3 偽りの自分(後)


「大丈夫なの?」
 よりによって、一番訊かれたくないことに気付いたのか、玉島先生は言った。
「・・・何が?」
「Cコンクール。日が経つにつれて優ちゃんの意気込みが見えなくなるわ」
「そんなこと・・・」
 ―――ないのに、と言えなかった。あたしは何も言えなくなって先生から目を逸らす。どうしてこの先生は、ただの生徒のひとりであるあたしにめざといのだろう。
「やっぱり無理なんじゃないの?」
「無理じゃない!!」
 狭いレッスン室の中であたしは叫んだ。先生は一瞬顔をしかめた。
「だって、私何のために優ちゃんがコンクールを受けようとしているのか、分からないのよ」
「お願い、先生。受けさせて。ちゃんと優勝する。昔みたいな失敗はしないよ」
 あたしだってもう何のために受けたいのかよく分からなかった。中学校という戦場のような場所で、自分という存在がいる場所を見つけたいのかなと少し思うけれど。それよりも今は奏の顔が思い浮かんだ。
「優ちゃん、あまり自分にプレッシャーかけないでね」
 レッスンが終わったとき、レッスン室から出て行こうとしたあたしに、先生は微笑んだ。


 学校に着くと、いつもよりも多くの生徒にじろじろ見られた。色々な目を現しているけれど、単に好奇心だけではないような気がして余計居心地が悪い。
「優ちゃん、おはよう」
 昇降口で佳苗に会った。
「ねえ、優ちゃんのことが新聞に載っているの」
 心配を表した目を向けて、佳苗が行った。
「新聞・・・?」
 あたしは急いで靴を履き替え、掲示板の場所へ行く。するとそこには校内新聞なる物が貼られていた。見出しは『ピアノの天才少女は秀才?』。悪趣味すぎる。あたしは毒づいた。
「うわ、ご本人登場かよ」
 横で男子があたしを見た。
「嫌味なんだよ。おとなしくしてろよ」
「ねえ、保本さんって何でも出来るんだねー。欠点ってあるのかなぁ?」
 あちこちで聞こえる言葉たち。佳苗があたしの袖を引っ張った。
「優ちゃん、教室に行こう?」
 佳苗に心配かけたくなくてあたしは微笑んでうなずいた。でも本当は、教室だってこの場所とはさほど変わりがないのだと知っていた。
 小学校の頃は一番仲良かった佳苗にも、あたしは正直に話せない。そんな自分がすごく嫌だった。


 もうすぐで夏休みだということが救いだった。夏休みになれば四十日間の休みがある。そこでみんながあたしを忘れてくれるまで、待つしかない。
 そして念願の終業式がやって来た。今日まで何とか過ごしてきた。出来るだけみんなの視界の中に自分が写らないように過ごした。そして、あの新聞が貼りだされてから奏に会っていなかった。奏にも周りと同じ目を向けられると想像しただけで苦しい。
 今日は雨が降っていた。あたしがいつものように下駄箱を開けると。
「・・・・・・・・・・・・」
 上履きがない。あたしはクラスの余って使われていない下駄箱を全部音をたてて開けてみる。
「ない・・・・・・」
 あたしはその場にしゃがみ込んだ。
 なんだろう。お腹の中に溜まっていくこの感情は。気分が悪くなってあたしは口許を手で押さえた。そしてのろのろと立ち上がった。
 上履きを忘れた生徒には、職員室に行けばスリッパを貸してもらえる。だけど、今は職員室に顔を出すことさえ屈辱に思えた。


 靴下でのまま歩くにはあまりにも目立ちすぎた。
 終業式だから全校生徒がいっせいに体育館に向かう。その度にあたしは周りにじろじろ見られた。しかも質が悪いことに、みんなあたしの名前を知っているのだ。そして、隙あらばと言う奴らがいるのだ。欠点なんてありすぎる。あたしは式の間涙が出そうになった。
 いつの間にあたしはこんなに格好悪くなってしまった?
 式が終わって、あたしたちは並んでぞろぞろと歩いていく。教室に着くまで、みんなは友達同士で笑い合っている。明日からの夏休みの予定を立てていたり、楽しそうに話している。もうあたしはあの中には入れない。去年までは確かにあたしも普通に小学校に通って、それなりに友達もいて、楽しく遊んでいたのに。
 靴下のまま歩いている足が痛んだ。ちゃんと掃除されていない廊下は細かいゴミがいくつ落ちているのだろうと思った。汚れているであろう靴下の裏を誰にも見られたくなくて、あたしは足を引きずるように歩いた。たまらなくなって列からはみ出して、ゆっくりと歩く。
 そのとき。
「保本優」
 一番聴きたくない声が聞こえて、あたしは思わず逃げそうになった。でもその行動は余計怪しいと思ったので、一度深呼吸してから振り返った。
「先輩・・・、音楽室以外で会ったのって初めてですね」
「っていうかおまえ、なんで最近来なかったんだ?」
「・・・行くのも行かないのもあたしの自由です」
 心にもないことを言う。奏の眉が少しつり上がったように見えて、あたしは一歩下がった。遠くで教室に戻る生徒たちの声が響いている。
「優秀であるための秘訣は『特になし』、勉強しないで学年トップって」
 あたしが一番嫌がるのを分かっているくせに、奏はあたしを睨んでつぶやいた。
「それ、マジなの?」
 あたしは奏を見ないように下を向いた。だから会いたくなかった。奏の言葉は尖っているくせに優しく感じる。どうしよう、思わず弱音をこぼしそうになる。
「そんなことどうでもいいでしょう・・・?」
 弱々しくつぶやくと、奏はため息をついた。
「もっと上手く生きれよ」
「そんな方法分からないです」
「っていうか、なんでおまえ上履き履いていないんだ?」
 奏の質問に頭が真っ白になった。何の言い訳も出来ない。こんな格好悪いあたしをこのひとに一番見られたくなかった。
 あたしは強いですから。奏に吐いた言葉を思い出す。だからここで泣いてはいけない。あたしは奏を見上げた。そのときだった。
「ねえ見て、保本優がいる! 隣に桐川くんも・・・?」
 廊下の向こう側で女子数人に見られていた。
「なんで桐川くんといるの〜?」
「やっぱアレじゃん? ピアノ上手い者同士、みたいな?」
 そんな科白があたしの耳に飛び込んでくる。あたしは慌てて奏を見た。
「あ・・・、あたし、教室に戻ります!!」
 奏の返事を聞く前にあたしは走り出した。早くその場から逃げ出したかった。
 今更気付いた。奏は女子に人気があるのだ。こんなことで、これ以上敵を作りたくなかった。
 走って教室に戻って、明日から夏休みだということを思い出した。これから四十日間も会えないなんて寂しいと、確かにあたしは思ったのだ。


 夏休みが始まればすぐにコンクールだ。あたしはずっとピアノを弾き続けた。幸いあづさは学校の補習や塾の夏期講習でほとんど家にいなかった。
 ピアノを弾いているときだけあたしは全てを忘れることが出来た。ショパンの譜面を見つめながら、悪い癖が出ないように弾いていく。今も鍵盤を見ると目が痛くなる。
 ピアノを弾いても、濁って聴こえた。あたしの音じゃないみたいだと思った。でもそれでも、弾き続けること以外に何も出来ずにいた。
 弾いても弾いても、満足しなかった。こんな音でいいのだろうか。余計な疑問を増やすばかりだった。


 八月上旬、蝉の声が聞こえる中で、あたしは玄関を出た。夏の太陽に目がくらんで、あたしは目を細める。
「コンクール、今日なんだ?」
 後ろから声がして、あたしはぎょっとして振り返った。あづさが立っていた。
「あ・・・、う、うん・・・」
「ふうん・・・。最近のあんたの音、少し変だと、わたし思うんだけど」
「・・・・・・・・・」
 予想外のあづさの科白にあたしは目を見開く。あづさには悪意が感じられないけれど。
「どうして今そんなこと言うの?」
「思ったこと言っただけだよ」
 あたしはあづさの顔を見たくなくて、ドアを閉めて駅まで走り出した。
 あづさはもうピアノをやめてしまったけれど、まだ聴く耳は持っているのだと思った。最近のあたしの音・・・。異常なことには気付いている。でももう引き返せない。
 コンクール会場に着いてもあたしの心は穏やかにはならなくて、あたしはベンチに座って今日弾く曲をウォークマンで聴いた。
 イヤホン越しで聞こえる音。
「おはようございまーす」
「よろしくお願いします」
「頑張ってねー」
 全てがあたしの耳に障った。音のぶつかり合いの隙間から聞こえてくる・・・噂、嘲笑い、視線。それらを振り払うようにあたしは目を閉じた。
 会場のロビーは冷房が効きすぎて寒いくらいなのに、手が汗ばんでいた。

     
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