1 一人でいるのがいいのか(後)


 初めて入った第三音楽室は、六畳くらいの狭い部屋のなかにグランドピアノが一台だけ置いてあった。音楽室というよりもピアノのレッスン室みたいだ。
 奏はその椅子に座る。ここは嵐の中心部だ。奏が鍵盤に手を置いた瞬間、あたしは嵐に巻き込まれた。
 鍵盤の上を走る長い指。鼓動のように聴こえる力強い独特の音。誰も許さない音波。
 ベートーベンやチャイコフスキーなど誰でも知っているようなクラシックのメドレーだった。凄い。全身寒気がした。
 こんな音を出す人が、何事もないようにあたしの目の前で平気でピアノを弾いている。
 『エリーゼのために』から始まったメドレーは、変調や拍子を変えながら、最後にまた『エリーゼのために』に戻り、嵐は止んだ。
「・・・疲れた。ピアノ弾くのって体力いるよな」
 指を振りながら、奏は軽く言ってあたしを見た。
「次、おまえな」
「・・・・・・・・・・・・」
 声が出なかった。あんな強烈な音を生演奏で聴いてしまった後に弾くなんて、普通の人間はできない。
「約束だろ?」
 気持ちを察したように奏は鋭い視線をあたしに投げる。
「あ、あたしは・・・、先輩の音が聴きたかっただけで、弾ける自信なんてないです・・・」
「自信?」
 奏は眉間に皺を寄せてあたしを睨んだ。
「おまえの自信なんて知るかよ。俺だっておまえの音に興味あるんだよ保本優!!」
 防音された狭い部屋のなかで、奏の声はあたしの鼓膜を震わせた。怖くてあたしはピアノの椅子に座る。
 手が震えているけれど、だけど・・・。
 落ち着いて考えてみれば、これはラッキーなのかもしれなかった。名前だけ知られてうんざりしていたあたしの音を、奏はちゃんと聴いてくれようとしているのだ。
 失敗は出来ない。震えはいい緊張感に変わる。以前に発表会で弾いたショパンの曲を思い出す。
 あたしは鍵盤に両手を乗せて、小さく息を吸った。あたしの周りの空気に音が溢れ、まわりだす。
 一瞬心の中が空になる。この瞬間がとても好き。そして、その瞬間が終わればあたしの音で満たされる。一種の魔法のよう。
 昔から男の子のように弾けなくて悔しかった。今だって、あたしはどう足掻いても女で、奏と同じような音をかなでることは出来ないけれど。だけど、負けない。負けたくない。
 暗譜しきったこの曲を弾いている最中は、自分がどこを弾いているかなんて考えていない。全てはあたしの指が覚えていてくれている。鍵盤をすべるあたしの指。
 本当に可笑しいほど何も考えていない自分に気付く。だけど、意識なんてしなくてもきっとこれがあたしの音なのだ。
 ひとつの和音の音を聴いて、ああ終わったんだなと思う。
「――――おまえ」
 傍で黙って聴いていた奏がいたことに今更思い出したあたしは、とっさに奏のほうに振り返る。
「おまえさ、変な音、だな・・・」
 力抜けたような口調で、真剣で真面目な顔して奏はつぶやいた。
「・・・変。・・・ですか?」
 急に奏の険しい表情が一変していて、あたしはその言葉の意図すら読むことが出来ない。
「あの・・・、あたしあんまり練習が好きじゃなくて・・・。す、すみません下手ですかあたしは」
 自分に呆れるようにあたしは笑う。奏に呆れられたら・・・、そう思うと涙が出そうになった。さっき初めて会ったばかりなのに。
「ああ、いや、別に俺は下手だとは言っていない。ただ弾き方がな・・・、戦闘心を剥き出しなのがバレバレ・・・」
「戦闘心・・・?」
「おまえ誰に喧嘩売ってんの?」
 奏のその言い方は、怒っているわけでも呆れているわけでもなくて、むしろ楽しそうだった。
 喧嘩売るとしたら目の前にいるこのひとだと思ったけれど、まさかそんなこと言えるはずもなくて黙っていたら、奏はまた笑った。
 どう返していいのかも分からずに、あたしは視線を漂わせて、左手につけた腕時計を見た。
「今何時?」
 なぜあたしの音だけではなく、あたしの視線の先まで分かるのだろう、この人は。
「一時十五分、です」
「ああ、あと五分で授業始まるな。俺もう行くな」
 あたしの顔を見ずに奏はそのままドアを開けて音楽室を出て行った。しばらく呆然と中に取り残されていたあたしも、ゆっくりと足を踏み出して音楽室を出る。
 眩しい陽の射す廊下に出たら気付いた。あたしはまるで違う世界に行って来たみたいだ。


 その日も家に帰ったらあたしはピアノに触ってみた。
 奏に言われたとおり、確かにあたしは戦闘心を燃やしている。だってこのままでは悔しい。このままではあたしは奏に追いつかないではないか。
 どうやったらあの人に認めてもらえるだろう。それだけを考えていた。
 変だと言われたあたしの音は・・・。自分で探っていく。ピアノの音色を空気に浸透させながら。
 本当の音を見つめていくことに憧れていた。世間体や体裁しか見つめなくなる大人にはなりたくないと思っていた。そうやって過ごしてきたけれど、もうピアノや音を語り合う友達は近くにいないし、他にも話せる人はいない。・・・一人思い当たる人はいても、彼女はもうあたしの話し相手ではない。
「ただいまぁ・・・」
 玄関から響くあたしと同じ声。あたしの身体は一瞬固くなったが、指は一曲弾き終わるまで止まろうとはしない。
「・・・優?」
 廊下を歩いてリビングに入ってきた制服姿のあづさがあたしを一瞥して洗面所に入っていく。そして数秒後、洗面所から出てきたあづさは再びあたしを睨んだ。
「何を弾いているの・・・。ショパン? うるさいからやめてよ。それ昔の発表会の曲でしょ?」
 疲れた顔であづさが言う。
「・・・わかった」
 あたしは何も言い返せなくなり、そのまま楽譜を閉じた。どうしてこんなに身体がこわばるのか、自分でも分からない。あづさのことは嫌いではなかった。そんな感情を持つほど付き合っていない。
 五歳違いのたったひとりの姉だというのに。あたしは少し彼女が苦手だ。
 あづさもピアノ歴を持っている。いつか語り合いたいと思うのはきっとあたしだけだ。
 受験生であるあづさはそのまま乱暴に部屋のドアを閉めて二階に上がっていった。
 あたしはため息をついて、そっとピアノの蓋を閉めた。


 今日も奏の音が廊下に聴こえていた。誰も知らない昼下がりの第三音楽室。
 あたしがドアの前に立つと、ピアノの音が止んで奏が顔を出した。
「またおまえかよ、保本優」
「・・・・・・・・・駄目ですか」
 上目遣いで奏を見る。とてもじゃないけれど、このひとを直視することは出来ない。奏は嘆息してからあたしを中に入れてくれた。
「外で盗み聞きされるくらいなら中で聴かれたほうがマシだ」
 そう言うと、奏はあたしに構わず再びピアノを弾きだす。昨日とは違って聴いたことのない曲だけど、あたしの好きになれそうで、弾くのが苦手な優しい曲だった。
「どうやったらこんな音を出せるんですか」
 言った瞬間、こんなこと訊いても仕方ないのにと自分の低度な科白を後悔した。奏は目を丸くしてあたしを見つめる。
「・・・じゃあ、おまえ今すぐにここで即興してみろよ」
「え? ・・・即興、ですか?」
「今俺が弾いたのは俺が作った曲だから、おまえも今ここで即興してみろ」
「・・・・・・・・・」
 奏の身勝手さには呆れそうになる。奏が作曲した曲を弾くのとあたしが即興するのはまるで関係ないように思う。無理やり椅子に座らせられたあたしは、今更断るすべもなく、行き場のない手を空中に泳がせた。
「・・・何、おまえ。即興できねぇの?」
 馬鹿にした笑い方で奏はあたしを見る。
「ち・・・、違います!!あたし即興のプロですから!!」
 頭にカッと血が上った勢いでそんなことを叫んでいた。言ってしまってからやっぱり後悔した。プロって何だよ!!
 そんな呼ばれ方していたのは小学校の頃のピアノ友達からだけだったではないか。
「ふぅん、プロなんだ?」
 可笑しそうに奏は言う。言ってしまった言葉はもう元には戻らない。引き返せない。
 あたしは覚悟を決めて鍵盤に触れた。
 要求されていることは大したことではない。今ここでちょっとした曲を作ればいいだけの話なのだ。作曲はあたしの得意な分野なのだ。
 だけど、さっきのあの曲を作ったと言う奏を目の前に、あたしは何を作ればいい?
 あたしには優しい曲は向いていない。どうせ挑むなら違うジャンルにしようと、あたしはいくつもの和音を使って力を込めて弾いてみた。
 生まれたての新しい音が狭い音楽室を漂っていく。
 数小節で終わらせて、あたしは指を止めて奏を見た。
「・・・相変わらず変な音」
 あたしの隣でぼそっと奏はつぶやく。
「今さ、おまえは曲を作っただろ?」
「うん」
「自分の曲を弾いたんだろ?」
「うん」
「自分の音を弾いたんだろ?」
「・・・うん」
「どうやって音を出すかなんて、そういうことだろうが」
 奏は長めの前髪を掻きあげて言う。
「人の音なんて、生まれ持ったもんなんだからさ、おまえはその 音で弾いていけばいいんじゃねえの?」
「でも・・・」
 あたしあなたの音がとても羨ましいです。
 言葉にならなくて、代わりの科白を探した。
「・・・変な音って、先輩あたしの音を何だと思っているんですか」
 つい喧嘩を売るような口調になってしまう。こんなだから奏もいつまでもこんな口調なのかなって少し思った。あたしは相当生意気な一年だ。
「だから変な音。上手いとか下手とか、そういう感想のほうが失礼なときってあるだろ」
 吐き捨てるように奏は言う。
 あたしはその言葉に妙に納得してしまった。確かにあたしは上手だとしか言われてこなかった。そんな誰でも言える台詞にうんざりしていたのはあたしだった。
 奏はあたしの音を真正面から見て、聴いて、受け止めてくれていたのだ。
「あ・・・・・・・・・」
 アリガトウさえ言えない。どうしても、奏の放つオーラはあたしを萎縮させているようだ。
「おまえさ・・・」
 奏が口を開いた。
「なんでここに来るの」
 初めてあたしがここに来たような質問だった。何を今更って思った。でも適切な答え方も、自分自身の心の答えも分からなくて、あたしは黙ったままだった。
「まあ、いいけど・・・」
 あたしを見かねたように奏は笑う。人を馬鹿にしたり、顔を歪めたりしていない、初めて見る笑顔だった。
 不覚にもその笑顔に一瞬捕われて、あたしは時間差を置いてあわてて答えた。
「先輩のピアノを聴きたいからです」
 思い切り言ったら、心臓がばくばくと高鳴っていた。奏はちょっとびっくりしたようにあたしの顔を見て、それからはにかむように笑った。
「・・・サンキュ」
「あの、だから・・・、明日も来ていいですか?」
 あたしが言うと、奏は好きにしろと言って音楽室を出て行った。
 馴染めない教室よりもここにいるほうがずっといい。一人になりたかったはずなのに、あたしは見事に奏に魅了されてしまった。
 音やメロディいう餌に釣られてしまったのだ。

     
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