楽器店でお店の人に睨まれるまで遊んで、そして気が済んだらあたしたちは外に出た。空は陽気に晴れている。九月だけどまだ夏日のように暑かった。でも時折あたしたちの間を吹き抜ける風が涼しく感じて、これが冷たくなったらあたしはきっと寂しくなるだろうと思った。 「昼飯、食うか?」 「うん」 あたしたちは並んで歩く。適度な距離を保って。・・・当たり前だけれど、風なんか通らないほどにくっついていたい、なんて、どうしてあたしは贅沢な悩みを抱えているのだろう。 「・・・どうかしたか?」 「ううん、なんでもない」 顔が赤いのは暑いせいだ。あたしは汗でうなじにまとわりつく髪を払うように掻きあげた。
結局土曜日の昼時は、遊びに出てきている若者や部活帰りの学生、そして家族連れなので混んでいたので、あたしたちはファーストフード店でハンバーガーやジュースをテイクアウトし、駅から少し歩いたところにある大きな公園のベンチに座った。 「すげーいい天気。もう九月も中旬なのに寒くないしな」 奏は空を仰ぐように見た。あたしは隣で奏の横顔を見つめた。音楽室のは蛍光灯で見る奏とは違う、太陽を浴びた奏のはいつもに増して、整った顔立ちを魅せていた。 「先輩、食べようよ。いただきまーす」 あたしは手を合わせて、袋の中からハンバーガーを取り出す。 緑に囲まれた公園もやはり平日より混んでいて、主に親子連れが多かった。季節が季節だからだろうか、シートを敷いてお弁当を食べている姿は微笑ましくもあった。 風が吹くたびに木々がさわさわと音を立てる。そしていくつかの葉が風によって泳ぐように舞って落ちていく。 「音楽みたいだな」 お互い食べ終わった後、あたしが何も言わないうちに、奏が横でポツリと言った。 「・・・え?」 「風の音。すごく耳に染みるものがある」 「そう、そうだね、あたしも今そう思っていたんだけど」 以心伝心だと少し傲慢になって奏を見ると、奏はあたしに笑った。嫌な笑い方じゃなかった。 「おまえ、本当にすげえよ」 「何が?」 「ピアノ。天才じゃねえか」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 違うよってどうして言えないんだろう。奏は確信を突いたように言うけれど、あたしは意気込んだコンクールも落ちてしまうような人間なのに。 「・・・今コンクールのこと考えただろ?」 更に奏は追い詰めてくる。そして続けた。 「だからさ、そんなの関係ないって。その曲との相性とか、本番に強いかどうかとか、それだけで実力を測ろうとすること自体が間違っているぜ。おまえは、世間が認めた力よりもずっと・・・、ずっとすごいモノを持っている」 「・・・・・・先輩、買いかぶりすぎたよ」 あたしが力なくつぶやくと、奏は少しあたしを睨んだ。そして、馬鹿にしたように顔を歪めた。 「この俺が? 買いかぶる? ・・・冗談! 俺はそんなまわりくどいことしねえよ。だって、俺は・・・。俺さ、保本優の話を噂で初めて聞いたとき、潰そうと思った。どうせ大した力も持っていないのにもてはやされているだけの奴だと勝手に決めていたから。・・・・・・今までもそうやって、気に入らない奴の音、潰してきたから。・・・けれど」 潰す?それがどんなことか分からなかった。でもあたしは訊かずにいた。怖かったから。けど最後まであたしは口を開かない。 「保本優の音は怖いもの知らずで気に入ったんだよ」 奏の言っている意味も、自分の音がどのように奏の鼓膜で響いているのかも分からないまま、あたしは奏を見た。でも単純だけれど、嬉しかった。 「先輩のほうがすごいのにね」 あたしが言うと、奏は今更驚いたようにあたしを見た。 「先輩の音はね・・・・・・」 言いながら、あたし何言っているんだろうと耳が熱くなる。せっかく穏やかにいられた心臓も、ここにピアノがないのにもかかわらず、また早撃ちしていて死にそうになっている。 「・・・何だよ?」 「あのね、先輩の音は、純粋で澄んでいて・・・、あたしに出せない力強さとか持っていて・・・」 あたしは深呼吸した。これを言わなくちゃ意味がないと思った。次にいつこんなふうにゆっくりと奏と一緒に過ごせるかどうか分からないのだから。 「そういうの、すごく好きだよ」 奏はあっけにとられたようにあたしをまじまじと見ていた。 「すげー告白」 「告白、になるのかな」 「音を褒められるのって、自分自身を褒められた気がする」 一瞬奏の言った意味を掴めなくて、あたしはワンテンポ遅れて声をあげた。 「あっ・・・」 「反応遅いって。しかもなんで顔赤いんだよ?」 「先輩が変なこと言うからでしょ?」 奏と言い合いながら、どうしてあたしは奏とこんなふうになったのだろうと思った。それはとても喜ばしいことだし嬉しいことだけれど、この距離感だけはどうにもならないと知っていた。奏はあたしより二つも年上で、十三歳と十五歳の歳の差は大きかった。どうしてあたしは奏と同じ年に生まれなかったのだろう。そしたらもっと、もっと自然に奏と仲良くなれたのに。 くだらない言い争いに奏は嫌になったのか飽きたのか、急にあたしの手を掴んだ。 「何・・・・・・?」 あたしは驚いて、言おうとしていた言葉をすべて飲み込んでしまった。 「俺さ、音高を受けようと思う」 突然の奏の告白に、あたしは一瞬ためらった。 「・・・音高って、音楽高校、だよね?」 「それ以外何があるんだよ?」 奏は笑う。奏の手の力が強まった気がした。奏も緊張しているんだと思った。きっと、奏の決心を聞いたのはあたしが初めてだ。自然にそう思えてしまった。 「あ・・・、頑張ってください。先輩なら大丈夫だよ絶対」 「サンキュ」 奏ははにかんだように笑う。かすかな震えが手を伝って感じる。奏は、受験という一生を選択する覚悟を背負っている。のうのうと暮らしているあたしとは違う。微妙な世界のずれを感じて、あたしは少し寂しくなる。ますます歳の差を感じてしまった。 あたしが何も言えずに俯いていると、奏は囁くように言った。 「おまえの手、小さいな」 「・・・先輩が大きいんだよ」 「でも指長いよな。細いし、こんな指でよくあんな狂った音出せるよな」 「・・・あたし狂ってる?」 「ある意味な。あんなモノかなでて、正常でいられるところがもうおかしい」 そう言いながら、奏はゆっくりとあたしの手を触れ続けていた。 真昼の、こんな明るくて人もたくさんいる場所で、何をやっているのだろう。この人は場所も選ばない人なのだと思った。でも嫌じゃなかった。こんなことでまた頭がくらくらするような自分も、あたしを翻弄するような奏も、嫌いじゃないと思った。 奏の手は本当に大きくて、指が綺麗だった。初めて触れたその印象は、思ったよりゴツゴツしていると思った。あたしには備えられていないもの。男の手。男の音。自分にないのが悔しくて、でもあたしの代わりにずっと音をかなでて欲しいと願った。
夕方になるまであたしたちは他愛のないことを話して、そして午後五時、あたしは家に帰った。 ピアノを弾けるようになった。あたしは嬉しくて、家のピアノに触れてみた。音が鳴る。音が回る。あたしはまた弾ける。 文化祭のことを考えると、まだ心が痛む。だけど全校生徒に音を聴いてもらえる絶好のチャンスだ。音高を受けると言った奏を思い出した。頑張ろうと決めた。 あたしの手には、まだ奏の手の温もりというお守りがついている。
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