どれくらいの時間を無駄に過ごしてきたのだろう。 家の外に出て、久しぶりに太陽を直に浴びて、ああもう十一月末になっているんだと気付いた。太陽は眩しいのに、肌寒い。もっと厚着をすればよかったと思ったけれど、引き返す時間がないので、そのまま駅に向かって歩く。駅の近くにはすでにイルミネーションが飾られていた、そんな季節だった。 あたしは楽譜を入れたトートバッグを持って電車に乗った。あたしのようなどこから見ても中学生にしかみえない娘がこんな時間に私服で電車にいるのは目立っていた。ときどき送られる蔑まれた視線。このようなものには慣れていた。学校で名前も知られているよりはずっとマシだった。あたしは何も悪いことはしていない。
ようやくあたしはピアノを弾くことを再び始めた。 まずは曲を作ろうと思った。そうすれば明日も明後日もこれからもずっと、どうにかして生きてゆけると思った。あたしはあたしのために、曲を作ろう。 キーワードは夢世界。これはタイトルではなく、あたしが音を引き出すときのキーワードだった。見えないからこそ想像できる、そして音に出来る。 いくらあたしが作曲が得意だからといっても、試行錯誤の繰り返し。弾いては楽譜に書き殴り、もう一度弾いてはどっちが綺麗か自分の耳で確かめてまた楽譜に音符を書く。 昔から楽譜を書くのは嫌いだったけれど、作曲をするには必要な技術だった。もっとも、幼い頃はすべて耳で暗譜できたけれど、今は昔ほどの記憶力もないし、作る曲も昔よりずっと複雑になっているから仕方ない。 その楽譜も鞄に入れている。あたしはピアノ教室であるビルの前に立ったとき、大きく深呼吸をした。コンクール落選して、一度音を失って。でもあたしはここまで来ることが出来た。もう会えない人にもう一度感謝する。 奏の存在はあたしにとって何だったのか、今も分からない。だけど、こうして誰が見ても堕落している日々を送っているような毎日のなかで、必ず一日に一度は奏を思い出す。会いたいとも思うし会いたくないとも思う。そして、その後必ずあたしは自分の吐いた科白の酷さと罪にもがいてしまう。それが嫌だから思い出したくないのに・・・、なぜか奏を思い出すと一瞬幸福に満ちそうになる自分に気づく。だから思うことを止められない。 あたしはビルに入っていき、エレベーターに乗って教室に入った。もう玉島先生は来ていて、グランドピアノの椅子に座っていた。 「ああ、優ちゃん」 あたしがドアを開けると、以前と変わらない笑顔で先生は笑う。 「久しぶりね、元気?」 「うん」 短く答え、あたしは先生が座っていた椅子へと座り、先生はその横のパイプ椅子に座る。 「最近は作曲ばかりやっていたけれど」 「もう弾けるようになったのね」 「おかげさまで。リハビリとか、したし」 もう包帯の巻かれていない指で、あたしは鍵盤に触れる。最近は曲を作ることのためだけにピアノに触っていた。 「じゃあ、弾いてみて?」 「うん」 「タイトルは?」 「決まっていない。でも、キーワードは夢世界」 「・・・・・・夢世界?」 先生は不思議そうにその単語を口にした。全くの他人が言葉にすると違和感を覚えた。 「聴いていて」 あたしは先生に言って、まだ完全に楽譜に書かれてもいないメロディーの世界を繰り広げた。胸の痛みと幸福感。ふたつが交叉的にこの音を支配する。あたしの中で溢れ出るモノ。それは決して綺麗なモノではないけれど。 ―――夢世界。 人は弱いからだとあづさは言う。あたしもそう思う。だって、こうやってメロディーをかなでる今でさえもあたしは自分の居場所を求めている。 夢世界を知ったとき、あたしは涙が出そうになったのだ。あたしにしか出来ないこの音の創作と、この世でたったひとりのあたしという存在の意味。それを思うだけで、あたしはまだ弾いていけると思ったのだ。 「優ちゃんの曲にしては、めずらしく綺麗だよね」 あたしが出来たところまで弾くと、先生がほっと感心したようにつぶやいた。 「そうかな。中身はドロドロだよ」 そう言うと、先生は苦笑する。先生はあたしが学校へ行っていない理由を聞かない。今はそれがとても嬉しかった。 それから先生は、和音のことや場面のつなぎ方など細かい指導をしてくれた。 「先生、ピアノの先生になった理由が生きがいだったからって、先生言っていたでしょ?」 唐突にあたしが言うと、先生はきょとんとしてあたしを見た。 「あのね、あたしも見つけたよ。あたし、曲を作るのが好きだって、気付いたよ」 「そう・・・・・・」 先生は微笑んだ。そんなこと以前から知っていたよという風に笑っていた。 あたしよりもあたしのことを知っている人だった。先生があたしのことを分かってくれる人でよかった。
長い間レッスンの教室にいたので、帰りは夕方になる。制服の人々が笑い合いながら下校している時間だった。 ちょっとしたコンプレックスがあたしの中で生まれる。あの人たちとあたしと何が違うのだろうと思う。本当は何も変わらない。なのに、あたしはこんなにも堕ちてしまっている。どこからやり直せばいいのかもう分からない。出来るなら、あたしがピアノを習い始める前からやり直したかった。そして、もう二度とピアノに触れない人生を送りたかった。だけど。 そしたら奏とは会うこともなかったのだ。それなら、今のままでもいいのかなと勘違いする。こんなに傷ついているのも確かなのに。 こんな生活がいつまでも続くとは思えない。時期に両親もあたしに気にかけるようになるだろう。いくら放任主義だからって、娘がこんなに堕落しているのを知れば、多少は口出しするかもしれない。もしかしたら学校が放っておかないかもしれない。 あたしは空を見上げた。美しいほどに真っ赤な夕焼け。明日も晴れるだろう。そう思いながらぼんやり帰りの電車に乗るための駅に向かって歩いていたときだった。 「優?」 誰かに呼ばれて振り向いた。懐かしい声だった。振り返ると、この辺りの中学の制服を着ている少女が二人、あたしを見ていた。 一瞬、あたしの思考回路が止まり、そして、声を上げた。 「あっ!! すっごい久しぶりじゃん?」 「ね? 私たち、いつから会ってなかったっけ?」 本当に久しぶりだった。昔のピアノ仲間。まだエレクトーンでアンサンブルをしていた頃の友達。幼稚園時代に基礎科過程を終了してから、小学校に上がるのと同時にあたしたちは専門科に入り、四年もの間一緒に弾き続けてきた。誰よりも音楽を愛していた。 「優、元気?」 スカートが短い方の、千尋が笑う。 「優ちゃん変わってないなー。相変わらずオーラが目立っているよ?」 背が低いほうの絵梨が、さっきと同じ笑顔で微笑んだ。 たった三人であたしたちはエレクトーンを弾いていた。最後に弾いたドボルザークの『新世界より』は、今も胸で鳴っている。辛いこともたくさんあったけれど、みんなで一つのものを作る達成感は、何よりも充実していた。 あたしは二人とは違う小学校だったから、グループが解散してから会っていなかった。二年半くらいの再会だ。 「二人とも、学校の帰りなんだ?」 「うん、優ちゃんは学校なかったんだ?」 絵梨があたしの私服を見て、言った。 「ええと・・・、あのね、あたし今学校に行っていなくて・・・」 力なく笑いながら、あたしは二人を見た。そんなことで軽蔑するような人たちじゃないと分かっていたけれど、少し怖かった。 二人とも心配そうにあたしを見る。 「大丈夫なの? 優って有名なんじゃないの?」 千尋は鋭く、指摘する。 「まあ、それなりに・・・。しかもなぜか小学校のときより知名度あがっちゃって・・・」 「それってやばいんじゃない?」 「でも、大丈夫。・・・今、あたし曲を作っているんだ」 「そういえば、優ちゃんは作曲が得意だったもんね。即興のプロだったし!」 絵梨も心配しているのを隠さずに言う。 「・・・・・・でも」 千尋が重々しく口を開いた。 「いつか、ちゃんと学校に行けるの?」 「・・・・・・・・・・・・」 痛いところを突かれてしまった。あたしが今最も思い悩んでいる議題。不安になるから考えないようにしてきたのに。あたしは二人から目を逸らした。 「・・・・・・学校のみんなから『保本優』の存在が消えたら、ちゃんと行くよ」 「うん・・・・・・」 千尋は多少疑いながらも、静かにうなずいた。 「頑張ろうね」 絵梨はそう言った。頑張って、ではなく、頑張ろうと。 「ありがとう、・・・・・・またね」 「うん、バイバイ」 「元気でね」 二人はそう言って手を振って、背を向けていってしまった。今度いつ会えるか分からないのに「またね」ってすごく勇気がいる言葉だった。だけどあたしは躊躇わずに言った。 こんなに真剣に心配してくれる友達がいることを、あたしは幸せに思う。 いつかちゃんと。 そんな日が本当に来るのだろうか。自信がない。だけど、このまま逃げていたって何も掴めない。 時間が刻々と過ぎていく、この瞬間さえ恐怖だった。
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