9 重圧がひどい(中)


 あたしは曲を完成させた。学校を休み続けていたころに作ったあの大曲だ。無理やりにピリオドを打ったと言ってもいいかもしれない。
「優ちゃん、これはまだストーリー性が広がるわよ?」
 レッスンで玉田先生はあたしが書いた楽譜を眺めながら言うけれど、あたしは首を横に振った。
「だって、今とあの頃のあたしは違うから。無理に広げても、混ざっちゃうでしょ?」
「・・・妥協しないんだ?」
「うん。だってこれは夢世界だよ。純粋な曲にしたいの」
 あたしは先生から楽譜を受け取り、鞄に入れる。
「優ちゃん、その曲・・・」
「え?」
「その曲、どうするの? オリジナルコンサートに出演しないの?」
 オリジナルコンサートとは、自分で作った曲を自分で演奏して披露するコンサートのことだ。小学校の頃はよく出ていたけれど、今年はそんなこと考えていなかった。この曲はコンサートのために書いたわけではない。
「うん、今年はしない。ごめんね先生」
「・・・・・・そう」
 あっけにとられたように先生は言った。あたしは先生が持つ生徒のなかでおそらく一番優秀だった。だから、あたしが世界を狭めると先生の功績も減る。作曲が好きだったあたしはオリジナルコンサートでは必ずそれなりの成績を収めていたのだ。でも、あたしはそれすら妥協したくなかった。申し訳ない気持ちもあるけれど。
「そういえば、優ちゃん、今から言うのもなんだけれど」
 話題を変えるように先生はあたしに向きなおして言った。
「これからの進路はどうするの?」
「進路!?」
 聞きなれない言葉に、あたしは思わず大声を出してしまった。
「どうして?」
「音楽高校ってあるでしょ?そこに行きたいならレッスン方法も変えたほうがいいと思って・・・」
 まさかこんな時期から進路について語られるなんて思わなかった。音楽高校。奏を思い出した。推薦が取り消しになったと聞いたけれど、奏はどうするつもりなのだろう。
 でも、ただひとつ言えることは、あたしは奏に惑わされることなんてないし、きっと自分の意思で決めていくということだった。
「先生、あたしは音楽高校に行ったほうがよかったりする?」
「そんなことは一概に言えないわよ。普通科に言ったってピアノは弾いていけるんだし」
「・・・そうだよね」
 あづさも奏も持っている夢。あたしにもこれだというものが見つかるのだろうか。未来があることは幸せだけれど、重荷にもなる。贅沢だとも思う。つい数週間前までは堕落生活の中で、未来すら見出せなかったというのに。今はただ、逃げずに前を見て、ゆっくり探していこうと思う。
「優ちゃん、学校に行ったんだね」
 先生があたしの制服を見て言う。
「頑張って。優ちゃんなら大丈夫だよ」
 それはまるでおまじないの呪文のようだった。あたしはうなずいた。
 この人が先生でよかったと心底思った。ピアノだけではなくて人間として尊敬できる人だった。


 レッスンの帰り、電車から降りたら雪が降っていた。暗いなか街灯にぼんやり照らされて、光って見えた。
 駅を出たところで名前を呼ばれた。視界の端から駆け寄ってくる女の子二人。あたしは急ぎ足を止めた。
「あの、あたしたち、第一小の六年で! 来年優ちゃんの後輩になります!」
 息切れ切れにそう言われて、あたしは戸惑った。全く知らない子なのに、あたしのことを知っているのだ。
「あたしたち、優ちゃんのピアノ好きです。発表会も毎年見に行っていたし、あたしたちもあんな風に弾けたらって」
 あたしの母校に通っている彼女たちが、あたしに笑顔で言う。知らない子に名前を呼ばれるのはとても不自然だったけれど、不思議なことに嫌ではなかった。こんなあたしのために、あたしを呼び止めるため走って、勇気出して声をかけて。そんな簡単なことじゃないのに。
「・・・ありがとう」
 あたしが戸惑いながら言うと、彼女たちは嬉しそうに笑って、
「ずっとピアノ弾いてください」
「頑張ってください!」
 そう言い残して、彼女たちは雪のなか走って行ってしまった。
 好きですって言葉がこんなに嬉しくて、ドキドキするものだとは思わなかった。あたしも自分の音、好きだと思った。だからもっと誇れるように頑張ろう。彼女たちの言葉はあたしの強い自信に繋がる予感がした。
 しばらく立ち止まっていたけれど、あたしは再び雪の中へと歩き出した。


 昼休み、第三音楽室に行ってもピアノの音がしなかった。あたしは少し中の様子を伺った後、防音扉を開けた。
「先輩、いたんだ」
 奏はピアノの椅子ではなく、隅で壁にもたれて座っていた。手には教科書があった。あたしを見ると、微笑んだ。
「先輩、勉強しているの?」
「もうすぐ入試だからな」
「・・・そっか。あたし邪魔?」
「なんで?」
 奏は座ったまま手をあたしに向けて、こっち来いと手で促す。あたしは言われたとおりに奏に近づくと、奏に手を引っ張られた。反射的に奏の隣に座ることになってしまった。
「でも勉強中でしょ?」
「いいから、ここにいろよ」
 あたしを見て言うと、奏は再び教科書に目を向けた。あたしは何気なく奏の横顔を見た。さらさらな黒髪も、伏せたときに影が出来そうなほどの長いまつげも、整った顔立ちも、近寄り難い雰囲気も、その存在全てがあたしを惑わせているようだった。心臓が痛い。あたしは胸を押さえた。
 音楽高校の推薦が取り消しになったと聞いたけれど、奏はどうするのだろう。そう思っていたら、奏はこっちを向いた。
「あのさ、もう知っていると思うけれど、俺は推薦外されたんだ」
「・・・・・・うん」
 最初の告白のときよりもずっと深刻な瞳で、奏は言った。あたしはどう言えばいいのか分からず、ただうなずくことしか出来ない。
「俺は喧嘩ばっかりして・・・、人を怪我をさせて、病院送りとかしているし・・・、今になって反省していたり、する・・・」
「うん・・・・・・」
「笑っちまうよ、俺がこの手で人間を傷つけたというのに・・・。・・・おまえはあのとき」
 奏はあたしの指に触れた。
「え?」
「あのとき、誰にやられた?」
「・・・あのときって?」
「文化祭前、おまえ包帯巻いて、・・・顔も腫れて、殴られたんだろ? 誰にやられたんだ?」
 今更そんなこと聞かれて、あたしは驚いて奏をまじまじと見た。そんなことを聞いて奏はどういうつもりだろう。昔の傷口は決して強いものではないのに。
「ああ・・・。でも誰か分からない。女子三人で、先輩のことが好きだって言っていたけれど・・・」
「女って汚ねぇよな。でもほんと、笑っちまうよ。俺も同じようなことしているのに、許せねえって、そいつらを殴りに行きたいって思っている」
「駄目だよ、そんなの」
 あたしは奏の袖を掴んで言った。本気の目をしていて怖かったけれど、必死に言った。
「あたしも、あの人たちと何も変わらないから・・・、中身ドロドロしていて、綺麗な心持っていないし、先輩が怒ることなんてないよ」
「おまえが傷つけられたのに?」
「あたしも傷つけたかもしれないし。それに、先輩があの人たちを殴ったら、今度は先輩が傷つくよ」
「・・・おまえ何言ってんの」
 心外だと奏は笑うけれど、あたしは首を横に振った。
「だって先輩、今も傷ついているんだもん。自分がやったこと、責めているんだもん。ね、もうやめよう? 大事な手なんだから、殴ったりするのやめよう?」
「・・・分かった」
 奏は自分の手のひらを見つめて言った。自分を責めることしか出来ないのだと思った。一つの懺悔だった。贖うということは決して楽なことではないのに。自ら傷ついて、自ら罪を責めるなんて、見ていても苦しい。
「俺、一般入試で音高を受けようと思う」
 覚悟を決めた声で、奏ははっきりと言った。
「うん」
 あたしは、さっきのようにわけわからない返事じゃなくて、しっかりとうなずいた。内心ドキドキしたけれど、すごく嬉しかった。奏が自分の思う道に進んで行こうというその志がとても。プレッシャーは大きくて潰されそうになっても。
「頑張ってね」
 気持ちをそのまま言うと、奏は微笑んでうなずいた。

      
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