2 咆哮が聞こえる(後)


 五月下旬に行われた中間試験が終了した。
「優ちゃん、数学どうだった?」
 試験が返ってきて、授業中がざわめくなか佳苗はこっそりあたしに耳打ちする。
「まあ、普通かな」
「優ちゃんの普通は良いってことだよね?」
 確かに何が普通で何が普通でないのかあたしはよく分からない。でもこの数学の試験の点数に納得しているし、あたしはこれが普通なのだ。第一、あたしは他人にあまり興味がないから他人と比べようという気はさらさらないし。
 だけど余計なことで目立ちたくない。あたしはさっさと答案用紙を机の中に突っ込んだ。


 予感は外れたのか、思ったよりも平穏に日々が流れ、季節は夏に入る前の梅雨に入った。毎日のように雨が降り、制服であるブラウスが湿気で肌にまとわりついて不快指数が上昇する。
「進路の調査をしようと思います」
 ある日のホームルームで突然担任がそう言った。その度にどよめくクラスの中。驚くのも分かるけれど、いちいち騒がないでほしいとあたしは心の中で毒づく。いい加減にしてほしい。
「みんなはまだ入学したばかりだけど、将来の夢くらいあるでしょう?」
 あなたたちのことはなんでも知っているわ。そう言いたいのか、担任は悟った顔で微笑む。そう思い込むのも見当違いだ。現にあたしは将来のことなんて考えていない。
 前列から順に配られてきたプリントには、氏名と志望高校と将来希望する職業を書く欄が印刷されていた。あたしは四角の枠をじっと見つめる。
 正直、あたしは今を考えることで精一杯で、こんな風に将来を考えましょう的なノリが苦手なのだ。小学校の頃は上手く曖昧に答えて逃げてきたけれど。
 あたしは高校名を書く欄を凝視した。
 あづさが通う女子高を思い浮かべるが、すぐに却下しておく。だいたいあたしが女子高に向いた性格ではないことはあたし自身が承知している。女の子特有の集団性があたしは苦手なのだ。
 目を閉じて考える。逃げたい。この場から逃げたい。今を見ていて何が悪いの。弱冠十二歳のあたしが社会の何を知っているというの。そう、社会は言わば未知の領域なのだ。平穏を望むあたしにとって、もっとも関わりたくない世界だった。
「保本さん、ずいぶん悩んでいるのね」
「・・・・・・・・・・・・!!」
 いつの間にかあたしの机の傍に立っていた先生が、あたしを見下ろして笑う。まだ何一つ空白であるこの用紙を見られた。過剰に反応を示したあたしは今になって慌てて手でプリントを隠したが、すでに遅かった。
 先生の一言に教室中に笑いが起こった。
「保本さんは音楽高校じゃねえの!?」
 冷やかしなのかからかっているのか、誰かが大きな声でそう言った。あたしの頬は赤くなる。頭に血が上る。
 今すぐにそれを言った本人の前に行って文句を言いたい。あたしの何を知っているというのだ。あたしの音の何を理解したというのだ。そして殴りたい衝動に襲われ、あたしは あわてて理性を取り戻す。机の下で爪あとが残るくらいぎゅっと手を握り締めた。
 彼の言葉によってまた教室の中では微笑が聞こえてくる。いや、嘲笑かもしれない。
 こんなことで音を汚されたなんて思うな。あたしはそう自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫だ、あたしの音はこんなことでは壊れたりしないし、汚れたりしないから。
 あたしは勢いで近くにある公立高校の名前をプリントに書き殴った。それでもまだシャーペンを持った右手は震えていた。


 不快とは言え、時にあたしは雨の音が好きになる。雨は不快の代わりに音を与えてくれる。静かでリズムの整った小さな音。あたしの情状を包み込んでくれるような気がするのだ。
 昼休み、第三音楽室の前の廊下であたしはその音を聴いていた。頭を冷やさなければならない。あんなことであたしは揺るいだりしない。
「保本優?」
 静まり返った廊下の足音と共に、聞き慣れた声をキャッチする。
「今日は早いな」
「四時間目が終わるのが早かったんです」
 返事をして、奏と一緒に第三音楽室に入る。
「何だ?」
 あたしの顔を見て、奏は唐突に意味不明な質問をする。こんな狂ったリズムにも慣れたあたしは特に驚愕もせずに聞き返す。
「何がですか」
「なんか楽しそうな顔?」
 語尾に妙なハテナマークをつけた言い方で、奏は言う。あたしは自分の頬に触れてみた。
「別に普通の顔だと思うけれど」
「もしかしたら雨の日が好きだとか」
「好きじゃないです。傘をさすの面倒くさいし」
 あたしが言うと、奏は顔を歪めて笑った。この人はほとんどいつもこんな笑い方をする。そのまま何も言わずに奏はピアノの蓋を開け、鍵盤を鳴らした。
 いつ聴いても、奏に似合わない音色だと思う。こんな繊細で綺麗な音をどこに隠し持っているのだろう。人ひとり受け入れることもしないくせに。
 奏の噂は徐々にあたしの耳にも入ってきていた。三年生にいる桐川奏としての噂は、あたしが知っている奏とは恐ろしいほどに違っていた。
 喧嘩っ早くて、中一の終わり頃には問題児になっていた。誰一人奏には近づけない。特に奏が私用で使っている第三音楽室には近づかないほうがいい。興味半分なんかで近づけば、何をされるか分からない。
 それは一体誰のこと? 興味半分に近づいたあたしを、奏はまた来たいと言うあたしを許してくれた。もしかしたらこの人も同じなのかもしれない、とあたしは考え付く。
 噂が先回りしてしまった奏自身もあたしと同じような思いをしたことがあるのだろうか。勝手な親近感があたしの中で湧いてしまったのだ。
 いつものようになめらかなメロディが止んで、奏はあたしを向いた。
「おまえさ、中間テストどうだったんだ?」
「別に普通でしたよ?」
「嘘だろ?おまえの普通は絶対信じられねえよ」
 佳苗と同じように返事したら、やはり佳苗と同じような答えが返ってくる。でも奏は最近知り合ったばかりだ、あたしの成績など予想すらつかないはずなのに。あたしが少し奇妙に思ったとき、奏が再び口を開いた。
「保本優は成績も優秀だって、聞いたぜ?」
「・・・・・・。馬鹿にしてるんですか」
 あたしの声は棘立ったように、低く険しくなる。
「ただ聞いたことをそのまま言っただけさ」
「それならあたしだって・・・!」
 先輩のこと色々聞いてます! と言いかけて、あたしは口をつぐむ。こんな男を相手にしたって、言いたくない。悔し紛れの格好悪い科白だけは吐きたくなかった。
「何」
「・・・なんでもないです」
「おまえってさ、楽しくなくても楽しい顔とか、してそう」
「・・・・・・・・・。何が言いたいんですか」
「ムカついているなら素直に言えばってハナシ」
 奏の目はやはりまっすぐにあたしを捕らえていて、あたしは動けない。
 あたしは素直になれない。こういう性格なんだから仕方ないじゃないか。それでも、思っていたよりもずっと奏はあたしのことをよく知っている。あたしでさえ掴みたくもない あたし自身の性格も理解しているのだ。
「先輩は、話しているときよりピアノを弾いているときのほうがいいです」
 あたしの言葉は容赦なく発される。奏は嫌な顔はせずに、いつもと同じ笑い方をしてまた鍵盤を叩き始めた。
 奏もこの痛みを知っているのだろうか。入学式から感じていた、人々の視線や声の痛さ。こんな痛みは自分だけが知っていればいいと思っていたのに、この人には知っていてほしいとあたしは心の中でこっそり思う。
 かなでられるメロディは咆哮のように聞こえた。


「あ」
 ある放課後に廊下を歩いていると、すれ違った上級生の女子のうちひとりが声をあげた。
「何、どうしたの」
「今の! 保本優! ピアノが超上手いっていう・・・」
「あー、噂の一年? でもちょっと生意気じゃん?」
 その声は狭い廊下で響いていて、もちろんあたしの耳にも聞こえてくる。
「生意気・・・ねぇ」
 ひとりごちて、あたしは苦笑する。確かに肩までの髪は結ばずに下ろしているし、スカートは入学時よりはるかに短くなっているけれども。今の金髪に近い女に言われたくはない。
「あ、保本優じゃん」
 今度は数人の男子集団だ。
「どっちかっていうと美人系?」
「大人っぽい雰囲気がまたいいよなー。すましている表情もまたヨシってな」
「イロイロ教えてくださいってかぁ?」
 下品な笑い声をあげている。あたしは極力そっちに顔を見せないようにして早足で歩いた。
 あたしの噂は一向に収まらないということだろうか。奏はそれを教えてくれたというのだろうか。まっすぐに前を見据えてあたしは歩いた。
 そして、やっと玄関に辿り着き、下駄箱を開けると、
「・・・・・・・・・」
 お気に入りの白いスニーカーがぐっしょりと冷たく濡れていた。

     
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