夕方にバイトを終えると、夕方からバイトの大学生の人たちとすれ違う。 「おはようございます、お疲れ様です」 最近入ったばかりの大学生が、可愛い笑顔で私に挨拶をした。私も挨拶を返して外に出た。もう八月は終わり、また制服姿の高校生たちを多く見るようになった。夕方になるとやけに肌寒くて、私は持っていた長袖のカーディガンを羽織る。 ゆっくりと歩いて帰っていると、人ごみで賑わう交差点で蛍光色のジャンバーを来たお姉さんが何かを配っていた。いきなり渡されてとっさに受け取ってしまい、手に持ったそれを見た。無料の求人情報誌だった。
「ただいまー」 ヒールの低いパンプスを脱いで、部屋に上がる。 「おかえりなさい」 知樹は夏でバイトをやめた。これからは高校受験をするために、予備校に通うのだ。大学受験と同じように、高校受験の浪人生にも予備校というものがあるらしいことを私は最近知った。 部屋の片隅には一つの段ボール箱。知樹は荷物をまとめていた。その背中を見て、複雑な思いが生まれる。 でも、もう昔のように、私は知樹を引き止めない。私には知樹を縛る権利がない。佐々川さんの言うとおりだった。だからと言って好きではない、というわけではないのだ。私にだって独占欲はあるし、二ヶ月前に知樹に告白したように、自分のものだけにしたいと思う。だけどそれは、愛だなんて言えない。 私は鞄をソファにおいて、一度呼吸をしてから知樹を見た。 「ねえ、知樹。忙しいなら私が夕飯作るね」 「あ、待って。実はもう準備は出来ているんだ」 知樹は立ち上がってキッチンに入った。私もその後を追う。冷蔵庫には程よい大きさに切られた色とりどりの野菜が皿に入っていた。 「これを炒めればいいの?」 「うん、そう」 「じゃあ、私やっておくよ」 「絶妙な味付けヨロシク」 知樹の言葉に私は笑ってうなずき、他に何かないかと冷蔵庫の中を探した。
人を愛するということがどういうことなのか、私は今でも分からない。だけど、幸せには痛みが伴うということを学んだ。 前へ進むための覚悟は簡単に持てるものではないから、苦しみながら人はもがいていく。 出来上がった夕食をテレビのすぐ前にあるテーブルに運んで、開けっ放しになっていた窓を閉めた。ここがもっと空気の綺麗な場所であれば、かすかにでも虫の鳴き声が聴こえたかもしれない。だけど、この部屋では車の音しか響かない。肌寒い今の季節は窓を閉めたほうがいくらか快適だった。 「いただきまーす」 きちんと両手を合わせて、知樹は美味しそうに食べる。こんななんてことないひと時がとても幸せだった。幸せすぎて、涙が出そうだ。 知樹は予備校に通うために、佐々川さんの家で暮らすことに決まっていた。
『俺も、遥の傍にいたら、目標を見失ってしまうかもしれない』 あの夜、私の涙が乾いた頃に知樹は苦笑した。 『遥のことが好きすぎて、焦りすぎて、平常心を保てなくなるかも』 まるでそれは、私と同じ想いを共有しているのだという告白に聴こえた。私は静かに知樹を抱きしめた。 私たちには私たちの人生があって、道があって、世界がある。一緒にいることはとても大切だけど、まだ若い私たちは誤ってお互いを縛り、支配下に置きたくなることもあるかもしれない。愛情を取り違えたらきっと取り返しがつかなくなる。 たどたどしい知樹の言葉をまとめるとそういうことだった。 知樹のほうがずっと精神的に年上で、だから私は全てをささげたいと思った。 私たちが見えた場所に着いたその時間に。
最後の夜。 特に私たちは変わることもなく、今日もとりとめのない会話をしながら食事を楽しんだ。 一人っ子で、親元を離れて一人暮らしをしていた私が、誰かと生活空間を共有できなるなんて思わなかったし、こんなに心を許せる人間がいることも知らなかった。 だけど、本当に偶然に目の前にいる知樹に出会って、私の人生は変わったのだと思う。 「ごちそうさまっ」 多く作ったはずなのに、全て綺麗に平らげて、空いた皿をキッチンに片付ける。 「遥、一緒にシャワー浴びる?」 イタズラな表情で知樹が唐突に言い、私の身体が熱くなる。 「な、何言ってんのよ」 「だってまだ一緒に入ったことない」 「当たり前でしょ! 何考えてるのよ」 私の反応を見て笑いながら、知樹はバスタオルを持ってキッチンの向かいにあるユニットバスに向かう。 知樹がドアの向こうに消え、シャワーの水の音が聴こえたのを確認して、私は大きくため息をついた。キッチンに溜まった皿を洗いながら、明日には知樹がいなくなるこの空間を思った。 初めて一緒に暮らしたのが三月の初め。それから一度、知樹はこの部屋を出て行こうとしたことがあった。あのとき私は必死に引きとめて、今に至る。あの頃から知樹は私のことが好きだったのかな、と解答のない疑問が浮かぶ。 それ以前の一人暮らしに戻るだけだ。悲しいことなんてない。そう思うのはあの頃と一緒。だけどどうしてこんなに心が穏やかなんだろう。 十五分くらいすると知樹がシャワーから上がる。濡れた髪をタオルでごしごしと拭いて、ソファで雑誌を読んでいた私に近寄った。 「遥、上がったよ?」 「うん、おあがり」 私は読んでいた雑誌を閉じてテーブルに置き、立ったままの知樹を見上げた。 「いつか・・・」 「え?」 「今度、いつか一緒に、温泉に行きたいね」 私が言うと、知樹は笑った。 「何? さっきの続き? 実は遥もノリノリじゃん」 「ち、違うよ! うちのシャワーだったら狭いから・・・」 「狭いから?」 意地悪く知樹が聞き返す。私の頬が赤くなるのを感じた。おずおずと口を開く。 「・・・・・・み、密接度が高くなるじゃん」 私の小さな声も全部キャッチした知樹は、さっきよりも声をあげて笑い、私の手を引いた。 「そのほうが男は喜ぶけど・・・まあ、そうだね。いつか温泉行きたいね。俺行ったことないんだ」 「そうなの?」 知樹に抱き寄せられながら、私は訊ねる。 「うん。行く機会がなかったからね。今度佐々川さんにでもいい温泉聞いておくよ」 そう言って私の唇にキスを落とした。 「・・・ん・・・ちょ、ちょっと知樹・・・、私まだシャワー浴びてない・・・」 「うん・・・」 うなずいているのに、言葉とは裏腹に知樹のキスが深くなっていく。私は知樹の腕から逃げられずに、やがてそのキスに翻弄されて身体の力が抜けていく。
最後の夜。 私も知樹も、とても落ち着いていた。性急すぎない動きで知樹の指が優しく私の身体を辿った。シャワーから上がったばかりの彼の身体はとても温かくて、少し湿っていて、石鹸の香りがした。それがとても切なくて、私は必死に彼にしがみついた。 高まる身体の熱を自覚しながら、思う。これまでも何度かこのまま時間が止まればいいと思ったことはあった。だけど、それ以上に強く懇願する。これほどの幸せはこの先にないのではないかと思うほど、幸せすぎて怖かった。マリッジブルーの女のように。 知樹の髪はまだ濡れていて、私の頬や胸に触るとくすぐったくて思わず笑いそうになった。その度に知樹はむくれて、私の笑いをかき消す。それ以上の刺激を与えるために。そのちょっとした仕草や表情や声、すべてが愛おしい。私をこんなにも乱す知樹の声や指や唇が愛しくてたまらない。 私は唇を噛んだ。 「遥・・・」 いつの間にか流れていた私の涙を指で拭いながら、知樹は低くつぶやいた。見上げる彼の顔は、ちょうど影を作っていて、くわえて自分の涙で視界は曇っているし、表情はよく見えなかった。だけど、それでもなんとなく分かっていた。彼がどんな顔をしているのか、目を閉じても見えた。 「泣くな・・・」 「な、泣いてない・・・」 「嘘」 そう言って、さらに私の涙を掬う。私は知樹の首に腕を回した。 「これは、嬉し涙なの。幸せだから泣いてしまうんだよ」 私が言うと、知樹の口許が笑った。・・・ように見えたけれど、実際は呼吸をするにも精一杯で冷静になんて見ていられなかった。 「・・・それだったら、俺も、泣くかも」 呼吸の合間に知樹がつぶやいた。私は知樹の頭を降ろして自分に寄せて、キスをせがんだ。答えるように唇が重なり合う。 きっと知樹は泣かないと思った。私の前では泣けないんじゃないかと。半年一緒に暮らしてきて、知樹の意地を理解できた。 だから。私は知樹の代わりにもっともっと涙を流したい。 私さえ知らない場所に知樹がいて、呼吸するのも苦しいくらいに、私の中が何かで満たされていた。それでも貪欲な私は、まだ足りないと知樹を求める。もっともっと近づいて、ひとつになって、私の全ての細胞を壊してほしいと願う。 どうして別の人間なのかな。この期に及んでそんな甘えたことを考える。だけど、別の人間だから、他人だから、ちょっとした距離で切なくなったり寂しくなったりして、だからこうして近づけたときにとても幸福を味わえるのかもしれない。愛おしく感じられるのかもしれない。 知樹の心臓が私の右腕に響いて、嬉しくて、苦しい。この鼓動が私のそれと同じリズムを刻むことはきっとない。だけど、ずっとずっと愛している。知樹が向かおうとしている道を、私も見つめたい。そして、私は私で自分の道を見つけて、自分の足で歩いていきたい。そのために私がすべきことを考える。 最後まで、私の嬉し涙が止まることはなかった。
半年。六ヶ月。二十四週間。私は知樹と同じ空間を共有した。 私の隣で眠る知樹を眺めた。明日もバイトだというのに、幸せに満たされて眠れない。 穏やか知樹の寝顔を見つめては、また溢れるような想いでいっぱいになって、どうしようもなくなって、気だるい身体を少しだけ起こして知樹の瞼にキスをした。それでも起きない知樹を見て、なおさら愛しい。 別にこれで会えなくなるわけじゃない。悲しいことなんてない。だけど、きっと一人でこの空間に帰ったとき、寂しくなる日もあるだろう。そういうときは寂しくなる自分を受け入れて、涙を流せばいい。そうしてまた迎える明日には、太陽が昇るはずだから。 タオルケットから出た知樹の肩に触れると冷たかったので、風邪をひかないようにその上にかけた。知樹の寝顔を見つめながら一度あくびをした私は、そのまま頭を枕に降ろして目を閉じた。もう秋がやってくる。 知樹の寝息のリズムが妙に心地よく聴こえて、それを聴きながら私も眠りに就いた。
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