7 これ以上の墜落はない(前)


 電子音が鳴って、あたしは薄れかけていた意識を取り戻し、目を開ける。体温計を取って見てみると、
「三十八度七分・・・」
 これでは起き上がることさえ出来ない自分に合点がいく。よかった、あたしの怠慢のせいではない。たとえどんなにあたしが学校へ行きたくないと望んだとしても。
「優、お母さん仕事に行くけれど、大丈夫?」
「うん、大丈夫。寝てれば治るよ」
 心配してあたしの部屋を覗く母に、あたしはベッドの中から手を振った。母はあたしの怪我もあざも知っている。少しは感づいているのかもしれない。何も言わないのは、怖くて訊けないからであって。母が強い人じゃなくてよかったとあたしは思う。でもそれを遺伝されていたら嫌だとも思った。
 明日は文化祭だ。でもきっとあたしの風邪は治らない。そして、行く必要もない。その覚悟すらなくなってしまった。
 ―――嫌いなおまえの音を、俺は潰すことだって出来るんだぜ?
 発作的に思い出して、あたしはベッドの中で寒気を覚えて身震いをする。奏の声が鳴っている。応えたくても、もうあたしは何も出来ない。
 怖い人だと思った。あたしなんかじゃ太刀打ちできないくらい怖くて・・・。
 でも。
 本当は違うって知っている。奏をそこまで怒らせたのはあたしなのだ。あたしは指に巻かれた包帯を眺めた。
 どうしてあたしはあんなに酷い科白を言えたのだろう。奏がいなければ生きていけないって本気で信じていたのに、あたしはこの怪我のせいで奏を排除したくなった。その一瞬をあたしは死ぬほど後悔する。
 涙が出た。あたしはベッドに顔を押し付けて、違う、あたしは泣いてなんかいないと自分に言い聞かせた。本当に悲しいのはきっと奏の心であって、あたしは加害者だ。泣ける資格なんてどこにもない。
 熱のせいなのか、涙は止まらなかった。


 いつの間にか眠っていたらしい。今が何時かも分からない。遠くで「ただいまー」という声がした。自分にとても似ている声だった。
「優、大丈夫ー?」
 あたしの部屋のドアを開けたその本人は。
「シュークリーム、買ってきたから、食べない?」
 ・・・あたしは目を疑った。―――あたしのたったひとりの姉。制服姿のあづさだった。笑顔で手に持った箱をあたしに見せた。
「・・・・・・食べる」
 あたしはそれだけを答えて、ベッドから出た。
「大丈夫? 歩ける?」
「うん、熱下がったし」
 この目の前の人は誰だろう。あづさが笑っているなんて。そしてあたしに話しかけるなんて、この数年を考えたらありえない出来事だ。
「お姉ちゃん、何かあったの?」
「え、なんで?」
 あづさの科白にあたしは言葉を失う。訊き返す、その理由が分からない。あづさだって気付いていないはずがない、あたしたちはこの数年間まともに話していなかったではないか。
「それより、優のほうが、何かあったでしょ?」
 今になって急に、夏休みのCコンクールの朝を思い出した。あたしの音を変だとあづさは言っていた。そのときのあたしは、あづさはまだ音を聞き分けられるんだとしか思わなかったけれど。
 考え方を変えれば、あづさはあたしを見ていたということで。
 コーヒー淹れているあづさを、あたしは黙ったまま見ていた。
「・・・優?」
 あたしの視線に気づいたのか、あづさは優しく問う。
「何か・・・ならあったけれど」
 あたしは先ほどの質問に答えた。けれど何、と自分で思った。結局あたしはやっぱり誰にも話せない事情を抱え込んでいる。
「話したくないなら、話さなくていいよ。でも、そんなんじゃ疲れない? わたし、別に誰にも言わないよ?」
 あづさはソファに座って言った。箱に入っているシュークリームを皿に乗せた。あたしはそのシュークリームを一口かじった。熱のせいで味覚がおかしくなっているけれど、その甘みは心地よかった。
「どうしてそんなに優しくするの? お姉ちゃん、今まであたしと話そうとしなかったよね」
 直接あづさの科白には答えずに、思ったことをそのまま言った。あづさは驚きもせず、瞬きを数回して、また口を開いた。
「優の力になりたいって、思ったんだよ」
「どうして急に?」
「急じゃない。だって、わたし・・・、きっかけが掴めなくて・・・、優のこと大好きよ?今までこんな風に出来なくて、この機会を利用しているんだよ」
 あづさは真剣な目で言った。あづさのこんな目を見るのは初めてだと思った。いつも、どこを向いているのか分からない眼差しで、ときどき弱く光っていたから。
「ねえ。優、わたしに幻滅、した?」
「・・・・・・・・・よく分からないよ」
 奏との年齢差を気にしたこともあったけれど、それ以上である五歳も年上のあづさの言葉に何が含まれているのか、まだ幼いあたしには理解できなかった。
 あづさは、分からなくていいよと笑った。
 お互い姉妹のくせに、話す話題もなくて沈黙が走る。ただ黙々とシュークリームを食べて、コーヒーを飲んだ。
 今は十月。もしかしたらセンター試験というヤツまで百日を切っているかもしれない。それを思い出して、あたしはあづさを見た。
「お姉ちゃんって、将来何になるの」
「どうしたの、突然」
 あづさは残りのコーヒーを飲み干して、そしてあたしに向かって言った。
「保母さん、かな」
「・・・子供嫌いなのに?」
「嫌いじゃないよ。好きでもないけれど」
 あづさは淡々と言うけれど。あたしは全くあづさの言う意味が分からない。全く別の、異世界に居る気がした。
「優がいたから、わたしは、子供ってどんなものなのか、一般の高校生よりは知っているつもりだし」
 あづさ独特の口調で、ゆっくりと話す。マグカップが恐ろしく似合う人間だと思った。そして俯いたときに見え隠れする、あづさの姉らしい笑顔。あたしには持っていないもの。もともと顔は似ていないと周囲に言われているけれど。
 将来のことを考えている、あづさも普通の人間だと思った。それまで、あたしにとってあづさという存在は計りしれないもので、どこか普通じゃないように思っていた。
 ―――俺さ、音高を受けようと思う。
 夢の話。あづさなんかよりずっと普通じゃない人間の言葉。
 ぷっつりとどこかがはじけ飛んだように、またあたしの目から涙が溢れた。今朝もずっと泣いていたくせに、いつになったら涙は枯れ果てるのだろう。
「優・・・・・・?」
 あづさは驚いたように、泣くあたしを覗き見た。
「大丈夫・・・?」
「ごめん・・・・・・、大丈夫・・・、なんでもない・・・」
 あたしは慌てて傍にあったティッシュをとって、ごしごし目元をこするけれど、次から次へと涙が止まらない。あたしはこんなに泣く人間ではなかったのに。
「優は、我慢、しすぎなんだよ」
 奏と同じような科白を、あづさは言った。
「たまには、甘えたり、わがまま言ったり、すればいいんじゃない?」
 その科白がとても優しくて、言われなくてもあたしはあづさに全身を預けたい気持ちになる。はじけるように、飛び出した言葉。
「もう学校に行きたくない・・・・・・っ!!」
 奏を失った世界でどう戦えばいいのか分からない。
 戦えるなんて嘘だ。結局あたしだって、あの女三人と同じ、不安でたまらなくて叫ばないと気がすまない。誰かを傷つけないと分からない。あのときのあたし、どうして戦えるなんて自信があったの。当たり前に奏を自分のモノだと思っていた。
 それなら、この指の痛みはずっと続いてほしいと思う。ピアノなんて弾けなくていい。これが戒めなら、あたしはそれを受け入れたい。もう二度と奏に会えないということは、そういうことだった。
「嫌なら、距離を置いてもいいんじゃない」
 あづさの科白が支えになる。今まで話す時間がなかっただけで、奏と出会う前もずっと、あづさはあたしの音を理解してくれていたのだ。

     
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