人は脆いものだから、と姉は泣きながら笑っていた。 ―――だから人の心には居場所が必要なんだよ。
入学式からこんな事態になるなんて予想もしなかった。 「ええっ、あの子が保本優(やすもとゆう)?」 同級生からもその父兄からも見られている。その視線を辿っていくと、必ずあたしに辿り着く。 「初日から有名人だね、優ちゃん」 小学校の頃から割と仲のよかった佳苗が無神経に言う。 「そんなんじゃないと思うけれど」 「自分を卑下する癖、治らないよね」 うんざりとするあたしに佳苗は笑う。ただの有名人だったらよかった。だけどあたしは有名人なんて綺麗なものじゃない。周りから感じる視線の中には好奇心や羨望が混ざっている。 ・・・誰もあたしの音なんて知らないくせに。
小学校一年生のときにピアノのあるコンクールで最優秀賞を取った。それが引き金だったのかもしれない。それ以来、何か行事がある度に学校の先生はピアノの伴奏をあたしに依頼した。 そして、みんなの前で弾けば必然的にあたしの音が全校生徒に知れ渡る。小学校の音楽の先生より上手いと言われていた保本優とはどんな人間か。時々囁かれていたけれど、そんなに気にしてはいなかった。 今までは。
中学校の入学式から悲惨だ。周りの音が濁って聞こえる。自分を守るための自己防衛。どうせ聴こえたとしてもろくな音ではないことが分かるから。 それでも初日だけだったらなんとかなったのかもしれない。あたしにも忍耐力くらいある。 だけど、騒ぎはいつになっても終わらなかった。 廊下を歩くたびに誰かに見られている不快感。狭い学校をこだまする声は、いつもあたしを嘲笑っているようで、学校一週間目にしてあたしは疲れてしまった。 一人になりたい。ある日本気でそう思った。そう思ったら、実行するのは簡単な話。 「優ちゃん、どこ行くの?」 器用で人当たりのいい佳苗は、昼休みには人付き合いの苦手なあたしと一緒にお弁当を食べてくれる。ある日、お弁当を食べ終わった途端に立ち上がったあたしを見上げて訊く。 「ちょっと、・・・校内を探索に」 「私も一緒に行こうか?」 「ううん、一人で大丈夫」 あたしの性格をよく知る佳苗に微笑を残して教室を出る。教室はあまり好きではなかった。 どこでもいい、一人になりたい。心の中で何度も呟きながら廊下を歩く。歩き続けていると、行ったことのない校舎に辿り着いた。 この建物にはなんの教室があるんだっけ? 昼休みのせいかしんと静寂が漂っている。こんな場所を求めていた。あたしの足は更に前へ進んでいく。 春の澄んだ空気の中、小さな音色にあたしの耳が反応した。 「何・・・?」 聞き覚えのある音・・・ピアノの音だ。こんな校舎に音楽室はあっただろうか。確か使われている第一音楽室や第二音楽室は違う校舎にあったはず。ではこの音は何? あたしは誘われるようにその音の源を探した。そしてその教室はすぐに見つかった。 第三音楽室。ドアは閉まっている。防音も備えられているのだろう、くぐもった音しか廊下には響かない。 それでも一瞬にしてあたしの心は捕われてしまった。だってこの音は普通じゃない。音階は確かに合っている筈なのに、弾いている本人がめちゃくちゃに変化させている。こんな音は誰にも出せない。 音は細かく刻み込まれ、力強く響いていた。あたしが立っているのは、防音壁を隔てた廊下だというのに、その音色に飲み込まれそうになる。一体誰がこんな音を創っているのだろう。 白いドアが閉まっているせいで、中の様子は伺えない。そのドアを開ける勇気なんて、あたしにはなかった。
家に帰ってからさっそく鍵盤を叩いてみる。聴きなれたあたしの音。だからこそ安心できるのだけれど、今はイライラする。どうやったってあんな音には勝てない。 あたしの音。どこにあるの。 負けたくなくて、楽譜を睨みながら必死に弾いても、あの音とは勝負にならない。 こんな咄嗟の思い付きでは駄目だ。練習の量が違っている、きっと。そう自分に言い聞かせて、あたしは静かにピアノの蓋を閉めた。 「優、もうピアノは弾かなくていいの?」 台所で夕飯を作っている母があたしに向かって言った。 「うん」 「あなたももう中学生なんだし、やめたくなったらいつでもやめていいのよ」 「うん・・・、でもまだやめないよ」 「本当に好きねぇ」 母は笑う。好きなのかもしれないと思った。三歳のときにピアノを習い始めてもうすぐ十年になるけれど、嫌だなんて思ったことはないし。 だけど、あたしの音はまだ見つからないままだ。雑音が多すぎる。
翌日、小学校の頃に習った学習をまとめた試験が返ってきた。 「優ちゃん、どうだった? 算数のテスト。私もうボロボロだよ〜。春休みのうちに全部忘れちゃってさ」 チャイムが鳴るや否や佳苗が全教科の答案用紙を丸めて嘆く。 「ちゃんと授業始まればそのうち思い出すよ」 あたしは自分の答案用紙を一枚一枚丁寧に畳みながら笑う。佳苗はあたしを大きな瞳できっと睨んだ。 「そう言う優ちゃんはどうなのよ?」 「え・・・? あたしは・・・」 もたもたしているうちに用紙を奪われてしまった。 「ちょっと・・・、佳苗! 返してよ」 「いいじゃん、見せて? ・・・なんだ、優ちゃん、見せられないどころか自慢できる点数じゃん?」 「そんなの自慢にもならないよ!!」 こっそりと囁く佳苗の隙を見計らって、あたしは力ずくで用紙を取り返す。そんな騒ぎをしていたからかもしれない。見られたなんて思わなかった。 「げっ・・・、保本さんって、優秀? 全部満点だったよな・・・?」 傍にいたある男子の一言がきっかけで、騒ぎはクラス中に及んだ。 「え、まじでか!?」 「すごーい!! 今度勉強教えてよ」 そんなことを口々に言われる。みんなの視線が何を言っているのか分かるほど、あたしは人生経験豊富ではない。何をどうすればいいのか分からなくて、あたしは戸惑った。 「ぐ、偶然だよ・・・っ。すごくなんて、ないから・・・」 小学校の頃から勉強は苦手ではなかった。だけどこんな騒がれ方をされたのは初めてで、あたしはしどろもどろ呟く。 「保本さんて、出来るのはピアノだけじゃないんだぁ」 どこからかそんな声が聴こえて、あたしの心が痛くなった。 教室いう狭い空間のなかで、あたしは自分の行き場所が分からなくなっていた。
勇気を出して今日も第三音楽室に向かった。それはとても覚悟のいることだったけれど、どうせあたしは教室にでさえすでに居場所を取り逃してしまったから同じことだった。同じなら、あの音色を聞けるこっちがいい。 今日も同じ場所から音が聴こえていた。でも昨日とは曲調が違っていた。ゆっくりとしたなめらかな和音が連なっている。まるで波みたいだ。 音があたしに降りかかってくるみたいだった。 曲調は全く異なっているけれど、昨日と同じひとが弾いているのはすぐに分かった。同じ音を操っていたから。 あたしはドアの前に立ったまま目を閉じた。この曲は誰の曲だろう。聴いたことのないクラシック。不思議な音色。降りかかる雫。 目を閉じているせいで足元がぐらぐらしていた。平衡を失ってしまいそうなこの感覚! 頭の中が空っぽになっていた。 「・・・おい、おいってば!!」 誰かに声をかけられた気がしてあたしはそっと目を開ける。 そこには見たことのない男子生徒が立っていた。 「・・・・・・・・・?」 いつの間にか止んでいた音に気付かなかった。ぼうっとしてあたしは背の高い彼を見上げる。すぐ横を見ると、第三音楽室のドアが開いていた。 「なんか人の気配感じると思って開けてみたらコレかよ!!」 低い声で彼は言う。バッヂの色は三年生を表している。 制服のブレザーやネクタイが妙に似合っていた。育ちの良さそうな雰囲気。 「おまえ、俺の音聴きやがっただろ!?」 そのくせ鋭い雰囲気も持ち合わせている、掴みどころがないと思った。まさかだと心の中で少し笑った。 「あなたが・・・、ピアノを弾いていたの?」 先輩相手だと言うのに、敬語を使うのも忘れていた。そのくらい放心していた。 「・・・そうだけど?」 「雰囲気違う」 あたしが苦笑いを浮かべながら一言言うと、彼は、 「余計なお世話だ」 やっぱり少し笑っているように見えた。 「おまえさ・・・、」 嘆息しながら彼は言う。 「保本優、だろ?」 「え・・・・・・?」 まさか知られているとは思わなかった。この絶望感。なんでこんな三年生まで知っているのか。あたしの表情は気持ちそのまま出ていたらしく、彼は答える。 「噂が流れてさ。ピアノの天才少女が入学してくるってね。俺はおまえとは違う小学校だったから知らなかったけれど? 興味はあるぜ?」 そんな嫌味を含まれた言い方されて、あたしの顔が熱くなった。あんなに素敵な音をかなでる人に、こんなこと言われたくなかった。 「あたしのことばかり知っていてずるいです」 気がつくとそんな科白が口から飛び出していた。きっと会ったときから・・・、いや、彼の音を聴いたときから思っていた。このひとをもっと知りたい。 「俺は無名だからな」 「そんなの関係ないです」 「桐川奏(きりかわそう)」 簡潔に名乗って、彼――奏はあたしの右手を掴んだ。 「俺のピアノ、聴きたいんだろ?」 奏からそんな科白が出てくるとは思ってもいなくて、あたしはただ驚いて何度もうなずく。そんなあたしを見て、奏は口許を歪めるように笑った。 「じゃあそのかわり、おまえの音も聞かせろよ」 奏はあたしの手を引っ張って、あたしを第三音楽室のなかへ連れて入った。
これがあたしと奏の出逢いだった。
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