つまらない最終回ドラマが流れている。やっと結ばれたのね、愛しているよ、愛しているわ。ありきたりな科白に吐き気がしても、あたしはテレビを消す気力すらなくソファに体重を預けたままぼんやりとしていた、午後九時四十七分。 時間の流れが恐ろしく早いというのはきっとこんなとき。現実逃避をすればするほど、あたしは時間に迫られて追われてしまうのだろう。ドラマの最終回を華々しく飾る、現在十二月中旬。あと少しでクリスマスのせいか、コマーシャルではクリスマス特番やクリスマスバーゲンについて流れている。 「ただいまー・・・」 玄関から声がした。あづさだった。あたしはあづさに駆け寄る。 「お帰り、お姉ちゃん。今日、あたし曲を作っていたんだけど・・・」 「邪魔だから退いて」 久しぶりに会うあづさと話がしたくて、声をかけたあたしにあづさは冷たく言い放った。 「・・・・・・・・・、・・・ごめん」 あたしは生唾を飲んで、あづさから距離を置いた。急に優しくなったり、あたしを突き放したり、浮き沈みの激しい人だった。 塾帰りのあづさ、少し痩せたかもしれなかった。そういえば母がセンター試験も一ヶ月切ったのよと言っていた。センター試験とやらがどんなものか、あたしには分からないけれど。受験生にとって、この時期は大変なのかもしれなかった。特に、あたしみたいに堕落している人間を見れば腹が立って当然なのかもしれない。そう思って、今は諦めるしかなかった。
あたしは相変わらず、作曲に没頭している生活を送っている。週に四、五回は、先生の時間の空いている昼間にレッスンに行っていた。通常ならばそんなことは不可能だけれど、あたしは先生のお気に入りでそれなりの成績を持っていたので例外として許可されていた。 おかげで、今までに作ったことのないほどの大曲が完成しそうだった。場面数は五、ピアノ曲であるのがもったいないと先生は笑ったけれど、ピアノしか楽器を扱えないあたしには別に不満はない。ベートーベンだってシューベルトだって、たくさんのピアノ曲を残したのだ。 「なんだか、この曲は悲しく聞こえる」 ある日のレッスンで、先生は物悲しそうに言った。 「・・・・・・悲しい?」 「うん、聴き手によって変わるかもしれないけれど、私にはそう聞こえるわ」 「・・・・・・・・・」 先生のその言い方は、まるであたし自身が悲しい人だと言っているようだった。あたしは首を横に振った。 「先生、あたしは別に悲しくなんかないです」 「・・・優ちゃん?」 「悲しくないから、早く、早く曲を完成させなくちゃ・・・・・・」 こんなに狭い、グランドピアノで埋められるような部屋のなかでも、時間はあたしを許してくれない。早く完成させないと、あたしは一生この中途半端な曲に未練を持ったままでいる。これはけじめだった。 先生は哀れむ瞳であたしを見ていた。あたしは耐え切れず先生から目を逸らして鍵盤を見つめた。 ―――夢世界。 キーワードは、もう、すぐそこに。あたしの居場所。あたしが求めているもの。あたしが生きる意味。すべてが含まれれば、きっと。 あたしはペンを握って、楽譜に走らせた。
奏に会わなくなって二ヵ月以上が経っている。計算して驚いた。こんなに長い間離れていても平気な自分に驚いた。 ・・・違う、平気なんかじゃない。でも今は、平気とか平気じゃないとか、そんな問題ではなかった。奏にはもう二度と会えないのだ。それなのに、何度言い聞かせてもあたしはその言葉の意味を理解できずにいた。もう二度と? そんなの嘘だと自分に笑った。 あたしはマフラーに顔をうずめて歩いた。生き急いでいるように街を行き交う人々さえをもうらやましかった。あたしだけが時間に取り残されているように思った。 コートに手を突っ込んで、電車に間に合うようにあたしは早足で歩く。どんなに早く歩いても、時間はあたしを待っていてはくれない。これからどうするの。・・・そんなの分からない。自問自答しながら、泣きそうになる。 千尋の言葉を思い出した。―――いつか、ちゃんと学校に行けるの? このままじゃ一生無理だと思った。臆病風にあたしは殺されそうになっているから。でも、それで済むはずがない。中学校も通えずに卒業できないあたしを、社会は拾ってくれるだろうか。・・・考えるだけ損な話だ。いくらあたしが子供でも答えはノーだと分かる。社会はそんなに甘い場所ではない。だから人々は必死にもがいて生きているのに。 じゃあ、どうしてあたしはこんなところで立ち尽くしている? なぜあたしは必死に生きていない? いつからあたしはこんなに弱くなった。 あんなに自分は強いと信じていたのに。奏の存在ひとつでこんなに崩れ堕ちてしまった、そんな自分に今更気づいた。自分からこんな状況を作り出しておいて、勝手だと思うけれど、でも。 やっぱりあたしは奏がいないと生きていけないのだと。
電車から降りて、力なく家へ向かって歩いていると、真っ暗な空の下の街灯が照らされているなか、家の前に人影を見た。 「おかえり」 その影があたしに向かって言った。聞き覚えのあるその声にあたしは目を見開く。 「今までピアノのレッスンだったんだ?」 あたしの家の門に寄りかかりながら、わざと明るい声を出して、言っている。 「・・・何しているの、佳苗」 あたしは口を開いた。久しぶりの相手に向かって。彼女に会うのも二ヵ月以上ぶりだと思った。 「優ちゃんどうしているかなって思って、様子見に来たんだ。元気なの?」 「まあね」 あたしも佳苗に訊ねたいことがいくつかあった。クラスのみんなはどうしているの、とか。『保本優』という人物は学校の中でどうなっているの、とか。 奏は今何をしているのだろうって。 でも、佳苗の口から出た答えは、あたしの想像を絶するものだった。 「あのね、あまり優ちゃんに言いたくなかったけれど・・・、言わなきゃいけないこと、あるの・・・」 緊張気味の声で、あたしの目をしっかりと捕らえて佳苗は言う。 「何?」 「あ、あのね・・・、桐川センパイが・・・」 科白の中の固有名詞に、あたしは鋭く反応してしまった。自分の中の未練の大きさに、呆れを感じながら、あたしはそれを隠せずにいた。 「先輩が、どうしたの?」 「荒れているの」 一瞬、あたしの周りにある空気が止まったように感じた。 「・・・荒れているって、・・・何、何があったの」 「私も詳しくは分からないんだけど・・・、最近喧嘩沙汰がしょっちゅうで、三年になってからそんなことは一度もなかったのに、また昔の噂みたいに、問題ばかり起こしているって・・・」 「まだ噂なんて信じているの? 先輩はそんな人じゃないって言っているのに」 「優ちゃんは知らないからだよ!」 佳苗は必死に叫んだ。 「・・・私たちも知らなかったけれど・・・、それなのに噂なんかで騒いで悪かったって思うけれど、でも今のセンパイは誰が見ても怖いよ。荒れているよ。少なくとも優ちゃんが知っているセンパイじゃないよ」 「・・・・・・・・・」 あたしは唇を噛んだ。何やってんのって思った。奏も、あたしも。 「それ、いつから」 「え?」 「先輩がおかしくなったのって、いつから?」 「・・・優ちゃんが、休み始めたときから。その直後、文化祭前に一回揉め事起こしているって」 あたしは口許を押さえた。足がガタガタ震えた。うまく立っていられなかった。だって。 ―――あたしのせいだった。 当たり前だった。奏があたしのあんな酷い科白で傷つかないはずがなかった。あたしのせいだった。奏の痛みを、あたしは放っておいてこんな安全な場所でひとりでのうのうと暮らしていた。二ヶ月以上も。 佳苗はそんなあたしから目を離さないまま、再び言った。 「それからね」 「まだ何かあるの?」 「うん・・・、優ちゃんはセンパイが音高受けるって知っていた?」 「え? あ、うん・・・、知っていたけれど」 奏からのその告白を初めて聞いたのはあたしだった。こんな大事なことをどうして佳苗が知っているのか疑問に思っていると、 「最近、そんな問題が多くて、せっかく決まっていた推薦枠から外されてしまったって」 佳苗が容赦なく言い切った。 心臓が止まるかと思った。奏の夢が、音が潰されたようだった。あたしの指が壊れるよりも、あたしが殺されるよりも、ずっと怖くて悲しいことだった。 「・・・優ちゃん、私思ったんだけど」 静かに佳苗はつぶやいた。 「今までセンパイは、三年に上がってから一度も問題を起こさなかったんだって。なのに、優ちゃんが学校を休み始めたから、昔のようになっちゃったんだって。私は、・・・優ちゃんが関係しているんじゃないかなって、思ったんだ」 「・・・・・・・・・関係、しているよ」 あたしは両手で顔を押さえて、弱々しくつぶやいた。 「だって、先輩を傷つけたのはあたしだもん・・・」 「じゃあ・・・、センパイを元に戻せるのも、優ちゃんだよね?」 「・・・・・・何っ」 そんな言い方! あたしは佳苗を睨んだ。 「元に戻すとか、戻さないとか、先輩はそんな存在じゃないよ!」 「・・・じゃあ、どうするの。このまま放っておくの? センパイが音高に入れなくなってもいいの? このまま荒れ続けていてもいいの?それは、優ちゃんの望んでいること?」 佳苗がずばりと的確に言う。それはとても乱暴な言葉だったけれど、あたしを黙らせるには充分な威力があった。 黙ったあたしを見て、佳苗はひとつため息をついてから、諭すように言う。 「・・・優ちゃんがセンパイに対して何を思っているのか、少し見れば分かったよ。だって、私は優ちゃんの友達だよ?」 「・・・・・・・・・・・・」 「それに、校内新聞の記事で、楽器店でのデートの写真があったでしょ?その写真で、センパイ、笑っているの。私も、きっと他の人たちも、センパイがあんな風に笑っているところなんて見たことがないよ。だから、きっとセンパイも・・・」 「やめて」 あたしは短く佳苗の科白を遮った。 「・・・もうあたしは先輩に嫌われたの。妙な期待を持たせないで」 「いつまで意地を張っているの? 私はセンパイと面識ないし、センパイが何を考えているかなんて分からないし、でも、優ちゃんがいれば変われると思ったから・・・。・・・ごめん、余計な口出ししたかもしれないけれど・・・」 思わず佳苗の瞳を覗き込むと、潤んでいるように見えた。あたりは真っ暗だけど、街灯で光って見えた。あたしはたまらなくなる。 「じゃあ・・・、あたしはどうすればいいの」 「学校に行こう?」 あたしの問いに、佳苗は待ちきれなかったように答えた。 「学校に行こうよ。一緒に、行こう? 辛いのは分かる・・・、私も、酷く当たって悪かったよ、ごめんね。でも今の優ちゃんも全然強くないよ」 図星であることを、佳苗は何の飾りもなく言って、 「優ちゃんがいないと、寂しいよ」 そう言い残して、佳苗は走って行ってしまった。 学校に・・・? 口の中で呟いた。そんな選択肢があったことをいつの間にか忘れていた気がした。 タイムリミット。時間切れなのだと思った。 あたしを嫌いで、あたしの音なんかすぐに潰せると言ったときの奏の顔を思い出せない。ものすごい威圧感で、あたしを追い詰めている表情を想像していたけれど、本当はとても傷ついているのだとしたら。―――奏は今どこで何をしているのだろう。 あたしが責任とらなければならないと思った。
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