真っ赤なポストの前で佇んでいた。 決めたのはあたし。自分の足でちゃんと歩いてきたのもあたし。だから後悔することなんて何もないんだ。
いつのまにこんなに欲張りになってしまったのだろうと思う。 学校の図書館で、英語の構文と睨め合いをする。途中で力尽きて、傍らに置いておいた辞書をめくってみるけれど、分からない。こんなときはどうすればいいのか分からない。 諦めて顔を上げると、七時を指そうとしている時計に会った。教科書や重い辞書を鞄に突っ込んで、あたしは図書館を出た。 携帯は相変わらず音沙汰なしだ。今週末に推薦試験を受けるあたしに薫はとても気を遣っている。だけど、理屈とは違ってあたしはいつでも薫を思う。 薫に出会う前、あたしはオトナの男に憧れていて、奈緒たちと一緒に大学生の男を捕まえて遊んでいた。今よりも濃いメイクをしていたし、弱い自分を見ようとしなかった。人生はなんて楽なんだろうと思っていた。そして、こんなに簡単にあたしたちに引っかかる男たちを心の底から馬鹿にしていたのだ。 そうやって虚しい遊びを繰り返していた頃を酷く悔やむ。 彼らは彼らなりに一生懸命歩いていて、真面目にバイトをして働いたからお金や車を持っていたし(一部は親の援護を受ける奴もいたけれど)、それなりに勉強したからちゃんと大学に通っていた(とてもそうは見えないけれど)。それを安く見て、さも自分達の物のように思っていた。十五、六の頃。 あたしが向かおうとしているのは誰だって超えなければならない壁で、それを乗り越えた人たちを酷く羨ましく思えて仕方がなかった。
学校の正面玄関で靴を履き替えたとき、薫に出会った。 こんなふうに何の約束もしていないときに出くわすなんて、やはり運命ってあるのかな。どんな状況でも乙女モードが治らないあたしを、神様はどれだけ馬鹿だと思っているだろう。 「朱美ちゃん」 あたしを見つけると薫は心から嬉しいという感情を表面に出す。それがとても安心して、薫を好きな理由のひとつだった。 「勉強していたの?」 「うん・・・、薫は?」 「俺は担任と面談。その後大学のこと調べていたよ」 何をやりたいか分からない、と薫は言う。一応理系クラスにはいるけれど、将来が見えないと。 「だから朱美ちゃんが羨ましい」 ちゃんと自分の進みたい道を見えてはいるはずのあたし、だけどそれに手が届かないときはどうすればいいの。葛藤のような、屁理屈のような、汚い気持ちは出さないようにしてあたしはただ曖昧に笑った。 ポストに投げ込んだ大学の入試願書。紙の感触とか、重さとか、今でも手に残っていて気持ちが悪い。 最近は日が沈むのが早くて、それも余計に心に響いた。センチメンタルに陥ってしまいそう。逃げても逃げても迫り来る現実。後ろを振り返ることも出来なくて。 あの甘い日々。 「・・・逃げたいな」 二人で並んでゆっくりと家に向かって歩きながら、あたしはポツリとつぶやいた。薫がこっちを向いたことに気付いたけれど、敢えてあたしはそっちを見ない。その代わり薫の手を捕まえて握り締めた。もうすぐ冬で冷たい空気の中でも薫の手は温かい。きっと手が冷たいヒトは心が暖かいなんて嘘だ。 手が冷たいあたしなんかよりずっと薫のほうが優しくて、そんなことはもう当たり前の話だけど。 「どこに?」 あたしが黙ったままでいると、薫が静かに訊いた。 「・・・暖かいところ」 「南の島?」 「ウン、いいね。行ってみたいな」 冗談っぽく笑いながら、あたしたちは心の痛みに気付かないふりをして笑う。 だけどそれが出来ないことを知っている。逃げ場所なんてどこにもない。こんな苦しみを知らなかった頃に戻れたらいいのに。 ゆっくりとした足取りで、ふと横を見ると公園があった。もう夜のせいで真っ暗で木々も黒く見えた。 薫との思い出の場所。いつもは何も考えないまま通り過ぎるはずなのに、今日はなぜか・・・。 「・・・朱美ちゃん?」 びっくりしたように薫があたしを見た。あたしは握っていた手を離して、顔を覆う。どんなに弱っていてもあたしは全てを薫には曝け出すことが出来たけれど、今だけはどうしても見られるわけにはいかなかった。 涙を隠したところで、あたし自身はどこにも隠れることなんて出来ないけれど、それでももう薫の隣にいることすら苦しくて、あたしは弾けるように公園に向かって走り出した。 「朱美ちゃん!?」 後ろから足音が追いかけてくる。こんな時間に一人で公園に駆け込むなんて、安全とは言えない行為をするあたしを薫はいつだって見捨てない。 今日はなぜか涙が溢れて止まらない。
ベンチに座り込んでひたすら涙を流して、その隣にはいつもと同じ温もりがあった。どのくらいの時間が経っただろう。 「・・・大丈夫?」 薫はブレザーの袖であたしの顔を拭って涙を払う。 「・・・うん、ごめんね」 泣きすぎて荒れた声で、あたしは下を向いたままつぶやく。薫の手があたしの髪に触れた。そして今度は薫の唇が、あたしの髪へ、瞼へ、頬へ、まるで流れた涙の後を慈しむように優しく口付け、最後にあたしの唇に重なった。あたしは瞳を閉じて、戻らない時間を思う。 力いっぱい抱きしめても薫は男の人で、絶対に壊れない芯からの強さが備わっているんだと思った。あたしもそういう強さが欲しかった。 唇が離れて、まだ息が届く範囲であたしたちは見つめ合う。誰もいない公園。街灯は少なくて、一人では怖くて絶対に入れない場所に、今薫と一緒にいて。 薫の瞳の光が揺れていた。 「朱美ちゃん」 掠れるほど細い声で、静かに薫は言う。 「何?」 「・・・別れようか」 なんてことないように放たれた言葉に、あたしは反応が遅れた。 今言われたことは何? まるで日本語が分からなくなってしまったかのように、頭の中で何度も唱えてその意味を確認する。 「・・・何?」 もう一度あたしはつぶやいた。薫は悲しそうに微笑んだ。 「別れよう。今も朱美ちゃんのこと大好きだけど」 薫は空を仰ぐように上を向いた。あたしから顔を背けたんだ。 そして科白を続ける。 ―――このままじゃ駄目だよね。
そんなこと、私だって分かっているよ。 だけど何をどうすればいいのか分からないの。 あたしだって、薫を好きで、大好きで、それだけでいっぱいなのに。
今度受ける遠くの大学を思い出した。 薫はこんなときでもあたしに気を遣っている。 だから、首を横に振るわけにはいかなかったんだ。泣き喚いてすがり付いて、壁に背を向けるような格好悪い女に成り下がるわけにはいかなかったんだ。
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