3 偽りの自分(前)


 期末試験が終わって二日が経つ。あとは夏休みが始まるのを待つだけだ。
 朝、正面玄関から教室まで歩こうとしたとき、男女数人の生徒に囲まれた。
「すみません、保本さん、ですよね?」
「はあ・・・・・・・・・」
「突然すみません。ワタシたち新聞部は是非保本さんにインタビューに答えていただきたいんですが・・・・・・」
「新聞部?」
 あたしはしかめ面で彼らを一人ひとり見た。何か陰気臭い雰囲気が漂っている。ただのマニアックな集団か?
「あたしが何の質問に答えろっていうの」
「ワタシたちが質問することに答えていただければいいのです。時間もありませんし、さっそくいきましょう。保本さん、アナタは先日の期末試験を学年トップの成績でおさめたらしいじゃないですか」
「・・・・・・そうなの? そんなこと全然知らないけれど?」
「あ、ご存知ありませんでした? まあ、ワタシたちも先ほど入手した情報ですからねえ。では、今知ってからのその心境をお聞かせ下さい。それから、勉強のコツなどを!」
 あたしは唖然とした。新聞部ならその名に誇りを持って、こんなゴシップ記者のような真似事なんてするなよと思った。
「あんたたちに答える義理なんて、ひとつもない」
 彼らを睨みながらはっきりと言うと、彼らはあたしをさらに固く囲む。
「そんな、保本さん。ひとつくらい答えてくださいよー」
「何か答えないとここを通しませんよ!」
 登校してくる生徒が増えてくる。正面玄関の近くで、こんな集団がいたら目立つに決まっている。あたしは早くここから逃げたくて、ため息をついた。
「・・・コツなんてないよ。あたし勉強するの好きじゃないし。成績になんて興味もない。・・・これでいいでしょ? 早く通して」
 彼らがあたしの言ったことに呆然としている隙に、あたしは走って彼らの輪から抜けて走った。


「先輩、あたし今日新聞部に捕まりました」
 昼休みに奏に言うと、奏もしかめ面した。
「おまえ、目をつけられてるんじゃねぇの」
「・・・あたし何もしてないのに」
「いるだけで目立つってことだろ」
 奏は言う。そのとおりだったらとても嫌だとあたしは思った。
 じわじわとどこかに敵が潜んでいる、そんな気がする。敵ってなんなのか具体的には言えないけれど。でも、あたしを嫌っている人間とか。あたしを邪魔だと思っている人間とか。・・・あたし何もしていないのに。
「ピアノ、弾けよ」
 命令口調で奏はあたしに促した。あたしは静かにピアノの椅子に座る。
「・・・何を弾けばいいですか」
「そうだな・・・、じゃあ、Cコンクールの曲。バッハだったっけか? もう完成しているだろ?弾いてみろよ」
「バッハじゃないです。ショパンです」
 あたしは手のひらの感覚を思い出して、完成したばかりの曲を弾く。楽譜なんて覚えているわけない。でも、耳や指が覚えているから弾ける。それを日本語で暗譜と呼ばれている。
 ショパンの曲は好きだ。ひとつの物語調に浮き沈みの激しい曲。感情の揺れ動きが大きい曲。あたしに似ていると弾きながら思った。誰にも見せられない、生身の自分が確かに存在しているのだ。
「おまえさ、・・・何があった?」
 途中だというのに、無遠慮に奏は訊く。
「何って?」
 あたしも負けずに指を動かしながら訊き返した。
「とぼけんなよ。俺が気付かないとでも思ったのかよ。加えて新聞部なんかにひっかかりやがって・・・。もっと自分の状況把握しろよ」
 いっせいに奏の口から言葉が飛び出す。この人こんなに喋れるんだ、とあたしは密かに感心した。
「先輩に心配されるようなことはなにひとつないし」
 指を止めて、大きな声で奏を見据えて言った。
 逃げられないと思った。奏の目はあたしを捕らえている。その漆黒の瞳はどの人間のそれより怖い。でも絶対うなずいてなんてやらない。弱音なんて吐いてはいけない。
 濡れていたスニーカーを思い出した。その後も下駄箱を開けると中傷的な手紙を入れられていたことが数回あった。こんなこと・・・言えるはずがない。
 いつでも逃げられるように体勢を整える。今日はもうこの人の傍にいたくない。
「あたしは強いですから」
 そう言い放って、あたしはドアのノブに手をかけて、廊下を走って奏から逃げた。


 教室に戻りドアを開けると、教室内にいたクラスメートが全員いっせいにあたしを見た。
「優ちゃん、この前の期末テストが学年トップだったんだって!」
 クラスのリーダー格の女の子が高い声で言ってきた。
「ああ・・・・・・、今朝その話は聞いたけれど」
「すごいね! 本当に頭いいんだー!!」
「いつも何時間くらい勉強しているの?」
「高校はドコを目指しているのー?」
 あたしの成績をまるで自分のことのように喜んでいるクラスメートに口々に訊かれ、あたしは戸惑った。こんなとき佳苗は頼りになるのに、なぜかいない。
「あの・・・、ほんと、偶然だから・・・。ごめんね、席に座りたいの。もうすぐ授業始まるし、通して」
 あたしが興奮する人の間を通り、どうにか席に辿り着こうとしたそのとき。
「っていうかさぁ、うちのクラスの平均点上げられて、ちょっと迷惑だよねー」
 ざわめきの中でどこからかそんな声が聞こえて、あたしは振り返った。何の話って思った。
「・・・何よ、それ。あたしの成績が誰かに迷惑かけているわけないよ。平均点なんて些細な差でしょ。関係ないじゃん」
 あたしは大きな教室の中で静かに言った。急に静かになった教室の中で、やけに響いていた。
「それってキレイゴトでしょ。本当は自分のスバラシイ成績に浸っているんじゃないの」
「そんなの関係ない。あたしはそんなこと思わない。だいたい平均点の微妙な差を気にするあんたのほうが、人と比べて優越感を持ちたいだけでしょ?」
 気付いたらあたしの声はとても冷めていて、つい本心を言ってしまった。さっきまでニコニコしていた女の子たちの形相が変わる。
「・・・・・・保本、あんたまじムカつくよ」
 数人があたしを睨んでいる。あたしも睨み返した。
 そのとき、ドアが開き、さっきまでいなかった佳苗と、次の授業の先生が入ってきてその場はものすごく中途半端に終わってしまった。何も知らない佳苗は、空気の悪さに疑問を持ったようだったけれど、何も言わなかった。
 佳苗がいたら、もっと穏便にすませられたのだろうか。授業を聞きながら今になって思う。どうしてあたしはこんなに世渡りが下手なんだろう。


 奏に聞かせたショパンの曲。
 激しくなめらかに弾いてみる。コンクールは八月に行われる。あと一ヶ月。できるなら優勝したい。
 でも焦れば焦るほど、あたしは自分の音を見失いそうになっていた。白黒の鍵盤を見ると、目が痛かった。
 以前よりも練習しているのに、ピアノを弾くことへの情熱が欠けている自分に気づいた。弾いたり楽譜を見直したりしていると、音を立ててあづさがリビングに飛び込んできた。
「音が二階の部屋まで響くから、窓閉めてよ!」
 勉強に集中できない、とあづさは叫ぶ。あたしはゆっくりと振り返ってあづさを見た。
「・・・だって暑いから」
「クーラーかければいいじゃん!」
「え・・・、でも・・・」
 あたしが言い終わらないうちにあづさはリビングを出て行った。今になって、まだあづさの期末試験が終わっていないことに気付いた。しかも彼女は高校三年の受験生。怒るのも分かる気がして、あたしはため息をついた。でも怒らなくたっていいじゃない。
 本当はあたしはあづさを嫌いたくないのに。
 苦しさを感じながら、あたしはピアノの蓋を閉めた。どうせ今練習したって、こんな気分では意味がない。

     
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