幸せな時間が凶器になる。
今となってはもう当たり前の日常で、今さら嫌気を指さないでいる自分にも驚くけれど、その日もあたしは朝からたくさんの視線を浴びた。コンクール落選を知らされたときと同じような、痛くて針のような視線。 学習能力もそれなりに備わっているあたしは、少し考え込んで、上履きに履き替えたあと掲示板の前に行ってみた。案の定人だかりになっている。 そして、衝撃的な見出しがあたしの目に飛び込んできた。 『保本優と桐川奏が楽器屋で堂々デート』 その下には、ご丁寧に楽器店内であたしたちが連弾している写真も載せられていた。いつの間に撮られていたんだろう。こんなプライバシーもかけらもないことに怒りを感じた。 連弾しているあたし、とても楽しそうに笑っていた。あたしあんな顔できるんだって自分のことなのに、すごく驚いた。 「おまえって笑えるんだなー」 名前も知らない男子があたしの顔を見てにやにや笑っている。あたしは睨み返した。おまえだなんて、奏以外に呼んで欲しくない。 興味津々なこの人の中から逃げようとあたしが教室に走り出したとき、 「優ちゃん!」 いつの間に立っていたのか、佳苗が呼んだ。
「どうしたの」 人の少ない階段の踊り場で、あたしたちは向かい合った。あたしはまだ教室に入っていないので鞄をもっているままだ。 「私こそ訊きたい。どうしたの優ちゃん」 佳苗は厳しい声であたしに言った。 「いつの間に桐川センパイと知り合っていたの? 桐川センパイの・・・、噂、知っているでしょ? 今は受験生だし落ち着いているみたいだけれど、昔は暴力沙汰が絶えなかったって。知らないわけないよね? そんな人と、どうして一緒にいるの」 「・・・・・・・・・・・・」 久しぶりに話す佳苗は、しっかりクラスの空気に包まれていて、昔と変わってしまったように思った。いい意味でも悪い意味でも。 「・・・・・・先輩はそんな人じゃないよ」 「どうしてそう言いきれるの?前科があるんだよ?」 「だってあたしは・・・、先輩と一緒にピアノを楽しんでいるだけだよ」 「昼休みに、教室から抜け出して?」 ・・・抜け出すってそんな、やましいことしていないのに。あたしは自分の気持ちをうまく伝えられなくてもどかしさを覚える。 「優ちゃん、変わったよね。私、昔は優ちゃんのことなんでも分かっているって思っていたけれど、今は何考えているか分からない。わざとクラスから離れようとしていると思ったら、こんなところで・・・、桐川センパイと一緒に、いるし・・・」 「変わったならお互い様だよ」 あたしは冷めた声で言った。もう何を言っても通じないと思った。非があるのはきっとあたしだ。だけど、そもそもあたしがクラスを疎遠に感じたのは、学校が無意味にあたしを騒ぎ立てるからじゃないか。 世界が違う。佳苗の姿さえぼやけて見える。あたしは病気かもしれない。こんなときまで騒がれて、あたしのせいで奏まで記事に載ってしまった。今はそれだけを申し訳なく思う。 「・・・もうすぐチャイムなるね。教室に、戻ろうか」 佳苗はあたしを一瞥して、先に歩いて行った。教室は、確かにあたしの行くべき場所ではあるけれど、戻る場所ではないと、佳苗の背を眺めながら思った。あたしの居場所は他にあるのだと信じたかった。 それでも、また奏に会えない。 自分に非がないことは分かっている。だけど、こんな風に騒がれてしまうのは、いくらあたしだって心が痛む。あたしは平気なんて嘘だし、それよりももっと怖いのが、奏に拒絶されることだった。きっと奏も嫌だと思っているに違いなかった。
英語の時間の前に起こった突然の出来事。 あたしは机の横にかかっている鞄から英単語帳を取り出そうとした。英単語の小テストがあるのだ。しかし見当たらない。 「あれ・・・・・・?」 あたしが鞄の中を掻き回して探していると、どこからか嘲笑のようなものが聞こえた。本来気付くべきではなかった。だけど耳のいいあたしには聞こえてしまった。 ―――隠されたのだ。 憤りを感じながらもあたしは嘆息した。なんてくだらないことをするのだろうと、その気持ちは唖然へと変わる。普段たいして勉強していないあたしが単語帳なんて隠されても、それほど支障はない。 ここで泣いたりしたら、それこそ相手の思うツボだ。あたしは冷静に机に座っていた。ただ時間が過ぎるのを静かに待った。
それからも、教科書を隠されるのは日常茶飯事のことになった。必ずと言っていいほど、授業の前にその時間に使う教科書が紛失するのだ。そして、終わったら出てくる。時には油性ペンで落書きされていることもあった。それでも、あたしは絶対に負けを認めないと思った。あたしは悪くない。あたしは簡単に誰にも殺されない、そんな自信があった。 たとえ奏に会えなくても。その音を思うだけで、あたしは生きていけると思った。 次の時間の体育のために、あたしはロッカーに向かった。生憎この学校のロッカーには鍵がついていない。それに気付いたのが遅かった。嫌な予感がして、あたしはロッカーを開けると、 「・・・・・・・・・・・・」 中が荒らされていた。ちゃんと立てておいたスケッチブックは不自然にページが開かれていて、ところどころ紙が折れている。箱にしまっておいた絵の具は、全部バラバラに転がっていて、中には蓋が開いていて絵の具がロッカーを汚しているのもあった。書道で使う半紙も、もう使えないくらいにぐちゃぐちゃに丸められていた。そして・・・、袋にたたんで入れておいた体操服は、雑巾として使ったとしか思えないほど薄黒く汚れていた。 あたしは瞬きも忘れて、唇を噛んだ。クラスメートはもう更衣室に行っているせいで教室には誰もいない、それだけが救いだった。 あたしは負けないのに。 頬に涙が伝う。どうしてどうしてどうして・・・! その単語だけがあたしの頭の中でぐるぐる回っていた。 あたしは荒らされたロッカーの中を片ずけて、二度とされないように、全部鞄のなかに突っ込んだ。絵の具も書道道具も体操服も。でも今日は体操服は使えない。 「・・・この汚れ、落ちるかな」 ぼそりとつぶやいたけれど、どうにかしなければと鞄の中に突っ込んで、今日は仮病を使うことを決める。 泣いていられない。泣いていられない。あたしはまだ戦えるのだ。あたしは涙を止めるように、震える胸を押さえて思い切り唾を飲み込んだ。
こんなことで音は壊れない。奏のおかげでせっかくあたしは音を取り戻したのだ。簡単に手放さない。奏の科白は今もあたしの胸で響いていた。 『昔よりいい感じじゃん?』 奏がお世辞を言うなんて思えない。だからあたしは信じるしかない。一度失った音は戻らないけれど、だからこそこの音こそ最強だと。 奏に会えなくなって二週間。文化祭まで一週間を切った。合唱の曲の練習はもう始まっているし、あたしもその練習で何回かピアノを弾いた。先生に褒められたけれど、騒ぎ立てている生徒たちはあたしの音に耳も傾けない。第一音楽室の冷たいピアノ椅子に座りながらこれが現実なのだと思った。 音楽の時間が終わると昼休みだ。みんなそれぞれ仲間で喋りながら歩いているなか、あたしはひとりで重い足取りで教室へ向かう。この長い休み時間が一番苦痛だった。今まで第三音楽室で過ごしていた時間を、この敵だらけの教室で過ごさなければならないのだ。しかし、敵はクラスメートだけではなかった。 「あんたが保本優だよね?」 下を向いていたから分からなかった。急に視界が暗くなったと思ったら、目の前に三人の女子が立ちはだかっていた。バッヂは奏と同じ、三年生を表していた。 「・・・・・・・・・そうですけれど」 「ちょっと顔貸してくれない」 時代錯誤の科白を堂々と吐き、リーダー格の女があたしの手を掴んだ。周りのクラスメートがあたしを見ている。助けるどころか、これから何が起こるのか楽しそうに笑っている。 「・・・ここではなんなので、場所変えませんか」 あたしがリーダーを見て言うと、リーダーは馬鹿にしたように笑った。 「あんた、立場分かっているの? そう言ったこと後悔するんじゃないよ」 手を引っ張られて、あたしは屋上まで連れていかれた。奏にも強く握られて痛かった経験あるけれど、それよりも嫌な痛みが神経を走った。
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