中、そんな声を聞いた気がした。
|