窓の外では蝉がうるさく鳴いている。 あたしはシャープペンシルを放り投げた。それは床の上を無情に転がっていき、余計にあたしの神経を坂撫でる。舌打ちをしながらそれを拾い、国語の宿題に目を向けた。 学年トップだか何だか知らないけれど、あたしにもそれなりに苦手教科というものは存在する。それが国語だった。文章を読むのも嫌いだし、それを追求されるのはもっと嫌いだ。『そのときの主人公の気持ちを百字以内で述べなさい』なんていう問題を見たら、吐き気がする。おまえがあたしのこの気持ちを述べよと思ってしまう始末だ。 中学生の夏休みの宿題がこんなに多いとは思わなかった。これでも英語と数学は得意なので、さっさと終わらせてしまったけれど、国語はどうにもうまくいかない。問題を解く前に文章に詰まってしまう。終わらせたことといえば漢字の書き取りくらいだ。 あたしは机の上のカレンダーを見た。もう夏も終わろうとしている。担任からは残暑見舞いが届いた。外部とのつながりといえばそれだけで、あたしはずっと部屋に閉じこもって宿題したり、流行の音楽を聴いたりしている。 ピアノを弾かなくなって三週間くらい経つだろうか。
Cコンクールにはあっさりと落選してしまった。 本番中のあの不快感は忘れられない。べっとりと汗が手を滑らせ、あたしは思うように弾けなかった。大好きなショパンの曲だったのに。 別にあたしはコンクールに命をかけて生きているわけではないけれど、途方に暮れた。まずは学校の問題が何も解決しないことに気付いた。それどころかまた後ろ指を差されるのかと思うと、うんざりとしてくる。 そして・・・。奏はもう知っているのだろうか。あたしは奏が思うほどピアノが上手いわけではない。こんなにもあっさりと世間からはずされてしまうのだから。奏に会わせる顔がない。奏は名前は知られていなくても天才で、あたしは名前だけが有名で実力は持ってもいないただのマスコットだ。 昔もこんなことがあった。あたしは七歳だった。今との違いはコンクールの結果だけ。それ以外何も変わらないと思った。・・・本当はこの結果でずいぶん変わるのだろうけれど。 ピアノを弾いていない間はただの凡人であるあたしに、周りの目がまとわりついていた。あたしが何かを言おうとするたびに、否定された。ピアノで表現しろと笑われた。そんな自分が嫌であたしはコンクールと縁を切ったはずだったのに。 結局、あたしは何一つ変われないまま、夏を終わらせるのだ。
九月一日、始業式。 どうして休みは早く過ぎるのだろう。こんなに短いならば、きっとあたしの存在も消えていない。 あたしは重い足取りで学校へ向かった。ばれていると思った。もうとっくに。 奏はどう言うだろう。見たくない。会いたくない。あたしのことなんて忘れてほしかった。 昇降口で靴を履き替えていると、 「あ、保本さん。おはようございます」 あたしは呼び止められた。どこかで見たような気がしたけれど、久しぶりの学校でぼんやりとした頭では思い出せない。 「はい」 あたしは馬鹿みたいに二文字で応じる。 「朝からスミマセン。新聞部ですけれど」 「あ」 今になって急に自分の中にある不快感を思い出し、あたしは一歩下がる。 「な、何の用よ」 「あの、コンクール残念でしたね」 「・・・・・・・・・・・・」 あたしは奴らを睨みながら、じりじりと後ずさる。ガタっと音を立てて、あたしのかかとが下駄箱に当たった。これ以上逃げられない。 「な、なんのこと・・・」 「コメントをいただきたいのです。天才少女として、このことは衝撃でしたでしょうから」 「どうしてそんな・・・・・・」 あたしを追い詰めるようなことを。 もう終わりだと思った。全てが逆効果に終わってしまう。そしてあたしはまた顔と名前が知られ、また話題の対象にされる。そんなのはもう散々なのに。 隙を突いて、あたしは走って教室まで逃げた。 「保本さん!!」 呼ばれても止まってやるはずがない。知らない。コメントなんてない。 天才少女としてって言われた。一番皮肉がかかった、傷つく言い方だった。もうあたしは奏に会えない。
クラスは一学期と相変わらずで、あたしはどこか浮いていた。以前は何かあるごとにあたしに話しかけてくれていた佳苗も、今は昔ほど喋らずに他の女の子たちと話題に花を咲かせている。 そして翌日のことだった。あたしは登校してきて廊下を歩いていた。 「見て、保本優だよ。コンクール落ちたんだって」 「嘘―。天才少女っていうの、アレはデマだったわけ?」 「つーか、よく学校に顔出せるよね。恥ずかしくないのかな」 これまでとは違った目で見られている。馬鹿にされている。あたしは俯いた。 「新聞部がインタビューしてもノーコメントだって。当たり前かぁ」 「アタシらが代わりに訊いてみようか。保本サーン、なんでアナタが落ちてしまったんデスカーってね」 笑い声と共に、嫌な音が去ってはまた別の方向からやって来る。あたしは強いはずなのに、こんなことで顔もあげられないでいる。 強いという自信、今は全然なくて。あたしがあたしじゃないみたいで、情けないくらい弱い生き物になっている。 「保本優」 誰かが背後から声をかけてきて、あたしの肩を叩いた。「おまえ、何してんだ?」 目元が熱くなっていて、あたしは振り向いたけれど前が見えなくてそれが誰だか確認できない。 「・・・分かった。分かったから、俺について来いよ」 手首をぎゅっと強く握り締められて、少し痛かったけれど、あたしはその人について行った。 あたしは自分を守ることしか出来なかった。彼は、あたしを守るようにあたしの手を引っ張ってくれた。
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