9 重圧がひどい(前)


 数えたらおよそ三ヶ月ぶりの学校だった。三学期始業式。あたしは制服を着て、家まで迎えに来てくれた佳苗と一緒に学校へ向かった。
「あ、保本優」
 学校に着くや否や、あたしの名前が囁かれ、今までと変わりない視線を向けられる。それでも、佳苗は一緒に学校へ行こうと言ってくれた。だからあたしは、例え周りの状態が変わってなくてもこうして来た。周りの変化を期待するのではなく、あたしが変わろうと思った。戦うとは、強くなるとはそういうことだった。
 昇降口で靴を履き替えて、あたしはまず掲示板の前へ立った。あたしと奏の楽器店デートの記事はもうなくなり、文化祭のことが大半で、その横に奏の喧嘩沙汰と保本優の不登校のコメントが少しだけ書いてあった。あたしは新聞から視線を落として床を見つめた。
「優ちゃん、大丈夫?」
 横で佳苗があたしの顔を覗き込んだ。平気、と答えて、あたしは佳苗と一緒に教室に向かって歩き出す。今でもそこが居場所だなんて思えない。だけど、一度何もかも拒んでしまったあたしに手を差し伸べてくれる佳苗のおかげで、あたしは臆することなく歩いていけた。
 その途中、あたしは今まで自分にあったことを佳苗に話した。教科書を隠されたことも、ロッカーを荒らされたことも、靴を奪われたことも、全部。やはり佳苗は知らなかったようでしばらく無言であたしを見ていた。言葉をなくしたようだった。そして、あたしにごめんとつぶやいた。何も知らなかった、優ちゃんが学校に来なかったのはそれが理由だったんだ、と。本当の直接的な理由はそうじゃないけれど、否定できるような状況じゃなかった。佳苗は相当ショックを受けたようで、その後もしばらく口を閉ざしていた。
 でも始業式が始まる頃には笑顔を見せ、孤立しているあたしに出来るだけ声をかけてくれた。この教室に味方なんていないと、距離を作っていたのはあたしのほうだったと気づいた。
 退屈な始業式が終わった後、佳苗は言った。
「行ってきなよ」
 どこへ、なんて聞かなくても分かった。あたしはうなずいて、列からはみ出して第三音楽室に向かった。奏もそこにいると、直感で分かっていた。


 覚悟を決めてドアのノブを掴む。胸に痛みが伴うけれど、もっと傷ついた人がいる。だから自分の弱さに甘えないで、あたしはこのドアを開けなければならない。
 一度大きく深呼吸をしたあと、ドアをゆっくりと開けた。窓を作られていないその防音された部屋は真っ暗で、まだ奏は来ていないのだと息をついて、電気をつけたとき。
「・・・・・・先輩」
 今まで暗闇のなかで何を思っていたのだろう、奏がピアノの椅子に座り、楽譜立てのところに腕をのせて、伏せていた。
 奏はあたしの存在なんてないかのように、反応しない。奏の表情が見えない、それだけで不安になった。あたしは唇を噛んで、泣いては駄目だと言い聞かせながら、ゆっくりと奏に近づいた。
「・・・先輩?」
 奏のすぐ横で、奏の顔を伺うように呼んだ。
「うるせぇよ!!」
 触れようと出しかけたあたしの手を振り払って、奏は急にあたしに怒鳴った。あたしは一瞬びくりと体をこわばらせて、ただ奏を見つめた。振り払われた手が痛い。あたしも奏にしたことと同じだと思った。こんなに痛いことだなんて知らなかった。
「なんで今頃!現れているんだよ、てめえは!!」
「・・・・・・・・・・・・っ」
 あたしは目を閉じた。でも逃げたら駄目だと思い、まっすぐに奏を見つめた。何を言えばいいのか一瞬分からなくなっていた。でも、どうしても言わなければならないことがあった。
「ご、ごめんなさい・・・・・・」
 まずは謝らなければならなかった。だけど、奏はそんな言葉聞いていないかもしれなかった。
「俺は! おまえが嫌いだと言ったはずだ!」
「嫌いでも・・・嫌いでもいいです。でも、あたしは違う。ごめんなさい、嫌いなんて嘘です、本当は・・・・・・」
 蓋が開いていたピアノが乱暴にあたしの言葉を消した。奏の音だった。あたしはこんな音を知らない。奏の音は繊細で優しくて力強くて・・・、こんな乱暴で悲しみを散らせた音は知らない。奏の音じゃないみたいだと思って、間違っているのはあたしだと思った。
 これも奏の音だった。あたしが知ろうとしなかっただけで、奏の弱さや悲しさを表している、確かに奏の傷だった。
「あたし・・・、あたしは、先輩の音が好きです。例えそれが今のような音でも、あたしは構わない。好きなのは変わらないです。それが先輩の音だっていうのは変わらないし、あたしはそれでも好きだよ。だから・・・」
 自分でも何を言っているのか分からなかった。恥ずかしいほど「好き」と言った気がしたけれど、別によかった。これ以上奏が傷つかずにすむのなら、あたしは何度でも言える。
 いつの間にか溢れ出ていた涙で顔がぐちゃぐちゃになっていたかもしれない。だけど、隠さずにあたしは奏を見つめた。奏は予想外のことを言われて驚いたのか、あたしを呆然と睨んだまま見ていた。
 奏の傷を、あたしが全部引き受けたかった。あたしがつけた傷も、それ以外の傷も。
「あたし、先輩の音が好きだって言ったでしょ? それって全部を褒められみたいだって先輩、言ったよね? あたしはとっくに褒めているし認めているよ。先輩の全て、あたしは受け止められる」
 ただ必死に言葉をつなげた。奏はゆっくりと鍵盤から指を離した。
「先輩が音をキープしていなくたって、自然体でいればあたしが先輩を見つけるよ」
 その言葉でがたっと音を立てて奏は立ち上がった。ふらふらと力がなかった。でも、今のあたしには何をすればいいのか分からなくて、目を伏せた。
「だから・・・、これからも無理をしないで、ピアノを続けてください」
 少し冷静さを取り戻して、あたしは先輩に頭を下げて、背を向けてドアのノブに手をかけた。そのときだった。
 背後から包み込むような温もりに襲われた。
「・・・・・・先輩?」
 後ろから、奏があたしを抱きしめたのだ。
「先輩、どうしたの?」
「・・・存在価値、分からなくなっていた」
 あたしの耳元で、弱々しく奏は言った。先刻のような剣幕はもう消え失せていた。
「誰にも認められないと思っていた・・・。ピアノだけが俺じゃないし、俺だって人並みの感情あるし・・・、音だけですべてを語ることは出来ないのに・・・」
「うん・・・・・・」
 あたしはそのまま静かにうなずく。音だけじゃない、奏は人間だ。ちゃんと生きている。背中に鼓動を感じる。生きている、人間なのに。あたしは奏の音しか見ていなかったかもしれない。自分をひどく嫌悪した。奏の音を好きだと、はっきりと言ってしまった。悪い言葉ではなかったにしろ、少なからず知らないうちに奏を傷つけたと思うと心が痛んだ。
 奏の言うとおり、奏の全てを好きだと素直に言えたらいいのに。
 あたしたちは同じ痛みを抱えていたのだと知る。無駄に騒ぎ立てないで欲しいという思い。あたしたちは有名になるためにピアノを弾いているのではない、音楽を心から愛しているだけなのだ。
「本当の俺を知っても、おまえはまだ嫌わないのか・・・?」
「嫌うなんて、そんなはずないよ。今更、そんなこと出来ない。だから先輩はありのままでいればいいよ」
 心が荒んでいるというのなら、あたしも一緒だった。あたしも全然綺麗な心を持っていなかった。周りの人間と何も変わらない普通の人間で、生身で生きていた。
 でも、あたしは奏のすべてを理解したかった。夢世界のように、無限の空間を願った。ここはあたしの居場所だから。
「親が・・・、母親が泣くんだ。どうしてそんな音なのって・・・、俺の事情よりも俺の音に耳を傾けるし、俺の目じゃなくて俺の指を見るんだ・・・。実の息子に向かって・・・、俺じゃなくて音を・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 この人は、あたしが思っていたよりもずっと、ずっと寂しく生きていたのかもしれない。たった一人で、小さな世界で叫んでいたのかもしれない。奏の事情はあたしにも分からないけれど、これからはあたしが傍にいたいと思った。
 あたしは体を回転させて、奏を前からちゃんと抱きしめた。奏の体は華奢に見えてもちゃんと男の人で大きくて、でも離さないように力を込めて抱きしめた。
「あたしが、先輩と同じ世界にいるって・・・、自惚れたら駄目かな・・・」
 奏の顔を見ないで、言葉で伝えた。
「先輩の夢はまだ終わっていないんだよ。まだ諦めないで頑張って。あたしが傍に、いるから・・・」
 あたしもまだ全然強くなくて、苦しいこと多いけれど、奏がいれば耐えていけると思った。その存在ひとつで、それだけの価値があった。奏が悩む必要なんてないと、どうやったらこの気持ち伝えられるのか分からなくて、ただ抱きしめるしかなくて、もどかしさを覚えた。
 傍にいてもらえるだけで強くなれる。
「おまえは・・・、もう大丈夫なのか?」
 怪我をしていたあたしの指にそっと触れて、奏は言った。あたしはうなずいた。奏はあたしの肩に顔を乗せた。
「ごめん・・・、俺も嫌いなんて嘘言った。俺はおまえの音を潰すことなんて出来ない・・・、守ることしか考えていない・・・。もう俺の傍からいなくなるな、絶対」
 震える声から奏の涙を感じた。しばらくの間、あたしたちは静かに抱きしめ合っていた。

     
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