8 超えられない無力さ


 由希が退院して二ヶ月が経った。八月も終わろうとしていた。
「なんか今日は涼しいね」
 七分袖のニット地のカーディガンを持って、由希は言った。
「どうせ昼にはまた暑くなるだろ」
「それも嫌だな。でも夏の終わりって、なんだか切ないよね」
 そう言いながら由希は鞄を持って玄関まで歩く。午前七時半。
「行ってきます」
「気をつけてな」
 ヒールのあるミュールを履いた由希が俺に笑顔を残して出て行った。今、由希は短期間のバイトをしている。簡単な事務職で給料も安いし、八月いっぱいで契約が切れる。だけど仕事が少し難しいけれどいろんな客に会う仕事ではないので精神的に楽だと由希は話していた。
 俺は朝の番組を見ながら牛乳を飲み干し、仕事に行く支度を始めた。


 由希と暮らし始めてもう半年が経とうとしていた。これまでに由希が一度家に帰ったり九州に逃げたりでいろいろなことがあったにしろ、半年。
 車に乗って、わずか七分で仕事場に着く。こうしてどんどん車社会に埋もれていく自分を自覚しながらも、それを改善しようとは思わない。怠慢のほうが勝るのも歳のせいだろうか。
 午前九時。
「おはようございまーす」
 太陽に負けないほど輝いた遥の笑顔に出会った。
「おう」
「今日は涼しいねぇ」
 まったくどいつもこいつも、と俺は笑う。遥の今日の私服は、五分袖のTシャツだった。もう真夏を感じさせない格好だ。
「油断していると昼間きついぞ」
「孝則って悲観主義者?」
「っていうか、物事を全て最悪に考えていけば、いつでも心はそれに備えられるだろ」
 俺が軽く言うと、遥は眉をひそめた。
「・・・そういう生き方って」
「ん?」
「そういう生き方は、辛くないの?」
「・・・・・・・・・・・・」
 遥の思いがけない質問に、俺は声を詰まらせた。
 そんなことは考えたこともなかったから。
「俺は、別に・・・」
 まさか子供の頃からそういう生き方を選んできたはずがない。きっかけがいつだったか考える。
「・・・逆に、覚悟をしておかないと、後で辛いから。受け止められる強さとか、持ち合わせていないから」
 遥は難しい表情のままでいる。俺はそんな遥に笑顔を向けて、更衣室に入っていった。
 いつの間にそんな保守的な生き方を選んでしまったのか、たった今指摘されるまで気付かなかったなんて。
 やはりきっと、初めて由希を好きだと思ってしまったときに身についてしまったのだろうか。悲しい性だけど、覚悟がないと生きていけない。


 その日俺は午後七時で仕事が終わり、車でマンションまで帰る。
 まだ由希は帰っていなかった。簡単に夕食を作り、そのまま置いておく。真夜中まで働くことも少なくない俺は、由希との団欒を大切にしたかった。
 小さな会社で働く彼女はときどき残業があるが、今日は連絡が入ってこないのでそのうち帰ってくるのだろうと思い、俺はテレビで夕方のニュースを見ながらソファに横になった。疲れが俺の身体を押しつぶす。
 時間の感覚を忘れた頃。
「・・・孝則、孝則ってば」
 ふと気付くと、由希が俺の顔を覗き込んでいた。
「あれ・・・、俺寝てた?」
「こんなところで寝たら風邪ひくよ? もう夜は涼しいのに」
 仕事から帰ってきたばかりの格好で、由希は言う。至近距離に気付いて、俺の心臓が壊れそうになる。
 由希がそのまま動かないから、俺は起き上がれない。
「・・・由希」
 自分で出した声なのに、掠れていてとても情けなく思う。
「何?」
「おまえ、邪魔。起き上がれないんだけど」
「・・・うん」
 返事とは別に、由希はそのまま至近距離で俺の瞳を覗いたままだ。見つめあう、という言葉が似合うこの状況。
 退院してからの由希はときどき俺を誘惑させるような仕草をする。もしこれが学園ドラマで、俺が主人公の男だったら絶対に「コイツ俺に惚れてんじゃねえの?」と期待をするようなモノローグが入るだろう。そのくらい露骨なのだ。
 俺の自惚れにストッパーをかけるのが、忘れてはいけない由希は妹であるという関係。そして、俺のネガティブ思考により、これは期待よりも恐怖になる。
 つぶらで汚らわしさも感じられない黒い瞳が俺を見つめる。その瞳に俺が映っているのが分かる。心臓が鳴り止まない。俺は震える手で由希の髪に手を伸ばした。退院してから少しだけ髪を切り、それでもまだ余裕で肩にかかる。さらさらのストレートの髪。由希の髪は、今のバイトをするときに染め直したので今は真っ黒だ。どうして女の髪は癒されるのだろう。
 由希は微笑んだ後、俺の手を丁寧にとってから立ち上がった。手が離れる。温もりが消える。
「台所にご飯あったけど、あれを温めればいいんだよね?」
「え・・・、あ、うん」
「あたしやってくるから、孝則はゆっくりしていて。疲れているんでしょ?」
 そう言って由希は背を向けて、軽い足取りでキッチンまで歩く。
 俺は呆然としていた。もどかしくて仕方がない。由希が妹ではなければ、きっと強引にコトを進めることが出来たかもしれないのに。・・・まあ、俺の性格で行けば多分そんな度胸はないだろうけれど・・・。
 これは恋じゃないとつぶやいても、その響きは虚しく消え、逆に自分の愚かな気持ちが一層強くなる。由希には否定されるし、逆効果だった。
 なぜ由希は今でも俺の傍にいてくれるのだろう。
 俺がテーブルの上に置かれたままの新聞や広告を片付けた頃に由希は皿に盛り付けた料理を持ってきた。
「孝則、相変わらず料理上手いねぇ」
「そうか? でもおまえがそうやって持ってくると、おまえが作ったみたいで少々腹立つな」
「それはまあ、妹を甘やかすと思って気を利かせてよ、お兄ちゃん?」
 由希はそう言って、皿をテーブルに置いた。
「新婚さんみたいだよね」
 冗談を交えながら由希は笑うけれど、俺は笑えなかった。
 そうだ、いつも由希は俺を浮上させて絶望へ突き落とす。敵が油断をさせてその隙に刀で心臓を突いてくるように。
 どうしてここで兄妹という関係を匂わせるのか。さっきまではあんなに俺を見つめていたくせに。
 だからいつまで経っても超えられない。
 俺は無力で臆病で、今だって由希に焦がれるけれど、倫理や道徳よりも、ただ俺が怖くて何も出来ないのだ。
 遥の言葉を思い出す。もし由希が俺を好きだったらどうするか。
 どうもしない。きっと信じられない。この片想いはあまりにも長すぎたから、だからその言葉に現実味がなくて、おとぎ話のようだった。
 食器の音がかすかに響く。
「やっぱり孝則の料理は美味しいなぁ。あたしが孝則のお嫁さんになりたいなぁ」
「・・・・・・・・・・・・」
 平常心を保って俺は無言でご飯を口に運ぶ。高校を卒業してすぐに一人暮らしをした俺にとっては、このくらいの料理はなんてことないけれど。
 どうにか俺の心臓を抑える。自分の身体の中の器官なのに、制御がうまく効かない。
 カチャリ、と音がした。由希が箸を置いたのだ。まだ食べかけなのに。俺が顔を上げると由希と目が合った。
 由希は一口水を飲んでそのグラスをテーブルに置き、ゆっくりと口を開いた。
「怒ってるの?」
 静かな口調だった。俺も箸を置いた。
「・・・・・・何を?」
 俺も静かに言う。声を抑えすぎてかすれた。
「あたしが、冗談でも孝則をお兄ちゃん呼ばわりすること」
「・・・別に」
「やっぱり怒っているじゃない」
 心の中を読まれた気がして、居心地が悪く、俺はぶっきらぼうに否定した。
「恋じゃないとか、そうやって否定ばかりしているからおかしくなっちゃうんだよ」
 俺は一瞬呼吸の仕方を忘れたように、ただじっと由希を見た。やがて苦しくなり、ゆっくりと酸素を吸い込む。由希は続ける。
「・・・あたしは、そうやっておかしくなったの」

 ―――聞き間違えたのかと思った。
 由希の、非難を表すようなその科白の主語は俺に向けられたものだと思った。だけど、由希は自分を指していた。
 その意味を理解するまで、そう時間はかからなかった。ただ信じられないのと、俺の耳がどうかしてしまったのではないかと、わずか数秒でさまざまなことを考え、そうしているうちに由希は自嘲気味に息をついた。
「胸騒ぎをするたびに、あたしは全てを否定した。孝則の気持ちさえも、嬉しかったけれど心の底では否定していたの。結局孝則は遥ちゃんと付き合っていたり・・・、それ以前にも彼女がいたみたいだし、ありえないよって言い聞かせて・・・。今だってそうだよ。あたしは、ときどき孝則との関係を口に出して言わなければ安心出来ないの。だって・・・」
 由希の頬に一筋の涙が流れる。だけどそれを拭うこともせずに、ただ強い視線を放って由希はつぶやいた。
「・・・あたしはこれ以上孝則を好きになりたくない」
 それはとても衝動的だった。ガタリ、と椅子の音を鳴らせて立ち上がった俺はゆっくりと由希の傍に寄る。由希は座ったままただ俺を見上げた。
 俺は由希と目線の高さを合わせるように立て膝になった。
「それは・・・、本当?」
 自分で出した声とは思えないくらい震えていて、自分自身驚いた。由希はゆっくりとうなずいた。
 涙で濡れた由希の瞳に怯えが交じっているのを見つけた。大丈夫、大丈夫。俺は自分に言い聞かせる。
「・・・本当に、本当か?」
「うん・・・、嘘だったらよかったのにね・・・」
 涙声で由希は笑う。俺の中の何かがぷつりと切れた音が聴こえた。
 椅子に座ったままの由希を、ものすごいスピードで抱き寄せた。あまりにも速かったために由希はそれに対応しきれずに俺に全体重をかけ、俺もバランスを崩してそのまま床に座りこんだ。
 由希を、抱きしめている。
 それは二回目だった。初めて抱きしめたのは、俺の気持ちを知って実家に帰った由希を迎えに行ったときだった。あの頃の由希はまだ久史のことを忘れられずにいて、だから俺も力加減を知っていたし理性が伴っていた。
 だけど今は。
 思い切り抱きしめるしか方法がなかった。この気持ちを伝えるために、この恐怖を伝えるために。
 そして、俺の中で何かが叫ぶ。由希を自分に向けさせたのは俺のせいではないのか? 由希にこの罪を与えたのは俺なのではないか?
 俺は、由希を共犯者にするつもりなんてなかったのに。
 どうしようもなく怖くて、幸せな瞬間だった。
 震えているのは由希ではなく俺なのかもしれないと、温もりを感じながら思う。どのくらいの時間を抱きしめ合ったのか分からない。それはとてつもなく長くも感じたし、一瞬だった気もした。
 どちらともなく離れて、床に座り込んだままお互いを見ていた。沈黙が流れる。俺の心臓の音が由希に聴こえているのかもしれないと思うと、苦しくなる。
 ふっと由希が笑った。まだ涙が流れていた。
「言うつもりなんて、なかったのに」
 そう言って涙を拭う由希の温もりをもう一度味わいたくて、俺は手を伸ばしかけたけれどやめた。その代わり立ち上がって、ソファに置きっぱなしの車のキーを手に取る。
「その辺、走ってくる」
「・・・・・・うん」
 まだ床に座っている由希は俺を見上げて、曖昧にうなずいた。俺は玄関に向かい、靴を履いてドアを開け、部屋を出たときに深く息をついた。
 この手に残る感触が消えない。
 あのまま無理やり由希を押し倒して、全てを奪ってもよかったのかもしれない。きっと由希は抵抗しなかっただろうと思う。そういう雰囲気を醸し出していた。
 だけど出来なかった。
 ・・・出来なかったのだ。


      
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