10 ありふれた特別


 結局昨日、俺は帰ることも出来ずに、車の中で一晩明かした。 朝の五時に帰ると由希は部屋のベッドで何事もなかったように眠っていて、俺は半分安心しながらシャワーを浴びた。
 彼女の告白の意図が何を示すのか、分かっていたくせに考えようとはしなかった。とても怖かったから。


 上の空で仕事して、何度か遥に声をかけられたけれど何を話したのか覚えていない。
 今日の仕事は深夜までで、夕方にもらった休憩で近くのコンビニまで歩いて安い紙パックの紅茶を買う。その帰りに、交差点のもとで蛍光色の上着を着たお姉さんが無料の求人情報誌を配っているのを敢えて避けてとおり、仕事場に戻る。
 従業員室にはこれから帰る遥がいた。
「あ、お先に失礼しまーす」
 鞄を持って支度をし終えた遥が俺に向かって微笑んだ。ようやく俺の脳が働きだし、俺は声を出した。
「お疲れ様。今日が最後の日だったっけ?」
 何が、とは言わない。ただその言葉だけで、遥はほんの少しだけ悲しい目をして笑った。だけど、そこに落胆の色は見えなかった。覚悟をした目だった。


 夜中にマンションに帰り、鍵をまわし、ドアを開けるとすぐ目の前に由希がいて驚いた。驚かせている本人も目を見開いて俺を見上げているのだから、なおさら気味が悪い。
「・・・どうしたんだよ?」
「あ・・・・・・、お、おかえりなさい」
 そうつぶやいても、そこを退かない。俺は靴を脱ぎたくても、居場所がなくてただ突っ立った。
「何?」
 昨日はリビングにあるいつものソファベッドで眠れずさらに今日の疲れのせいで、不機嫌な声で訊ねると由希の肩がびくりと震える。
「あ、あの・・・、は、早かったね」
「そうでもねえよ。もう十二時過ぎてんぞ?」
「そ、そっか・・・・・・」
 由希の曖昧な仕草にイライラする。いい加減ソファに座りたい。俺は由希の細い肩を掴んだ。
「どうでもいいから上がらせて」
 由希を横に押しのけて靴を脱ぐ。
「あ・・・っ」
 制する由希の声も無視して、俺はキッチンを歩いて部屋に入った。ため息をついてそのときに見た光景が、一瞬錯覚だと思った。
「た、孝則、待って!」
 背後から由希の声と足音が追いかけてくる。俺は振り返らないままゆっくりと震える唇を開いた。
「なんだよ、これ」
「・・・・・・・・・・っ」
 由希が息を呑む。俺の腕を掴んだ。
「・・・ごめん、なさい」
 段ボールが三箱、ソファの隣にキレイに並べられていた。そのうちの二箱はもうガムテープで封がされていて、残りの一箱の中には由希の服が折りたたまれているのが見えた。
「由希」
「・・・ごめんなさい」
「違う、俺はそんな言葉が聞きたいんじゃない。これはなんだと聞いてるんだ」
「ごめんなさい!!」
 立ちすくんだままの俺の腕に由希がしがみつく。震えているのは俺なのか由希なのか、分からなかった。
 しばらく俺たちは黙っていた。由希の震える呼吸と時計の針の音が、いつも俺たちが共有していた空間の中で虚しく響いた。
「ここを、出て行くんだ?」
 乾いた声で、ぼそりと俺がつぶやくと、由希が俺から離れた。そして、俺に背を向けて空いた段ボールの傍に座った。
 もう片付けも最終段階だったのだろうか、由希がゆっくりとガムテープを伸ばし、その段ボールにも封をした。その時間が妙な感触をもって俺の心臓を蝕んだ。たった数十秒の出来事が果てしなく長い時間に思えた。
「・・・本当は、」
 背を向けたまま由希がぽつりとつぶやいた。
「本当は、孝則がいないうちに片付けて、ここを出て行こうと思っていたんだよ。だけど思ったより片付けに時間とられちゃって・・・、いつの間にこんな夜中になっていたのかな」
「おまえさ・・・」
 自嘲気味に言う由希の背中に、俺は声を投げる。
「またそうやって逃げるの?」
「違う!」
 由希はものすごい剣幕で立ち上がり、俺を睨んだ。
「違う、逃げるんじゃない」
「俺には逃避にしか見えねえよ。結局おまえはそれしか出来ないんじゃないか」
「孝則に何が分かるの!」
 その声には嗚咽も含んでいた。由希の大きな瞳には涙が溜まっていた。
「・・・何が、分かるというの。あたしは、孝則を好きになっちゃうんだよ。どうすればいいの。このまま二人でいたら、もっとおかしくなるよ・・・」
「オカシク、なればいいんじゃねえの」
「孝則は何も分かっていないよ」
 首を横に振り、涙を流しながら由希は俺に近づいた。正面から俺を見上げる。その瞳があまりにも真剣で、その剣幕に負けた俺は一歩引いた。
「あたしは孝則を守りたいんだよ」
「・・・俺はおまえが傍にいればそれでいいんだって」
 展開についていかなくて、俺がため息交じりにつぶやくと、由希が強く否定した。
「駄目だよ。分からないの? あたしたちは兄妹なんだよ!?」
 一番効力のある攻撃だった。俺は簡単にノックアウトを喰らい、そのままふらついて壁にもたれた。
「あたしが・・・・・・、あたしがここにいたら、絶対によくない。現実はそんなに甘くない。あたしはそんなに強くない。二人だけで生きていくなんて、不可能なんだよ。ねえ、分かるでしょう・・・?」
 由希の飛躍した話は本当に理解できなくて、俺は三つ並んだ段ボールを見つめた。ただ、由希がここを出て行くんだということだけ呆然と理解した。それが無性に悲しかった。不意打ちで胸を銃で打たれて、そこに穴が開いたようだ。
「あたしは孝則を守りたいの・・・」
 由希の瞳からは限界だというふうに涙が溢れて止まらない。そして由希は俺の胸に顔を押し付けて、俺のシャツを濡らした。
 嗚咽だけが響いた。俺の耳にはそれしか聞こえなくて、まだ胸は痛くて、そっとその長い髪に触れた。その瞬間、由希は声をあげて泣いた。
 彼女がこんなふうに、思い切り泣いているのは初めて見た。切羽詰ったような泣き方だった。まるで赤ん坊のようで、俺も泣きそうになった。
 どうしてこんなに辛いのか分からなくなるような泣き方で、それはやがて俺の心にも伝染していった。
 今頃になって由希の言葉を理解する。俺はいつまで経っても物分りの悪い馬鹿な兄貴だった。由希に幸せになって欲しかったのに。確かにそう思っていたのに。いつの間にか、傍にいることが当たり前になっていた。巻き込むつもりはないと確かに言ったはずなのに、由希の気持ちすら奪ってしまった。
 そう思っていた矢先、由希が涙で濡れた顔を上げた。
「孝則は、悪くないからね」
 俺の心を覗いたようなタイミングで、不覚にも俺は胸を撫で下ろす。
「でも孝則、優しいんだもん。惹かれちゃうの、当たり前だったよ。一緒にいられてすごく幸せだった。だから、あたしは孝則にその幸福をあげたいの。これからのシアワセ。あたしが傍にいたら、あげられないから」
 それは非常にゆっくりとした仕草だった。由希が俺の首に手をまわす、それだけのことが俺の瞳にはスローモーションに映り、長い時間に思った。
 背の低い由希が背伸びをし、お互いの吐息が交わるほど近くで見つめあう。
「孝則」
 ひどく優しい瞳で由希がつぶやいた。
「・・・好きよ」
 そして、ゆっくりと顔が近づき、由希の唇が俺の上唇にキスをした。とても柔らかい感触がして眩暈がしそうだった。目を閉じることも出来ない。
 これは長い間求めていたモノなのに、どうしてこんなに悲しくなるのだろう。
 由希の細い身体を抱きしめながら、ああそうかと答えを見つけた。兄妹だから、こうやって抱きしめあってもキスをしてもきっと満たされない。幸福を感じる前にやってくる罪悪感。唇に残る感触は、俺をこんなにも悲しくさせる。想像以上に罪深いことだった。
 長い時間、何度もキスをして、その合間に何度も好きだと言い合った。言えば言うほどお互いの心を傷つけると分かっていても止められなかった。ふと我に返って由希を見つめると、由希の涙は止まっていなかった。由希の細い指が俺の頬に触れる。
「泣かないで・・・」
 そして、由希の指の先に絡まりついた透明の液体を見て、俺自身も泣いていたことを知る。
「あたしはもう出て行くけれど、あたしたちの絆は変わらないんだよ。何年会えなくたって、絶対忘れることは出来ないんだよ。だって、兄妹だもん」
 そう言って俺から離れて、段ボールの横に置いてある鞄を手に取った。俺は金縛りにあってように動けないまま由希を見ていた。そんな俺に由希は微笑んだ。
「段ボール、実家に送ってくれる?」
 そして俺に微笑を残して玄関に向かった。
 俺ははっとなってその背中を追いかけた。
「由希!」
「あたしは大丈夫だから。だから・・・、孝則、元気でね」
「・・・由希」
「そんなに名前を呼ばないでってば」
 俺を見上げて由希はただ笑った。玄関に散らかっていた由希の靴はもうなくなっていた。由希はひとつだけ残っていたパンプスを履き、ノブを握った。
「・・・・・・孝則のいうとおり、これも逃避なのかもしれないね」
 ノブを握った手を見落としながら、由希は静かに言った。
「でも、これしかなかったの。他に方法が思いつかなかったの。ごめんね、孝則」
 そう言ってドアを開けて、由希は消えた。


 最後に見た由希の表情は、笑っていた。
 それだけが俺の救いで、閉ざされたドアの前で俺はしゃがみ込んで残りの涙を流した。
 俺だって、他に方法が思いつかない。だけど、彼女を抱けなかったのは事実だった。
 これでよかった。きっと、これでよかったのだ。
 唇に残る柔らかい感触を思い出し、俺は思う。罪は俺が一人でかぶればいい。だから、由希を幸せにしてください。彼女を巻き込んだのは俺なのだから。


 空虚の中でも時間は流れ、生活のリズムは崩れない。
 あれから一週間経った日、仕事場で俺は店長に呼ばれた。
「孝則、店長のお話なんだったの?」
 店長との話を終えた俺に、いつもの明るい口調で遥は笑顔を向けた。
「あ、ああ・・・・・・」
 店長との会話を思い出し、俺は客席を見渡したあと遥を見た。
「異動だってさ。今度の春から、地方のチェーン店に」
「・・・半年後だね」
 まだどこに配属されるか分からないが、半年も先のことなどまだ想像も出来なくて困った。それまで俺は一人で耐えられるのだろうかと弱い考えが浮かぶ。
 俺が東京を離れるということは遥とも会えなくなるということなのだろうか。しかし、思えば別れた彼女といつまでもこうして話しているもの不自然だったのかもしれない。そんなことを思っていると、遥が口を開いた。
「私、孝則がどこかに行く前にバイトをやめるよ」
 唐突だった。あまりにも急で、俺は遥の顔をまじまじと見つめた。遥はさわやかに笑い、言った。
「派遣会社に登録したの。来月にでもお仕事が出来そうなの。もう店長とは話ついているから、今月の二十日にやめるよ」
「・・・・・・急な話なんだな」
「うん、ごめんね。孝則にはもっと早く話したかったんだけど、私自身いろいろあったし、孝則も最近元気なかったみたいだし」
「ああ・・・・・・」
 俺はガラス越しの晴れた天気を見ながら笑った。
「由希が、出て行ったから」
「え? 由希ちゃんが?」
「うん、一度は実家に帰ったみたいだけど、今は、分からない」
「・・・・・・・・・・・・」
 遥が辛そうに目を伏せたのを見て、俺は声を明るくして言った。
「前みたいに行方不明ってわけじゃないと思うし、大丈夫だと思うから心配するな」
 俺を守るためにと由希は言った。それを全部信じるのは傲慢かもしれないけれど、そんな彼女の言葉は今でも俺を支えてくれる。
「また、会えたらいいね」
 遥が言った。実現するかどうかは分からない。少なくとも今は無理だ。だけど遠い未来を思う。


 たった半年の同棲生活が俺たちにもたらしたもの。それは世間から見たら、なんてことないありふれた特別という枠に収められただけの出来事なのかもしれない。だけど。
 たとえきっかけは小さくても、一生涯忘れることのない特別な空間と時間を胸に、俺も一人遅れてゆっくりと立ち上がることが出来そうだ。
 目の前に広がる景色を、未来を見据えて、覚悟を決め、温もりを抱いて、四つの方向は広がっていく。
 その先に交わる道を見つけることが出来たなら、きっと・・・・・・。




 きっと、また彼らに出会えるだろう。







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