バタン、とドアの音がしたとき、初めてあたしは自分が泣いていたことに気づいた。そして目をこすってみると、自分が連れてこられた場所が第三音楽室であることを知った。そして、目の前に、・・・奏がいた。 「おまえ、何してんだ?」 もう一度、同じことを奏は訊く。 「何かあったんだろ」 知っているくせに、とあたしも相変わらず素直になれないでいる。奏のやり方はとても酷いと思った。 「言ってみろよ」 あたしは首を横に振った。どうせ言ったって何も分かってもらえない。呆れられているのなら、もう見放されたほうがマシだった。 「・・・じゃあ、弾けよ。おまえが今溜め込んでいるモノを全部、ぶちまけてしまえよ。一時間目はサボりだ」 無理やりピアノの椅子に座らされる。あたしは涙を拭った手で蓋を開けて、鍵盤を触った。初めて触るかのように、恐る恐るドの音を押してみる。 「・・・・・・・・・」 音が、まわらない。 何も弾けない。あたしはもう一度ドを弾いてみる。ポーンと曖昧に響いただけのつまらないただの雑音。これがピアノの音なんて思えなくて、あたしは訴えるように奏を見た。 「―――・・・・・・おまえ、下手だな」 吐き捨てるように奏は言った。これだけピアノを弾き合って、初めて言われた科白だった。 「本当の音ってのは、もっと・・・・・・っ」 すごく難しいこと言っている。昔のあたしならきっと分かった。奏の言うことも音も理解できたのに、それを今はできないことがとても悔しくて、また涙が出てくる。 奏は、本当の音のことを誰よりも知っていて好きでいる人だったのに。 「今まで俺に聴かせてきた音・・・、おまえ独特の音があるだろっ? 俺はその音でいいんだよ。おまえのあの音だけでいいのに・・・・・・、なんで出来ねえんだよ!?」 怖いって思った。すごく怖かった。あたしはこんなに簡単に捨てられるのだと。・・・ついさっきまで見放されたいと思っていたのに、そんなの嘘だった。あたしはこの人に認められたくて仕方なかった。 あたしと奏の繋がりは音楽だけだと、今思い知ったから。 頭の中ではリズムが打たれていて、ただあたしは音が欲しかった。今までは当たり前のように溢れてきた音符たち。どこに行ったの。どうして出てこないの。もうあたしにはピアノを弾く能力すらないというの。 急に、奏にはあたしには見えない世界が存在すると思った。 「・・・・・・先輩に会えなくて、寂しかったよ」 か細い声で言うと、奏のオーラは拍子抜けかしたように急に和らいだ。 「な、なのに・・・、先輩と会う勇気、全然なくて・・・。あたしはこんなだし、強い自信も本当は全然ないし・・・、上手く生きられないし・・・、音が壊れているんだよ」 破壊されてしまった。可哀相なあたしの音。あたしはそんなに強くない。ただ自分を守ることだけで精一杯で、人並みに傷つくし普通に泣いてしまうような、ただの中学生なのに。 「我慢しすぎなんじゃねぇの?」 少しトーンを落とした声で、奏は静かに言った。 「うん・・・」 秘密つくりすぎていた。こんなに信用できる人なのに。今だったら委ねられるのに。素直になれないで強がっていた。 自分の音を保っているだけで精一杯だった。あたしは全然天才なんかじゃない。 「壊れる前に、言えよ」 「うん・・・」 「自分の音くらい、守れよ」 「・・・うん」 奏は、優しい人。 あたしのせいで一時間目をさぼらせてしまったし。だけど、そういうところがいいと思った。学校という場所の中でたったひとりの頼れる人。あたしに優しくしてくれるただひとりの人。 だからあたしは奏の音が好きなのだ。 「先輩、あたし、今はむやみにピアノを弾かないほうがいいよね」 「・・・そうだな」 奏は考えているようだった。 「壊れたモノは、もう戻らないから」 ハイってあたしは答えた。ピアノの椅子に座って、奏を見上げたまま。 「でもさ・・・、ピアノ弾けるようになるまででも、ここに来いよ」 「・・・・・・こんなあたしでも、来ていいんだ」 あたしが上目遣いで奏を見ると、奏ははにかむように笑った。肯定の合図。胸が、鼓動が高鳴った。
ずっと欠席していたピアノのレッスンに、今日久しぶりにあたしは顔を出した。 玉島先生は、最初あたしをみたとき複雑そうな顔をしたけれど、快く迎えてくれた。 「こんにちは。元気だった?」 「うん」 お気に入りのオレンジのTシャツとデニムのスカートを履いたあたしは、機嫌よく笑った。 「優ちゃんはオレンジが似合うよね。好きなの?」 「うん、スキ」 楽譜を取り出しながら、とりとめのない話をする。 「ねえ、先生」 「何?」 「どうして先生は、ピアノ講師になったの?」 目線あわさずに聞いてみた。先生は少し笑って、なんでだろうとつぶやいた。 「・・・ピアノを弾くことを生きがいとしていたからかな」 「つらいこと、ないの?」 先生と目が合った。先生はあたしの言葉に驚いたのか、黙ったまま何も言わないでいる。 「・・・・・・ごめんなさい」 たった一言だけが胸の中に熱いくらい込み上げてきて、あたしはつぶやく。先生はあたしをじっと見ていた。 本当はあたしも先生とおんなじで、辛くたって弾いていたい。ピアノを弾くことがとても好きなんです。自分を追い詰めたい弾き方見つけます。 だからあたしは、強くなりたいと懇願する。途方もない願いだと分かっていても、ひとりで生きていかなきゃならないし。 「先生、あたしね、先生の言ったとおりだった。何のためにコンクール受けているのか分からなくなっていたの。でも・・・、これからはちゃんと見つける。あたし何のために弾いているのか考える。見つける。・・・周りの声も、気にしないようにします」 「優ちゃんの場合は、特殊だと思うわ。でも」 悲しそうに、だけどはっきりと強い視線を向けて先生は言う。 「ちゃんと優ちゃんは、実力も伴っているのよ。だから騒がれてしまうかもしれないけれど、いつかほとぼりがおさまることを祈って、頑張ろう?」 「実力・・・あるのかな」 「何言っているの? なかったら騒がれないわ。優ちゃんにとったら過酷な状況だけれど、みんな認めているのよ」 泣きそうになってあたしはうつむいた。そんなわけないと思ったけれど、それが先生の精一杯の慰め方なのだと思った。 少なくとも、先生には認められているのだ。まだまだあたしは弾いていけるよね? 「もう逃げないです、あたし」 「うん」 「優勝とか、こだわらないつもりでこだわってて。そういう小さなプライドも、捨てます」 「時と場合によってはそのプライドが必要なときもあるけれどね。優ちゃんが周りの目を逸らそうと必死だった今回は、まずかったわよね」 先生と約束して。あたしは椅子から立ち上がって、楽譜を鞄に入れた。 「じゃあ、あたしもう帰るね」 「え、レッスンは?」 「あたし、今はピアノ弾けないんです。また弾けるようになったら来ます。すみません」 「・・・・・・うん。分かった」 一瞬先生は困った顔をしたけれど、分かってくれた。あたしはドアを閉めた。
第三音楽室で、あたしは奏の言葉に耳を疑った。 「え・・・? 今なんて言ったの?」 「だから、週末にでも一緒にどこか行かねえかって」 奏は淡々と言うけれど。この教室外でもほとんど会ったことないのに、学校の外で会うなんて想像できない。 「・・・・・・・・・なんで?」 「駅前にさ、新しい楽器店がオープンしたんだよ。せっかくだし、ちょっと触ってこないか?」 「・・・・・・先輩、受験大丈夫なの?」 「おまえは自分のこと心配しろよ」 奏は苦笑する。あたしは、意味がよく分からなくて奏を見た。さっきからこの繰り返しのような気がする。 「ピアノのリハビリにもちょうどいいんじゃないのか?」 「・・・あたし、弾けるかな」 「弾こうぜ」 弾けよ、じゃなくて。弾こうぜって奏は言う。 なんだか今日はいつもの奏と違うのは気のせいだろうか。それともあたしの目が可笑しくなったのだろうか。胸がドキドキする。どうしよう、嬉しいなんて死んでも言えない。 「せっかく保本優として生きているんだからさ、鍵盤をぶっ叩いてみせろよ」 奏の不敵な笑みさえ今は許せる。奏との初めてのデートに浮かれていた。
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