4 鼓動が高鳴る(後)


 バタン、とドアの音がしたとき、初めてあたしは自分が泣いていたことに気づいた。そして目をこすってみると、自分が連れてこられた場所が第三音楽室であることを知った。そして、目の前に、・・・奏がいた。
「おまえ、何してんだ?」
 もう一度、同じことを奏は訊く。
「何かあったんだろ」
 知っているくせに、とあたしも相変わらず素直になれないでいる。奏のやり方はとても酷いと思った。
「言ってみろよ」
 あたしは首を横に振った。どうせ言ったって何も分かってもらえない。呆れられているのなら、もう見放されたほうがマシだった。
「・・・じゃあ、弾けよ。おまえが今溜め込んでいるモノを全部、ぶちまけてしまえよ。一時間目はサボりだ」
 無理やりピアノの椅子に座らされる。あたしは涙を拭った手で蓋を開けて、鍵盤を触った。初めて触るかのように、恐る恐るドの音を押してみる。
「・・・・・・・・・」
 音が、まわらない。
 何も弾けない。あたしはもう一度ドを弾いてみる。ポーンと曖昧に響いただけのつまらないただの雑音。これがピアノの音なんて思えなくて、あたしは訴えるように奏を見た。
「―――・・・・・・おまえ、下手だな」
 吐き捨てるように奏は言った。これだけピアノを弾き合って、初めて言われた科白だった。
「本当の音ってのは、もっと・・・・・・っ」
 すごく難しいこと言っている。昔のあたしならきっと分かった。奏の言うことも音も理解できたのに、それを今はできないことがとても悔しくて、また涙が出てくる。
 奏は、本当の音のことを誰よりも知っていて好きでいる人だったのに。
「今まで俺に聴かせてきた音・・・、おまえ独特の音があるだろっ? 俺はその音でいいんだよ。おまえのあの音だけでいいのに・・・・・・、なんで出来ねえんだよ!?」
 怖いって思った。すごく怖かった。あたしはこんなに簡単に捨てられるのだと。・・・ついさっきまで見放されたいと思っていたのに、そんなの嘘だった。あたしはこの人に認められたくて仕方なかった。
 あたしと奏の繋がりは音楽だけだと、今思い知ったから。
 頭の中ではリズムが打たれていて、ただあたしは音が欲しかった。今までは当たり前のように溢れてきた音符たち。どこに行ったの。どうして出てこないの。もうあたしにはピアノを弾く能力すらないというの。
 急に、奏にはあたしには見えない世界が存在すると思った。
「・・・・・・先輩に会えなくて、寂しかったよ」
 か細い声で言うと、奏のオーラは拍子抜けかしたように急に和らいだ。
「な、なのに・・・、先輩と会う勇気、全然なくて・・・。あたしはこんなだし、強い自信も本当は全然ないし・・・、上手く生きられないし・・・、音が壊れているんだよ」
 破壊されてしまった。可哀相なあたしの音。あたしはそんなに強くない。ただ自分を守ることだけで精一杯で、人並みに傷つくし普通に泣いてしまうような、ただの中学生なのに。
「我慢しすぎなんじゃねぇの?」
 少しトーンを落とした声で、奏は静かに言った。
「うん・・・」
 秘密つくりすぎていた。こんなに信用できる人なのに。今だったら委ねられるのに。素直になれないで強がっていた。
 自分の音を保っているだけで精一杯だった。あたしは全然天才なんかじゃない。
「壊れる前に、言えよ」
「うん・・・」
「自分の音くらい、守れよ」
「・・・うん」
 奏は、優しい人。
 あたしのせいで一時間目をさぼらせてしまったし。だけど、そういうところがいいと思った。学校という場所の中でたったひとりの頼れる人。あたしに優しくしてくれるただひとりの人。
 だからあたしは奏の音が好きなのだ。
「先輩、あたし、今はむやみにピアノを弾かないほうがいいよね」
「・・・そうだな」
 奏は考えているようだった。
「壊れたモノは、もう戻らないから」
 ハイってあたしは答えた。ピアノの椅子に座って、奏を見上げたまま。
「でもさ・・・、ピアノ弾けるようになるまででも、ここに来いよ」
「・・・・・・こんなあたしでも、来ていいんだ」
 あたしが上目遣いで奏を見ると、奏ははにかむように笑った。肯定の合図。胸が、鼓動が高鳴った。


 ずっと欠席していたピアノのレッスンに、今日久しぶりにあたしは顔を出した。
 玉島先生は、最初あたしをみたとき複雑そうな顔をしたけれど、快く迎えてくれた。
「こんにちは。元気だった?」
「うん」
 お気に入りのオレンジのTシャツとデニムのスカートを履いたあたしは、機嫌よく笑った。
「優ちゃんはオレンジが似合うよね。好きなの?」
「うん、スキ」
 楽譜を取り出しながら、とりとめのない話をする。
「ねえ、先生」
「何?」
「どうして先生は、ピアノ講師になったの?」
 目線あわさずに聞いてみた。先生は少し笑って、なんでだろうとつぶやいた。
「・・・ピアノを弾くことを生きがいとしていたからかな」
「つらいこと、ないの?」
 先生と目が合った。先生はあたしの言葉に驚いたのか、黙ったまま何も言わないでいる。
「・・・・・・ごめんなさい」
 たった一言だけが胸の中に熱いくらい込み上げてきて、あたしはつぶやく。先生はあたしをじっと見ていた。
 本当はあたしも先生とおんなじで、辛くたって弾いていたい。ピアノを弾くことがとても好きなんです。自分を追い詰めたい弾き方見つけます。
 だからあたしは、強くなりたいと懇願する。途方もない願いだと分かっていても、ひとりで生きていかなきゃならないし。
「先生、あたしね、先生の言ったとおりだった。何のためにコンクール受けているのか分からなくなっていたの。でも・・・、これからはちゃんと見つける。あたし何のために弾いているのか考える。見つける。・・・周りの声も、気にしないようにします」
「優ちゃんの場合は、特殊だと思うわ。でも」
 悲しそうに、だけどはっきりと強い視線を向けて先生は言う。
「ちゃんと優ちゃんは、実力も伴っているのよ。だから騒がれてしまうかもしれないけれど、いつかほとぼりがおさまることを祈って、頑張ろう?」
「実力・・・あるのかな」
「何言っているの? なかったら騒がれないわ。優ちゃんにとったら過酷な状況だけれど、みんな認めているのよ」
 泣きそうになってあたしはうつむいた。そんなわけないと思ったけれど、それが先生の精一杯の慰め方なのだと思った。
 少なくとも、先生には認められているのだ。まだまだあたしは弾いていけるよね?
「もう逃げないです、あたし」
「うん」
「優勝とか、こだわらないつもりでこだわってて。そういう小さなプライドも、捨てます」
「時と場合によってはそのプライドが必要なときもあるけれどね。優ちゃんが周りの目を逸らそうと必死だった今回は、まずかったわよね」
 先生と約束して。あたしは椅子から立ち上がって、楽譜を鞄に入れた。
「じゃあ、あたしもう帰るね」
「え、レッスンは?」
「あたし、今はピアノ弾けないんです。また弾けるようになったら来ます。すみません」
「・・・・・・うん。分かった」
 一瞬先生は困った顔をしたけれど、分かってくれた。あたしはドアを閉めた。


 第三音楽室で、あたしは奏の言葉に耳を疑った。
「え・・・? 今なんて言ったの?」
「だから、週末にでも一緒にどこか行かねえかって」
 奏は淡々と言うけれど。この教室外でもほとんど会ったことないのに、学校の外で会うなんて想像できない。
「・・・・・・・・・なんで?」
「駅前にさ、新しい楽器店がオープンしたんだよ。せっかくだし、ちょっと触ってこないか?」
「・・・・・・先輩、受験大丈夫なの?」
「おまえは自分のこと心配しろよ」
 奏は苦笑する。あたしは、意味がよく分からなくて奏を見た。さっきからこの繰り返しのような気がする。
「ピアノのリハビリにもちょうどいいんじゃないのか?」
「・・・あたし、弾けるかな」
「弾こうぜ」
 弾けよ、じゃなくて。弾こうぜって奏は言う。
 なんだか今日はいつもの奏と違うのは気のせいだろうか。それともあたしの目が可笑しくなったのだろうか。胸がドキドキする。どうしよう、嬉しいなんて死んでも言えない。
「せっかく保本優として生きているんだからさ、鍵盤をぶっ叩いてみせろよ」
 奏の不敵な笑みさえ今は許せる。奏との初めてのデートに浮かれていた。

     
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