7 これ以上の墜落はない(後)


  生きていく目的なんてないのに
  こんな冷めた気持ちのまま
  わたしはどこへ向かっているのだろう。
  どうしてわたしは生きているのだろう。

  ただひとつ、わたしの救い、無限の空間
  ―――夢世界



 指の怪我はだいぶ良くなったものの、まだ完治していない。そのためピアノを弾くことは出来なかった。
 学校を休み続けても親は何も言わなかった。放任主義なのだ。あづさからも何か言ったのかもしれない。何が正しいなんて分からないけれど、きっと強制的に学校に行っても、あたしは途中で倒れていたかもしれない、そんな気がする。本能的に、学校のある方向にすら身体を向けたくない。
 今まで学校へ行っていた昼間は暇だった。それでもってピアノは弾けない。夕方までごろごろしていたけれど、不意にあたしはピアノの隣に行かれた棚を整理しようと思い立った。
 その棚にはあたしや姉が使った楽譜が無造作に並べられている。練習曲に至っては今まで自分が何を弾いてきたのかなんていちいち覚えていない。だからブルグミュラーやソナチネの楽譜などを見ると、とてつもなく懐かしい気持ちになる。
 その楽譜を取り出して並べていると、どこかからか一枚のフロッピーディスクが滑り落ちた。
「何、これ・・・?」
 あたしはピアノの横に置いてある電子ピアノの電源をつけて、フロッピーを差し込んでみた。スタートボタンを押すと、ピアノにはない色々な音色が溢れてきた。
「ただいま・・・。・・・・・・何してるの、優」
 学校から帰ってきたあづさがあたしを見た。
「・・・懐かしいの、聞いてるね。どうしたの」
「あ・・・、ごめん。棚を整理してて、これ何のフロッピーかなって・・・」
 切ないメロディー。もしかしてこの曲は・・・。
「これ、お姉ちゃんが作ったの?」
 あづさが昔、多重録音にハマっていたことを思い出した。ちょうどピアノを弾かなくなったころの話だ。
「・・・まあね」
 罰が悪そうな顔で、あづさが答えた。あたしがずっと聴いていると、
「夢世界・・・」
ぽつりとあづさがつぶやいた。
「え?」
「タイトルは、『夢世界』っていうの。昔、そのタイトルで小説を書いて、ついでに音もつけてみたんだけど」
「・・・・・・小説?」
 あたしは少し驚いて、あづさを見た。あづさは俯いた。
「・・・あんたに作曲という手段があるように、わたしには、わたしなりの手段が、あったんだよ」
「手段って?」
「切り札。生きるための」
―――だから人の心には居場所が必要なんだよ。
 突然、昔のあづさの言葉を思い出した。まだあたしは幼くてその意味を理解できなかったけれど。
 今なら分かる。居場所を持つ大切さ。今ではあたしはそれを失くしてしまった。
 流れ出てくる電子音。ふとあたしはそのメロディーに気づいた。
「このメロディー・・・、聴いたことある・・・」
 あたしが言うと、あづさは隣で罰が悪そうに顔をゆがめた。
「だって・・・、これはもともと優が作ったモチーフだもん」
「・・・あたしが?」
「うん、確実に優が作ったの。優が小学一年のときに、でも、その頃優はコンクールで入賞して、不安定で、優が捨てたんだよこのモチーフを」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 訳が分からず、あたしはただ呆然とあづさを見つめた。
「捨てる、なんてあたし、そんなことした?」
「したよ。わたし、悲しかった。なんでそんなことするのかなって。才能の醍醐味? わたしにはそんな才能ないから、すごく卑屈になったり、したよ・・・。羨ましかったし、悔しかった・・・。今の優も、あの頃に少し似ているよね」
 口調とは裏腹に、まっすぐではっきりとしたその視線はあたしを貫き通すようで、とっさにあたしは包帯を巻いてある指を隠した。だけどあづさのほうが行動が早かった。
「どうして弾かないの?」
 めざとくあづさは問う。
「・・・どうしてって?」
「その怪我・・・、もう治っているんでしょ?」
「完治してないだけだよ」
 胸がキリキリする。分かっている、分かっているのだ本当は。でもまだ気付きたくない。ピアノの鍵盤を見ると、とてつもなく悲しい感情が込み上げてきて、今のあたしはまだそれに耐えられない。何かを失うことでこんなに揺れ動く気持ちなんて知らなかった。知らないままでいたかった。
「優、大好きよ?」
 驚くほどまっすぐな言葉で、その言葉に恥じる暇すらなかった。あづさの瞳は潤んで、光が揺れていた。
「それで、あんたのピアノ、大好きよ?嫉妬に狂ってしまいそうなほどにね。弾きたくないなら弾かなければいい。でも、弾きたいなら、弾いて。・・・だって」
 あたしの頭がその科白の意味を理解するよりも早く、あづさは言った。
 ―――それがあんたの生きがいでしょ?


 生きがいって何? そんなことを思った。玉島先生の口からも聞いたことのある単語だったけれど、あの時も意味がよく分からなかった。
 でも今のあたしには満ち足りていないものなのだろうと感づいた。世の中をうまく渡っていて、いつも平穏に笑っていられる人々には満ちているのだろうか。
 一瞬そう考えて、それも違うと考え直す。
 何かが足りない。それはメロディーのように、ひとつ作ればまた溢れ出して止まらない。それが一生涯続くとしたら、生きることはなんて悲しいのだろうと、それだけであたしは涙ぐみそうになる。
 あたしより五歳年上のあづさは、それすらももう悟ってしまったのだろうか。だから時々瞳はあんなに弱く光り、不完全なままでいるのだろうか。
 分からない。
 昼下がりの部屋は、太陽で明るいのにどこか寂しい。静寂が漂っていて、それもまたその感情を引き出しているようだった。
 あたしは裸足で廊下に出た。一階のリビングに行こうと考えたが、ピアノを見たくないがために変更して逆方向に身体を向けた。その先にはあづさの部屋がある。
 こんなにあづさに興味を持つなんて、自分でも驚いている。たった数日前までは、他人よりもずっと遠い存在だと思っていたのに、紛れもなくあづさはあたしの姉だった。絶対に引き合わないと思ったこともあったけれど、そうじゃなかった。家族だった。NとSのように、まったく異なる性格だけど引き合っていた。
 あたしはあづさの部屋のドアを開け、少し中を覗いてから思い切って足を前に進めた。
 南に面しているその部屋はあたしの部屋よりもさらに明るくて、白いレースカーテンが眩しかった。
 本棚には小説と漫画が詰まっていて、机の横の棚には難しそうな高校の教科書や大学受験用の問題集がいくつも並んでいる。ふと机の上を見ると、ピンク色の、まとめ売りされているような安っぽいノートが無造作に置いてあった。表紙の右下に小さく『夢世界』と書いてある。
「あ」
 あたしは思わずつぶやいた。聞き覚えある単語だった。あたしは覚悟を決めて、そのノートを開いた。決して上手いとは言えない字が並んでいた。ノート二冊分、ぎっしりと。

  ただひとつ、わたしの救い、無限の空間
  ―――夢世界

 読み終わった瞬間、あたしはバタバタと足音を立てて、一階の電子ピアノの前に立った。つい先ほどまでピアノを見たくないって思っていたのに、そんなことはもう関係なかった。もう一度、あのフロッピーを差し込んでメロディーを聴く。
 確かにこれはあたしが作ったメロディーかもしれない。だけど、もうあたしの曲じゃない。決して音楽性が高いとは言えないけれど、あづさの想いが込められた、あづさの曲だった。
 本を読むことが苦手なあたしは、あまりあづさの小説を理解していない。だけど、何故か涙が出た。生きがいって。
 ―――ふと思い出したときに、泣き笑いしたくなるような、せつなくて尊いモノなんだ。
「あたしの生きがいって、何かな・・・」
 電子ピアノから流れてくるメロディーに身を預けるように、あたしは床に座って、椅子を抱きしめるように寄りかかった。
 こんな墜落ばかりしていく生活を自ら選んで送っているようなあたしに言えるモノでもないのかもしれない。だけど、はっきりと言葉にしておきたかった。そうでもしないと、あたしは明日を生きていく覚悟すらなくなってしまいそうだった。
「ピアノを弾くこと・・・・・・?」
 ・・・では、なくて。こんなに簡単なことだったんだと、あたしはさらに涙を流す。
「曲を作ること、だったんだ」
 即興のプロだと昔の友達に言われるほどに、あたしはメロディーを作るのが好きで好きでたまらなかった。即興はもちろん、長い時間をかけて構想を練って音楽を作るのも大好きで。あたしの感情を一緒くたにしてメロディーに乗せて無邪気に遊んでいた。
 奏と一緒に連弾した日のことを思い出した。まだあれから二ヶ月も経っていなかった。なのに遠い昔のことのように思った。本当に楽しかった。今はもう取り戻せない時間。
 あたしは涙を拭った。戦えないわけじゃない。弱くもない。あたしが望んだ姿はこんなものではない。たとえ奏がいなくたって、あたしはあたしなりに前を向かなくては。


 体中に力がみなぎるような気がした。生きがいという、ただひとつの単語を見つけただけなのに。
 あたしはそのまま電話があるところまで歩き、受話器を取り上げた。覚えている番号をプッシュする。
『もしもし? 優ちゃん? どうしたの、こんな時間に。学校は?』 繋がった携帯電話の主の声を聞いて、あたしは激しく安堵する。
「先生、あたし、今ものすごく曲を作りたいの」
 あたしが言うと、電話の相手の玉島先生は困ったようにため息をついた。
 なんて思われたっていい、あたしは今曲を作りたい。ピアノを弾きたい。それは決して奏を意識するのではなく。
 自分のために。


 ようやく墜落から解放されようとしていた。

     
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