2 咆哮が聞こえる(前)


 あたしがめずらしく練習をして行くと、玉島先生は目を丸くした。
「ど、どうしたの・・・、優ちゃん。こんなに熱心に練習したことなかったわよねぇ?」
 あたしが通っているピアノ教室は全国的に有名な音楽会社の中のシステムにあり、あたしが三歳のときからずっと習っている。今では家の近くの教室を出て、街に出た大きなビルの中にある教室で玉島先生に教わってから八年目になる。
 通い始めたきっかけはあづさだ。あたしが生まれた頃には既にあづさはピアノを弾いており、あたしはあづさに憧れて対象年齢の四歳になるのを待ちきれずに一年早く教室に入った。その後専門科に進み、友達とピアノを弾き合う経験をし、今に至る。
「・・・うん。そうかもね」
「何かあったの?」
「先生」
 楽譜をめくりながら、あたしは質問には答えずに言った。
「あたし、ショパンが好きなの」
「・・・そんなこと知っているわ」
「あたしに合うコンクールあるよね? あたし出たいんだけど」
 めくっていく楽譜に目を落としたまま、あたしは言う。一瞬先生の顔がこわばったのが分かった。
「・・・・・・もう優ちゃんからコンクールなんて言葉が出るなんて思っていなかったけれど」
「・・・・・・・・・」
 あたしは唇を噛んだ。玉島先生は熱心に指導をしてくれるけれど、あたしをピアノだけの世界に染めることは絶対にしなかった。強制的にコンクールやオーディションに出さなかったし、あたしの個性を引き伸ばしてくれた。それがとても嬉しかった。あたしの大好きで尊敬できる先生が、こんな顔をこんな事を言う理由を、あたしはきっと知っている。
「どうしたの、優ちゃん。あなたはこれ以上知名度を上げても困るんじゃなかったの?」
「もう遅いよ」
 学校中のみんなが知っている。中途半端な情報で、あたしの音はもう引き返せない。誰にも聞いてもらっていないなら、もう一度結果を出せばいいのだ。
 あたしは楽譜なんか見てもないくせに無意識にページをめくっていく。そして先生はあたしの虚ろな目をちゃんと理解していた。
「またコンクールを受けたら優ちゃんは気が済むの?」
「・・・・・・・・・」
 分からない。でもそうやって気を紛らわせないと狂ってしまいそうだった。


「コンクール?」
 母までも先生と同じように驚いた表情を見せた。
「・・・優が出るの?」
「そう言ってるじゃん」
 夕食の食卓でご飯を口に運びながらあたしは苦笑する。あたしの隣ではあづさが黙々と口を動かしていた。
「・・・もう優は出ないと思っていたけれど」
「先生も同じようなこと言ってたよ」
「何か理由あるの?」
「・・・・・・・・・」
 まさか母には言えない。あたしは先生や友達に言える相談事を、どうしても母に言うことが出来なかった。あたしの弱点を知られるようで。母は絶対にあたしを裏切らない肉親なのに、変な話だった。
「理由は・・・、ないけどさ、・・・もうずいぶん長い間出てなかったし、向上心高めようかな、なんて」
 曖昧な言い方で誤魔化して、あたしは笑ってみる。向上心。自分で言っておきながら、これだと納得した。
 コンクールに出ることによって上達できたらいい。そして、少しでも奏に追いつくのならあたしは努力も否まない。
 隣の席でカチャリ、と茶碗を置いた音が聞こえた。
「ごちそうさま」
「あら、あづさ。もう食べないの?」
「食欲ないから」
 そう言って、あづさは自分の皿だけ台所に運ぶとリビングを出て行った。
「お母さん、お姉ちゃん怒ってる?」
 あづさの背中を見送ったあたしが訊くと、母は少し笑って、
「どうして? そんなことないわよ。あれがいつものあづさでしょ」
 そう言った。


 昼休みに第三音楽室に行くのが日課になっていた。今ではもうノックなんてしなくても、奏は当然の顔で迎え入れてくれた。
「なんかさ・・・」
 適当に綺麗な和音を弾きながら奏は言う。
「・・・え、何!?」
 ぼんやりと奏の好みの音を聞き分けていたあたしは慌てて我に返った。
「おまえさ、元気なくねえか?」
「・・・・・・・・・え」
 あたしの顔にある頬や目の下のあたりについている肉が固まったように思った。しばらく、動けないまま奏を見た。どうしてすぐに答えられないのだろう。
「・・・そんなこと、ないですけれど」
「そうか?」
 またひとつ、この狭い空間に三つの音が連なる。
「おまえがCコンクールに出るって聞いたけどな」
 まさか思ってもいなかったことを、奏は軽く言った。あたしは顔をしかめた。それを見て、奏は言いなおすように、再び口を開く。
「学校で噂が流れているわけではないぜ?」
 その科白にあたしは再び度肝を抜かれる。あたしはまだ何もこのひとには言っていないのに。
「嫌なのか?」
「・・・何が」
「コンクール」
「別にそんなことないです」
 ピアノの前の奏から少し離れた椅子に座ったまま、あたしは奏に強い口調で答える。
「でも嫌そうな顔している。そんな顔で弾いたって何も生まれなくねえか?」
「・・・・・・だって」
 あたしは何が言いたいのだろうと、神経の伝わらない場所で思っていた。こんな言い訳じみたことを低い声で呟いてみたって、それはただの子供じゃないか。
「なんだよ」
 奏は鍵盤から指を離し、あたしをまっすぐに見た。それを意識したらますますあたしは訳が分からなくなる。あたしのことなんて見ないで欲しい。あたしの気持ちになんて気付かないで欲しい。
 なのにこうやって毎日のように奏に会いに来ているあたしは、もっと訳が分からない。理解不能。
いつもと違った奏の柔らかい口調はあたしの心を痺れさせる。
「お姉ちゃんが・・・・・・」
「・・・姉貴? おまえ姉貴いるんだ?」
 意外そうな顔をして奏はつぶやく。そのちょっとした間で少しあたしは落ち着きを取り戻した。
「お姉ちゃんがね・・・、嫌かも、しれなくて」
「嫌? 何が」
「・・・・・・あたしがコンクールに出ること」
「なんでだよ」
 途切れ途切れにしか話せないあたしを誘導するように、奏は訊く。こんな人がカウンセラーになれるはずはないのだけど。あたしにとっては癒しのものに聴こえていた。
 あづさが機嫌悪い理由も知っていた。あたしにピアノを弾くきっかけを与えてくれたあづさは、もうピアノに触れないでいる。誰のせいでもない。あたしはそう思っているけれど。
「あたしがお姉ちゃんよりピアノ上手いから」
 正直に言ったら、奏は少し馬鹿にしたように笑った。
「なんだよ、それ・・・。関係ねえじゃん。おまえがコンクールで弾きたいか弾きたくないか、重要なのはそれだけじゃねえのか?」
 それ以上奏はもう何も言うことはなく、再び第三音楽室は奏の音に包まれた。
 あたしだって好きで上手くなったわけではない。たとえそれが皮肉に聞こえたってそれは真実だ。
 あづさはいつまでもあたしの先を歩いていく人で、生まれた時からのあたしの憧れであったはずだった。大好きだったのも本当のこと。
 なのにどうしてあたしを避けるの。もう昔みたいに笑ってくれないの。考え出したらキリがなくて、悪循環のサイクルを作る思考は止まらなくなる。
 だけど、どうしてだろう。その回転を沈めるかのように、奏の音はあたしの脳内に浸透していった。


 短く感じる昼休みが終わって、あたしは小走りで教室に戻った。いつものように授業が始まるチャイムがなる直前に席に座り込む。
「優ちゃん、また戻ってくるの遅かったね。いつもどこほっつき歩いてんの?」
 近くの席の佳苗が呆れたように言う。あたしは笑って誤魔化した。
 言えるわけがない。もう入学して一ヶ月以上も経つのに、未だにクラスには馴染んでいなくて、佳苗以外のクラスメートとは話すことも出来なくて、先輩である奏と一緒にいたほうが気が楽だなんて。
 クラスに溶け込んでいる佳苗にだって言えるはずがない。佳苗だからこそ言えないのかもしれないけれど。
「はい、では前回の英単語の小テスト答案返すわよー」
 やけに男子の間で人気がありそうな英語担当の女の先生が、まだ昼休みの余韻が残る今日室内で声を張り上げる。
「ちょっと皆、静かにして! そろそろ皆だらけて来たわよ。今回の小テストだってそんなに難しくなかったはずなのに、満点とったのは保本さん一人だけよ」
 急に名前を呼ばれて、あたしは顔をあげた。
「え、あのテスト難しかったよな?」
「あれで満点なんてありえなくない?」
 周りでヒソヒソとそんな声が聴こえる。ときどきは肌に刺さる視線は心臓を突き刺されたほどに痛くて。あたしは何も言えないままうつむく。
 どうしてこんな教室のみんなのいる前でそんなこと言うのだろう、この先生は! 生徒が喜ぶとでも思っているのだろうか、他の生徒がそれを聞いて勉強熱心になるとでも本気で勘違いしているのだろうか。
 あたしは下を向いたまま、時間が過ぎていくのを待っていた。 


 目立ちすぎてはいけないと聴いたことがあった。
 だからあたしは極力目立たないようにしてきた。中途半端な知名度は確実のものにしてみんなの記憶から消したかったし、それ以外では何ひとつ目立たないように身を縮めて生活してきたはずなのに。
『調子にのってんじゃねえよ』
 何かを予感させる一枚の紙切れ。あたしの下駄箱に入っていたというなんて古典的なやり口。
 あたしは紙切れをしばらく見つめていた。わざと汚く書き殴っているけれど、女の文字だった。あたしはそれを持った手をぎゅっと握り締めた。手の中からクシャリと音がした。
 こんなモノなんてことない。あたしは全然平気だ。

     
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