教室は相変わらず騒然としていて、あたしは居場所を見出せなかったけれど、佳苗はあたしを見捨てないでくれていた。そして佳苗と仲のいい友達もあたしに声をかけてくれるようになって、あたしは昔よりはずいぶん話せる人が増えたように思う。顔の広い佳苗のおかげでもあった。無駄に友達を増やしたいとは思わないけれど、狭い教室で生きる以上、ある程度知り合っておいたほうが得だった。中学校とはそういう世界だった。 あたしが二ヶ月に渡って休んだことで面白みがなくなったのか、今はあたしは特別な嫌がらせは受けていない。それだけでも心が随分と楽で、学校に来るのが億劫ではなくなっていた。 ある休憩時間に、放送が鳴った。 『一年生の保本さん、至急職員室まで』 あたしの都合などおかまいなしに、教師は勝手に呼び出す。一番目立つ放送で。ざわめいていた教室は一瞬しいんとした。あたしが呼び出されたことで、好奇心旺盛な目で見られている。 あたしはため息をついて席を立った。 「優ちゃん、大丈夫?」 佳苗は心配そうにあたしを追いかけた。 「うん、大丈夫。行ってくるね」 あたしは心配かけないように微笑んで、教室を一人で出た。
てっきり不登校だったことを怒られるのかと思ったけれど、違った。確かに学校に行っていなかった頃に行われた試験のことで、そのときの成績について報告されたけれど、一学期に学年一位の成績をおさめていたおかげで特に問題はなかったようだった。 呼び出した用件を、担任は言った。 「卒業式でピアノを弾いてほしいの」 担任は座ったままあたしを見上げて自信ありげな態度を示す。 「他の先生方からも、あなたのピアノは好評なのよ」 ・・・好評も何も。あたしはこの中学校では公にピアノを弾いたことはないではないか。結局文化祭でも弾くことはなかったのだし。・・・あたしの音なんて知らないくせに。昔口癖のように思っていた言葉を、今も心の中で唱える。 「・・・何を弾くんですか」 「卒業式で三年生や在校生が歌う曲と、最初に歌う校歌かしらね」 あたしが言葉を発すると、すでに肯定と受け止めたのか担任は目を輝かせて言う。 「あたしじゃなくても、音楽の先生とか、いるでしょう・・・?」 「音楽の先生からも、保本さんが弾くことを希望していらしているのよ」 公立中学校でこんなことがあってよいのだろうか。生徒を一人指名するだけでなく、仕事を放棄しているようにも見える。ただあたしの音を純粋に好きだと言ってくれた人もいるのに、世の中それだけではないのだと知る。 「・・・考えておきます」 あたしは職員室から出てため息をついた。窓の外を見ると、天気予報で報道されていた雪が降り続けていた。
「明日積もるかな」 私立音楽高校の入試前日となった二月初め、あたしは第三音楽室の前の廊下の窓から雪を見ていた。その隣に奏がいる。 この地方では雪が積もるのは一冬に二、三度であり、雪がたくさん降っている景色を見るだけでテンションが上がる。 「明日積もられたら困るな」 「でも、天気予報では明日積もりそうだって言っていたよ」 「・・・おまえ面白がっていないか?」 あたしは奏の手元の教科書を見た。最近の奏はずっと教科書や参考書やノートを手放さない。 「先輩、ピアノ弾かなくていいの?」 「ん?」 「だって、実技試験あるでしょ?」 「家で弾いているから大丈夫だ。それより学科試験のほうが心配。俺はおまえと違ってそんなに成績がよくないんだ」 「何言ってんの」 あたしは奏の科白を鼻で笑う。奏がそれなりの成績を治めていることはあたしの耳にも届いている。奏は首をすくめたようにあたしを見た。おどけた顔に見えた。試験前日の緊張感をほぐすための。 「あたしが、先輩と同い年だったらよかったのにね」 何気なくあたしの口からそんな言葉が出た。奏はあたしを見た。何を言い出すのだという顔をしている。 「・・・どうしたんだ、突然」 「だって、そしたら今頃一緒に勉強したり、勉強教えあったり、受験の心境分かち合ったりできたのにって」 「これ以上分かち合うものが増えても困るだろ」 切り離すように奏は言う。あたしの胸が痛んだ。 奏にとってはあたしの存在なんてそんな小さなものなんだろうけれど、でもあたしは。唇を噛んで、泣きそうな顔を奏に見せないように顔を背けた。もっとも奏は教科書に夢中であたしの顔色なんて伺ってもいないけれど。 ―――あたしはもっと奏と同じ時間を共有したかった。 今は二月初め。卒業式まであと一ヶ月。それまでに期末試験だってある。奏には受験がある。昼休みにこうして奏と会えるのはあと何回だろう? 考えてみたらもう五本の指両手で足りるかもしれないと思うと、寂しくて悲しくてどうしようもない気持ちが込み上げてくる。あたしは雪を見つめた。願いを叶えて欲しい。女々しいほどに途方もないことを思った。 奏の気持ちを知りたい。奏の考えていることって何? 傍に、隣にいるのに、相変わらずあたしはこの人のことなんて何も知らない。繋がっているのは音楽だけ。音楽以外、あたしたちを繋げるものなんて何もないのだ。なんて切なくて細い糸だろう。 「そういえば、おまえの姉貴も受験生だったよな、センター試験終わったんじゃねえの?」 「え・・・、あ、うん。そう、なのかな・・・。よく分からないけれど・・・」 「相変わらず仲悪いのか?」 呆れたように奏は笑う。あたしはその一瞬すら見逃さない。チャイムが鳴った。昼休み終了の合図。廊下ではやかましいほどによく鳴り響いた。あたしと奏の間にある糸を揺るがしているように思った。 「早く素直になれ。仲良くなれよ」 あたしの頭をポンと軽く叩いて、奏は背を向けて教室に向かって行ってしまった。 「・・・・・・うん」 誰にも届かないと分かっていながら、あたしは小さくうなずいた。
家に帰るとあづさがいたので驚いた。庭に干してあった洗濯物を取り込んでいる。 「あ、優!おかえりー」 「た・・・、ただいま・・・」 久しぶりにあづさの笑顔を見た。あたしは戸惑いながらも答えて、玄関から家の中に入る。制服から普段着に着替えてリビングに降りると、あづさがお茶の用意をしていた。 「お姉ちゃん・・・、何しているの」 「駅の近くの雑貨屋さんで素敵なパッケージのお茶を見つけたの。飲まない?」 「・・・飲むけれど」 あたしが訊きたいことはそうじゃない。仮にも昔に小説を書く真似事をしていたのならあたしの気持ちに気付いてよ!沸騰しそうな思いを言葉にできなくて、あたしは俯いたままソファに体重を預けた。 今が受験期であるはずのあづさがこんなにのんびりとお茶なんかをしているとしたら、もしかしたら。あたしは鼻歌まじりのあづさを見た。 「お姉ちゃん、これからどうするの」 「え? これからって?」 「・・・大学、決まったの?」 「まだだけど? 国立は二次試験が三月にあるしー・・・。ああ、とりあえず私立は押さえておいたけれど、本命じゃないし・・・」 あっけらかんとしてあづさは言う。その口調にあたしは憤りを感じた。国立なんて初めて聞いた。あたしは何も知らなかった。それさえにイライラして、何か言いたいのに唇が震える。もどかしくてあたしは立ち上がった。 「優?」 急なあたしの行動に、あづさがゆっくりと訊ねる。 「どうしたの?」 「・・・どうしたのって、そんなことも分からないの!? あたし、あたしはお姉ちゃんのことを心配していたし、いつもお姉ちゃんの機嫌ばかりを伺っていたのに・・・、ば、馬鹿にしないでよ!」 今までにないほどの大声であたしは怒鳴った。 「お姉ちゃんの自己満足のために利用されるくらいなら、最初から嫌われたほうがずっといい!」 「・・・何を言っているの?」 「っていうか、むしろ、お姉ちゃん・・・、あたしのこと嫌いだよね?」 「そんなはずないでしょう? 嫌いになったことなんて一度もないよ」 「そんなの信じられない」 言い放って、あたしは自分の部屋まで走った。ドアをきっちりと閉めて、枕に顔をうずめる。何を言っているのだあたしは。分かっていても止められない。 あづさのことが好きだから余計に、悲しくて、あたしの涙はおさまりそうもなかった。もっと違う方法を見つけることができたなら、あたしはもっとあづさに近づけたのだろうか。 奏の言葉が耳の中で連呼する。仲良くなれそうもない。意地っ張りなあたしは素直になれそうもない。 ―――夢世界。 大きなプレッシャーと共に、あづさが最初に造り上げた空間が一気に崩れ落ちる音を聴いた気がした。
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